事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

男系継承の正当化根拠についての考察

男系継承の正当化根拠についての考察

純然たる私の論評として、天皇の男系継承の正当化根拠について思考した跡を残します。

もっとも、男系継承の正当化根拠について積極的に述べる必要はないということは過去日記で述べており、その見解は変えていません。

【1】男系継承を維持すべき消極的根拠として

本来、男系継承は歴史的伝統的に守られてきたという事実が重要であって、男系継承で続いてきたものが天皇家であるから、正当化根拠について論じる必要性もないし、論じてはいけない理由が山ほどある。

伝統以外の根拠論を展開することは、実は女系容認論者の土俵に乗っかっているのであって、そのような根拠論は、正当化根拠のグレードとしては、下位のレベルに位置する。なぜなら、そのような根拠論は往々にして時代背景の影響を受けているのであり、「現代においてはその前提を欠く状態となった」という反論を誘発させるに違いないからである。

しかし、男系継承がもたらす利点、すなわち根拠についての考察をすることは、女系容認論から天皇を守護する者たちにとっての行動の指針を与えることに一定程度寄与しよう。

したがって、おそらくこれから論じることは、男系継承を維持すべき積極的根拠ではなく、歴史的事実から推察される、男系継承を維持すべき消極的根拠という位置づけとなるに違いない。

【2】女系は存在せず、忌避されてきた

第一 「女系継承されてきた系統」という反対事実の不存在

この項で述べたいのは、女系継承を続けてきた何らかの系統は存在するのか?存在したとして、それはどの程度存続したのか?そのような系統に対する古今東西の評価はどうなのか?というものである。

これは明白に、そのような系統は淘汰されてきた、という歴史的事実があるに過ぎない、と思われる。女系継承を続けた何らかの系統について研究された歴史書、歴史学者を私は寡聞にして知らない。

もしかすると、これは現代(近代を含め)のあらゆる人類が世界史なるものを認識して以来、意識の外に置かれていたものと思われる。つまり、あまりにも男系継承が当然であり、女系継承が行われたのであれば、それは「王朝の交代」として処理され、「女系による系統の継続」という観念が不存在であったのではないだろうか。

不思議なことに、イギリス王室の女王陛下の御存在をもって、女系容認が世界的になされている、という誤解をしている者、誤解を広める者がある。しかし、国外の状況を持ち出して参考とする場合に本来目を向けなければならないのは、世界中でイギリス王室のような継承を行っているところは、一体どれほど存在している(していた)のか、ということであるはずである。

そもそも、イギリス王室にしても女系継承確定についての評価は王朝の交代とされている。

現在のエリザベス女王の後代についてはどのように評価されるのか、ということは、私の把握している情報からは判断できないが、ジョージ5世の息子の家系への王位継承が途絶えた場合には、エリザベス女王から始まる女系継承が確定し、王朝の交代と評価されるに至るであろう、ということが予測される。*1

このようにして、女系容認論者が依拠しうるような「事実」は、せいぜい男系継承が不可能であるという事情のみであるということがわかる。しかしこれ自体、女系容認論の消極的根拠ではあるが、積極的根拠にはなりえない。むしろ、日本を貶めるような活動を累次行っている国連女子差別撤廃委員会による、女系容認を認める決議案(日本の抗議で削除させた)が存在したように、女系容認を認めてはいけない根拠となる「事実」は枚挙にいとまがない。

女系容認論者が依拠している積極的根拠は「事実」ではなく、「理論」でしかないのである。その理論が何であるのか、その一端は「平等」というものであるが、これについては第二の2において簡単に指摘するにとどめる。

第二 女系継承による弊害として考慮されてきたと思われるもの

1 男性による外部からの侵略

言うまでも無く、ある集団の物的人的支配権能を有していたのは(少なくとも表面的には)男性であり、女性は家庭内の存在として生きていた。こうしたことから、ある家と家が婚姻関係となった場合女性の側が男性の側の家に吸収されるということがスタンダードとなっていた(婿入り、という形態もあるが、あくまで特殊なケースという位置づけだろう)。

このように、男性が女性の血統をいわば「上書きする」という観念が存在していたことから、女系継承は心理的に考えられないものであったに違いない。

ただし、ここで言いたいのは、そのような心理的抵抗感を超えて、男性による現実の家の侵略という危険が存在していたのではないか、ということである。

女性は家庭内の存在であり、物的人的権力を持たない存在だから、外部の家を取り込んで、その権威を簒奪するということがない(というより、そのような行動に出るための機会や力を持っていない)。

これに対して男性であれば、その有する力の全てを使って、ある家の女性を娶り、相手の家を乗っ取ることは可能であった。

単純な話、女系継承を継続したい集団がいた場合、当主たる女性が男系継承を是とする男性に負けたら終わりである。この可能性は、男系継承を是とする男性が、女性に負ける可能性よりも、遥かに高い。これは、上述の権威の有無を度外視したとしても、男性と女性の身体的特徴の差異からして、予測されることが明らかである。
(むしろそうだからこそ男性が権力を握っていたともいえる)

以上の考察からは、女系継承が行われなかったのは、女性を男性による侵略の対象から外し、守るためであったといえる。

なお、この結論は、現代ではそのような前提が崩れている、つまり、男性による女性の侵略は行われない現代では、通用しないという反論を招きやすい。

ただ、このような反論の対象は物理的暴力の話に限られるのであって、上記考察は、物的人的権力の有無の観点からは、依然として現代においても妥当するものと考えられる。

2 皇位継承を巡る内部抗争

「1 男性による外部侵略」の項で述べたことが、基本的にここでも妥当する。つまり、家の内部での継承問題においても、女性は物理的弱者であり、継承問題においては常に男性による物理力の餌食となるに違いないというものである。

仮に、女系継承、男系継承ではなく、第三局として女系男系の両系を是とする勢力があったとしよう。この家の内部で継承問題が発生したとき、女性と男性のどちらが勝つだろうか。自明の理であるが、敢えて言及しよう。男性が勝つに決まっている。

個の持つ物理的な力が他の力よりも優位であった時代において、女性をこのような抗争に巻き込むことは、愚の骨頂、と理解されていたに違いない。これは、女系継承を是とする家の内部においてもありうることである。

このようにして、女系継承、両系是認の両者の選択肢はとりえないものと理解されたものと考えられる。

もちろん、現代において、この問題はほぼ発生しないであろう。

しかし、「男系継承は女性蔑視である」という奇怪な論を展開する者に対して、このような面についての考察を経ているかどうかは、一つの試金石であるように思われる。

男系継承を差別と結びつける論の根拠となる理論が「平等」である。この点について論じることは主眼ではないのでここでは深く言及はしない。平等は権利を前提としているが、天皇は何らかの権利を得るものではないという点を簡単に指摘するにとどめる。

上述の私の考察に基づく反論を経た場合には、「現代において男系継承を維持することは女性蔑視である」という再反論を受けるに違いない。

この意見に対する有効な意見の一つが、「1 男性による外部侵略」であることはもちろんである(もちろん、何度もいうように、このレベルで議論することは避けなければならないが)。ただ、この場合は皇統の継承が「うまみ」や「権利」を得るものではないという本質的反論が奏功するように思われる。

【3】結論:男系継承の正当化根拠

以上にて検討してきたものについての言説は、あらゆる媒体においてその存在を見ることはない。それは、この論で何度も警鐘を鳴らしたように、女系容認論者に対して反論の契機を与える要素を含むものであることが原因と思われる。

保守の論各達は、賢明にもこのような立論を展開することは差し控えていたと思われる。たとえ順序だてて説明し、私の本論で言及したような考慮が持つ危険について警鐘を鳴らしたとしても、言葉は独り歩きするものである。邪悪な者が体系的言説から一つの立論を切り離し、それについての有効な反論をもって女系容認論の正当性を説くという手段に利用されることを、保守の論各は自覚しているかはともかく、避けてきたように思われる。

したがって、ここで述べたことは、基本的には外部に対して発信することは差し控えるべきであるということを、自覚的に記しておく。

ただし、同時に、男系継承護持者の主張の構造を幾分か明確にし、男系継承護持者の取るべき態度について適切な指針を提供することについては、この論によってある程度は成功したであろう。

相手の土俵に乗った安易な反論を自覚的に避け、自己の言説の受け止められ方、広まり方に思いをいたしながら行動することを心に誓おう。同様の態度を他の者に説くことのできるよう、今一度自己を戒めて、本稿を締めくくりたい。

了 

あとがき

この論稿を書こうと決めたのは、次のような状況を目にしたからである。

すなわち、男系継承を是とする者の中に、女系容認派からの批判として「男系継承をすべき積極的根拠は何か?」と問われた時に、自信を持って反論することができない者が散見されたということ。また、識者においても、説明の仕方が不十分であり、客観的には強引な論を展開しているという印象を与えてしまっていると感じたことである。

このことについて本稿を書く前段として、先日の日記において「消極的根拠」について言及した

「歴史的にそうなっていたから」「これまでもそうだったから」

などという物言いそれのみでは、「現状変更を許さない頭の固い偏屈な者」、という印象を持たれても、ある意味仕方のないことだと思っている。

しかし、そのような状況が存在しているということも見過ごしてはおけない。

そこで、自信と誇りをもって「歴史の叡智」「人類の知恵の集積」を根拠として説明することのできる「武器」を明確にしたかったのである。そして、この武器を使用すべきシーンは、何も皇統の男系継承について論ずる場面だけではない。

人間の「意思」や、「理性」、「設計主義」を過度に重視する見解から私達の認識を護る必要がある。

本稿はこの点についての有効な、汎用性のある思考様式を示すことにもなると思われる。 

以上