事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します

無罪推定(推定無罪)原則と国民主権による説明責任(アカウンタビリティ)と情報公開

無罪推定原則と国会、政府

「無罪推定原則(推定無罪はマスコミ用語)は権力者に対する批判には適用されない」

結論から言うと、この見解は一応は正当です。しかし、実は危険な思想に繋がっています。また、権力側に対して疑惑を追及する側が「説明責任論」を持ち出すこともありますが、これについてもフェイクが蔓延しているのではないか?と私は考えています。

この記事は私の自説を多く含みますが、まずは無罪推定原則と説明責任について定義を整理し、現実社会でどのように考えていくべきかについて検討していきます。

無罪推定(推定無罪)原則とは?

「無罪推定原則」とは法律用語です。他方、「推定無罪」はマスコミ用語です。

両者の違いは当該原則を守るべき「主体」の違いです。

無罪推定原則

刑事手続において国家機関(捜査機関)が守るべき原則です。意味は「検察官が被告人の有罪を合理的な疑いを超える程度に証明しなければ、被告人は有罪とされない」というものです。*1

  1. 挙証責任の分配:有罪の挙証責任は検察官にある
  2. 証明水準:有罪立証には合理的な疑いを超える証明が必要

無罪推定原則は、上記2つを内容としているということです。

このうち1は「悪魔の証明」論にもつながってきます。

根拠規定は憲法31条、人権B規約14条2項に明文規定があります。

市民的及び政治的権利に関する国際規約(B規約)

刑事訴訟法336条にもこの原則を前提とする規定があります。

このように、無罪推定原則を守るべきなのは国家機関・捜査機関であって、守られる者は国民です。

推定無罪という不文規律

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推定無罪という用語は法律用語ではありません。主に刑事事件の容疑者や被告人に関する報道をする際の表現の規律を表すものとして用いられてきた用語です。

つまり、無罪推定原則は刑事裁判のルールだけれども、報道においてもそのルールの「精神」を尊重しましょうという認識が一般に広まっているということです。これについては異論の余地はないと思われます。

一般の場面において用いられる推定無罪には定まった定義はありませんが(そもそもが学術用語や法曹実務用語ではないので)、無罪推定原則の定義を裁判の場面に限らない、より一般化した意味があると言うことは間違いないでしょう。

裁判から離れた意味での推定無罪を定式化するとすれば、「疑惑をかけられた者が積極的に何かを立証するのではなく、疑惑をかけた者が一定の根拠を示しなさい」「その根拠は客観的に見て合理的であり相当の水準が求められる」と引き直すことができると思います。

刑事事件以外の場面での無罪推定(推定無罪)の不文律

刑事事件の報道における規律としての推定無罪について論じてきましたが、刑事事件以外の場面ではどうでしょうか?刑事事件ではないからといって、上記の一般的ルールを無視して良いでしょうか?

ここは定まった見解があるわけではないです。ただ私は、「疑惑をかけられた者が積極的に何かを立証するのではなく、疑惑をかけた者が一定の根拠を示しなさい」「その根拠は客観的に見て合理的であり相当の水準が求められる」というルールは普遍的なものであり、刑事事件でなくともあらゆる場面において基本的に妥当するものとして国民が守るべきである、と考えます。

例えば、刑事事件に発展していなくても(逮捕や告発に至っていなくとも)、ある人物(Aとします)が犯罪を犯したかのような怪文書が広まったとします。ネット上での書き込みでもいいです。顔写真と所属、出身、身体的特徴、家族構成が晒されたとします。

そして、報道の場面ではないという場合です。この場合に、 Aが犯罪者であることを前提とした言論をして良いでしょうか?

「この場合は刑事事件ではないから~~報道ではないから~~いいがかりでも 何でも許されるんだ~」

こんな意見を言う人はほとんどいないと思います。

このようにして、無罪推定(推定無罪)原則はその本来の使用場面を越えて、その精神が一般的に容認されるルールにもなっていると言えます。そもそも、裁判上の無罪推定原則も、一般的に容認されたルールから拝借して形成されてきた可能性もあると考えられます。

或いは、このような言い方が不満なら、「無罪推定原則と類似したルールが一般的に流通している」とでも言えばいいでしょう。

政権批判は無罪推定が適用されるか?

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以上みてきた理解を前提に検討します。

訴訟で使用されている意味での無罪推定原則は適用されない

無罪推定の根拠規定は刑事手続を前提にしていますし、国連の人権条約も「人」を守るべき対象にしています。「罪」に問われるのは「人」であり、国家機関は人ではないですから、国家機関が憲法31条等の無罪推定原則そのものによって守られる対象になることは在り得ません。しかも場合によりますが、政権批判は必ずしも政権側の誰かに刑事罰を受けさせようとするものとは限りません。

「訴訟で使用されている意味での」無罪推定原則は、政権批判においては適用されないということになります。

したがって、安倍内閣、安倍政権(人ではなく国家機関に対するものだから)に対する批判をする言論に対しては無罪推定原則そのものを守れと言うことはできないことになります。他方、外務省職員個人に対する罪の追及に関しては無罪推定原則そのものの話ですので妥当します。

したがって、財務省の事務次官個人のセクハラ疑惑についても、完全に刑事手続上の無罪推定原則が適用されますし、報道は推定無罪原則に基づいて報道しているはずです。

しかし、政権批判が単なるいいがかりによっても可能である、というのはおかしいというのは当然の感覚です。これに対する反論は以下で述べます。

無罪推定原則の「精神」は適用されるべき

報道における推定無罪原則と同じようなものです。

既に見てきたように、無罪推定原則の精神は一般的に容認されているルールであり、刑事事件の場面や報道が主体ではなくとも適用されるべきものであるということは述べました。

これは「べき論」であり、定まった答えがあるわけではありません。しかし同時に、この見解を否定する何らかの法規が存在するということもありません。単に法律の規定がなく、裁判等で認定されたり内閣で閣議決定されたりしたものではないというに過ぎません。

以上のことから、たとえ国会質疑であり相手が国家機関・政権側であったとしても、「疑惑があると言うならその者が一定の証拠に基づいて追及するべきであって、客観的に見て合理的で相当の説得力が求められる」という事になります。

繰り返しますが、これは「無罪推定原則そのもの」ではありません。ありませんが、その趣旨や精神を別の場面でも尊重するべきであるということです。

ここで、政府の説明責任を根拠にあらゆる負担を政府に求める見解がありますので、説明責任を見ていきます。

「説明責任(アカウンタビリティ)」について

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富士山とスカイツリー © 市川市 Licenced under CC BY 4.0

政治(政府)の説明責任という言葉はよく聞きますが、根拠があいまいに論じられていることが多いです。しかし、今では一般的に受け入れられている概念です。

国民主権に基づく説明責任(アカウンタビリティ)

政府の説明責任は、憲法が国民主権の立場であることから導かれる政府の責任であると言われます。どういうことか。

まず、国民は国家統治のために選挙で国会議員を選びます。このときに行政が行ってきた諸活動や内閣の政策を判断できる情報が公開されなければ、候補者の誰が国会議員としてふさわしいのかの判断ができません。よって、政府の側は国民に情報を開示する必要があるという認識が広まっていました。

国民の信を得て職にあたっている国会議員によって構成される「議院」(議員ではない)の国政調査権(憲法62条)も、この国民主権を確保・行使するためにあると言う事ができます。

では、政府が国民に情報を開示する必要があるとしてもその根拠はどこから導かれるのか?議論の当初は「知る権利」によって政府の説明責任を導き出す見解が試みられましたが、表現の自由という消極的権利から請求権を導くことは困難であるという分析がありました。

そこで、国民と政府の関係を信託関係と捉え、主権行使の信託を受けた政府が信託上の義務として説明責任を負うと考えられました。これはアメリカの政治信託理論を参考にしているとも言われます。行政法学者の塩野宏氏の見解が参考になります。

第136回国会 内閣委員会 第7号 平成八年五月十六日
kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/136/0020/13605160020007c.html

こうした議論を踏まえて制定されたのが情報公開法1条の目的規定です。

第一条 この法律は、国民主権の理念にのっとり、行政文書の開示を請求する権利につき定めること等により、行政機関の保有する情報の一層の公開を図り、もって政府の有するその諸活動を国民に説明する責務が全うされるようにするとともに、国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的とする。

これが一般的な見解であることの傍証として、「説明責任 国民主権」で国会議事録で検索をかけるとそれなりにヒットします。ちなみに、内閣の国会に対する政治責任を定めた憲法66条3項が説明責任の根拠になるという説もあるようですが、「説明責任 憲法66条」で国会議事録に検索をかけてもヒットは0でした。文言上も、説明責任を導くにはほど遠いと思います。間違いと言い切るのはやや危険だと思いますが、おそらくあまり受け入れられていない説か、議論の途中で淘汰された見解かと思われます。

注意すべきは、国会での追及の際に必ずしも情報公開法が適用されるのではないということ。議院の国政調査権に基づく証人喚問等の発動は議決で可能というだけであり、それ以外に法的な要件があるというものではありません。

法的な要件がないということであれば、それは議員各人の倫理観・道徳観に基づいて行われると言うことになります。

情報公開法1条から見る説明責任

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只見川第一橋梁 © Koichi-Hayakawa Licenced under CC BY 4.0

情報公開法1条には「国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的とする」とあります。政府の説明責任の履行によってはじめてこの状況が確保できるということですが、果たして国民の側が「なんでもいいから情報を公開しろ」と言うことは「国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政」に資するでしょうか?

具体的には、昨今の文書問題では出所不明な「怪文書」に過ぎないようなものや、根拠不明の新聞・週刊誌報道に基づいた議会での質疑が行われています。森友・加計疑惑捏造問題・豊洲移転延期問題などで現実に起こっている問題です。このような脆弱な「根拠」に基づく情報公開の要求は、果たして「公正」と言えるのでしょうか?

政府(政治)の側に適切な説明責任を求めるのであれば、それを求める国民(行政外)の要求もまた(一定程度は)適切でなければならないとは言えないでしょうか?もちろん、国民には情報を得る力が相対的に低いですから、政府の側に求められる程の厳密さは国民の側には求められるべきではないと思います。しかし、そうだとしても、証人喚問などは議院の国政調査権に基づいて行われるのであり、情報を得る力は相当程度あるのですから、疑惑を追及する側にはそれなりの合理性のある根拠(証拠)に基づいて行われるべきではないでしょうか?

「政府の説明責任がある。だからぜ~~んぶ説明せよ!」

などというのは、いいかげんであり傲慢ではないでしょうか?

国民の側にも(ある程度)的確な要求があって初めて情報公開をする義務が生じると考えるべき、というのは一般的だと思われますが、どうでしょうか?そして、このような見解は憲法の国民主権や情報公開法の目的においても排斥されていないハズです。

情報公開請求は国民主権の根幹をなす選挙・投票に資するのであるから、それ自体「国民の政治参加」の一環であると考えられます。情報公開請求の根拠を導いたのが政治信託理論であったとすれば、一度は信託によって国民主権の行使を政府に投げたものを一部自己の側に引き戻すのが情報公開請求と捉えることが可能です。そのような「国民の政治参加」である以上、その行為もまた(一定程度は)的確でなければならないとするのは理論上も肯定できると思われます。

「丸投げの信託」など在り得ないのですから。

国民主権と政府の情報公開

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千本鳥居 © iku Licenced under CC BY 4.0

現行の憲法は、一応は国民と国家機関・政府を別主体として分けて規定しています。

だからこそ「憲法は国家が国民の権利を侵害しないように国民を縛るものだー!」という論が出てくるのですが、それは一応は正しいとしても貫徹されていないということは以下の記事で指摘しました。

ここで疑問に思うのは「国家機関を構成する人も国民だよね?」というもの。

確かに憲法上、別者として規定されては居ますが、現実を考えればこれは極々当たり前の話です。しかし、なぜか憲法や法律の議論になるとこの点が見過ごされています。憲法が先にあるのではなく、現実がまず先にあるのだということを認識するべきです。

したがって、国民によって構成される国家機関に対して情報公開を求めるのであれば、要求する側も相応の態度が求められるというのは至極当然ではないでしょうか?

国家と国民は対立する関係だ!」と捉えてしまうから「どんな方法でも説明を要求してもいいんだ!」という言説が振りまかれるのではないでしょうか?そういう態度だから、質問通告の期限が国会質疑の前日の17時と決まっているのに、深夜0時を過ぎても通告しない議員(主に立憲民主党や民進党など)が出てくるのではないでしょうか?

国家機関の一員であり国民でもある官僚の時間を奪い、睡眠時間を削り、疲弊させる。このような非道が行われているのは、国家と国民が対立するという世界観のせいであるというのはそれなりに当たっている気がします。共産主義者の階級闘争史観はその典型ですね。

国家と国民が一体であるという世界観が、むしろ我が日本国の悠久の歴史が醸成してきた国家の在り方ではないでしょうか?我が国は古来から国家元首と国民とが一緒に考えて政(まつりごと)を行ってきたのですから。

説明責任と「無罪推定原則の精神」は相互排他的ではない

別の観点から。

説明責任が政府にあるとしても、「無罪推定原則の精神」が排除されるいわれはありません。両者は相互排他的なものではなく、両立するものであると言えます(排他的であることの根拠を示す論は見たことがない)。

国家機関に属し行為するのは国民なのですから、国家機関の情報公開を求める際にも「無罪推定原則の精神」が考慮されるべきであるというのは、この観点からも正当化可能ではないでしょうか?

これは法的な話しではなく、倫理・道徳の話と言える範囲の話です。

ただ、この点を意識するのとしないのとで、相手から「説明責任だー!」と迫られた際の肝のすわりようが変わるのではないでしょうか。安易な迎合はなくなるはずです。

だれが「適切な要求・批判か」を判定するのか?

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平久保崎 © 石垣市 Licenced under CC BY 4.0

では、誰が「ある程度の・一応の要求」であるかを判断するのか?政府に対する批判が適切であるかを判断するのか?

まさにそれは国民(有権者)です。

だからこそ選挙があるのです。適切かつ有益な議論をしない議員を選ばない。そのために選挙権の行使があるのです。

まとめ

  1. 無罪推定原則そのものは政権批判には使えない
  2. ただし「無罪推定原則の精神」は一般的に妥当するので政権批判者に求めるのが可能
  3. 政府には説明責任があるが「無罪推定原則の精神」とは相互排他的ではない
  4. 国家と国民を対立関係とみるのは我が国の歴史からして相容れない
  5. 信託理論からも、説明責任を求める側にも相当の妥当性が求められる

多くの国民が上記に示した説明責任と国民主権の関係、無罪推定原則の精神を理解すれば、より有益な議論が行える議員、国益に適う国会質疑が行われるのではないかと思います。

以上

*1:刑事訴訟法 上口裕 成文堂