事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

【フェイクニュース】「タイヤチェーン装着義務化」報道のデマ

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「タイヤチェーン装着義務化」という言葉が報道を飾っています。

意図的なフェイクニュースなので気を付けましょう。

国土交通省が一次ソースですのでそれを確認していきます。

タイヤチェーン装着義務化の時期と区間

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大雪時の道路交通の確保に向けた取り組みについて(チェーン規制の検討状況)では、チェーン規制の「時期」として【大雪特別警報や大雪に対する緊急発表が行われるような異例の降雪時】という限定があります。

そして、最も重要なのが今回の「規制」の趣旨の説明です。

「従来であれば通行止めとなる状況においてタイヤチェーン装着車のみ通行を可能とするもの」

つまり、平時からチェーン装着義務化をしているのではなく、特別な状況下においてこれまでは通行止めになっていた道路を、チェーン装着している車だけが通行可能になるという、実は「通行拡大方向」への運用変更であるということです。

「規制」という言葉だけ見ると通行制限がかかるかのように考えてしまいますが、逆なのです。

これは報道発表資料でも同様の文章が掲載されています。

大雪時の道路交通確保対策の提言 中間とりまとめ

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http://www.mlit.go.jp/common/001234888.pdf

この図の「Ⅰ」の三つ目の〇部分で、「集中的な大雪時でも、通常時と比べて利用台数に大きな変化が見られないため、冬季の道路交通を取り巻く環境は非常に厳しい状況」という問題意識があります。

この認識に立ってタイヤチェーン装着車に限って通行止め区間を限定的に通行可能にしたということです。当然、チェーン装着していないと危険であり、事故によって交通に混乱をもたらしますから同時に罰則を設けるということとなったということです。

この大事な観点が、報道では全く触れられておらず、むしろ無視されています。

報道各社は時期を意図的に省いたフェイクニュース

タイヤチェーン装着義務化 全国の13区間公表 | NHKニュース

報道各社は、何故か「チェーン装着義務化区間」だけを報じており、実施される条件である「異例な大雪によって従来通行止めとなっていた区間」という点を無視しています。

このため国土交通省は、大雪が予想される際には過去に大規模な立往生が発生した区間などで、タイヤへのチェーンの装着を義務づけることにしていて、対象となる全国の13の区間を公表しました。

この記述では、通行止めとなっていたものをチェーン装着車限定で解放するという要点が伝わりません。

まるで通常利用されている道路において立ち往生が起こっているから、チェーン装着を義務付けるという、利用者に一方的に負担をかけるかのような印象を持ってしまうでしょう。

実は、11月にこの話題が持ち上がったときには、NHKはきちんと検討されている運用について、正しく報道していました。

News Up タイヤチェーン義務化 通行禁止ってほんと? | NHKニュース

つまりNHKは意図的に要点を省いて混乱させる目的で本日の記事を書いていると思わざるを得ません。

こうした報道のせいで、ネット上では「チェーン装着義務化よりもスタッドレス装着義務化が先だろ」という勘違いが多く生まれています。

まとめ:規制区間のみ報じるフェイクニュース

  1. タイヤチェーン装着義務化の条件が大雪時という限定がある
  2. 従来は大雪時に通行止めになっていた区間でチェーン装着車限定で通行可能という方針
  3. 「規制」の目的は冬季の交通混雑の緩和
  4. これらは報道発表用資料で容易に確認可能
  5. 報道機関はタイヤチェーン装着義務化の条件や運用改正の趣旨を意図的に省いて報道
  6. NHKは過去には正しく報道していることから悪質な印象操作

要するに「国は無能」という印象を与えたいのでしょう。

報道機関はこうやって印象操作に余念がないですね。

臨時国会の報道でもそうでしたが、これが憲法改正の発議の局面になったらどうなるかと思うと、ゾッとしますね。

以上

朝鮮人戦時労働者(徴用工)と女子勤労挺身隊裁判で韓国最高裁が三菱重工にも賠償命令

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元徴用工訴訟、三菱重工に賠償命令 韓国最高裁 :日本経済新聞

新日鉄に続き三菱重工の裁判においても韓国大法院が賠償命令の判決を出しました。

企業が変ろうが、原告が変ろうが、この件は日韓請求権協定で解決済みだという結論は変わりません。国際合意を破る判決は許してはなりません。

ただ、日本国内ではマスメディアと弁護士連中が国民を誤魔化し、誘導しようとしているので改めて整理します。

「徴用工」という用語の罠

「徴用工」という用語法が一般的にメディアで踊っていますが

正しくは「朝鮮人戦時労働者」や安倍総理が言うように「朝鮮半島出身労働者」です。

また、「朝鮮人戦時労働者」の種類は大きく4種類に分けられます。

1つは純然たる自由意思による個別渡航。

もう一つは国家総動員法に基づくものですが「募集」「官斡旋」「徴用」があります。

このうち本人の意思を乗り越えて労働力とするのは「徴用」です。
※「実質的に強制力を伴っていた例もある」という主張もありますがこの件に関しては無視できる事情です

先日の新日鉄に対する判決の原告は「募集」に該当する者です。

「徴用工」という用語法は本来は不適切です。

戦時徴用でも無関係

さて、こう説明すると、以下のように言う者が出てくる可能性があります。

『今回の原告は国家総動員法の「徴用」に該当する者だから韓国の判決は正当だ!』

しかし、これも成り立ちません。

仮に今後出てくる原告が「徴用」に該当する者であっても、それも含めて日韓請求権協定で解決済みの話です。それは被告企業が変わっても同様です。

この点を惑わす発信をしている輩はお察しなので注意しましょう。

「個人の請求権は残っていると日本政府も言っている」という誘導

共産党界隈で「河野大臣が個人の請求権があると認めた!」と湧き上がっているようですが、これも世論誘導のごまかしです。

河野大臣が説明しているように、「個人の請求権は残っている」というのは日本政府は昔から言ってました。何か「最近になって新たに認めた」かのように誘導する輩が居ますが、そういうことではありません。

【請求権はあるが、日韓請求権協定の効果によって相手国側への提訴によっては救済されない】

これが正しい理解です。

まとめ:企業の倫理観が大切

「個人の請求権が残っているということは、企業が自発的に補償しても何ら問題ない」

北朝鮮・韓国に親和性のある弁護士連中は、この点を強調してきます。

日本政府はこんな主張に騙されません。

つまり、今後韓国側から提訴されるであろう企業の従業員・役員・株主に宛ててその認識を誘導しているのです。

「可哀想だからお金を渡してもいいか」

「法的に禁止されているわけではないからいいか」

このように企業の中の人間が思うように世論誘導を仕組んでいます。

三菱マテリアルがこのような誘導にまんまと乗っかって補償をしてしまいましたが、本来支払う義務のないことに対してお金を払うとなると、今後も何かと理由をつけられてお金を支払わされることになります。

ヤクザのみかじめ料の要求と同じです。

そういう不当な要求には屈しないという九州の商店街の方々の努力と同様、日本企業も高い倫理観を持って一致団結して不正に譲渡することがないよう努めていただきたいものです。

以上

朝日新聞が韓国大法院長官への火炎瓶投擲報道をこっそり修正:徴用工判決と強引に結びつけ

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https://www.asahi.com/articles/ASLCW3C6GLCWUHBI00P.html

韓国最高裁長官の車に火炎瓶 70代の男、訴訟に不満か:朝日新聞デジタル

朝日新聞が飛ばし記事による事実関係を誤認させる記事を書きました。

現在は修正されていますが、未だに読者に誤解を誘導させる構成になっています。

どういうものだったのかみていきましょう。

韓国大法院長官への火炎瓶投擲は徴用工判決が関係?

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http://archive.is/XwCr1

上記は11月27日の11時頃にUPされた朝日新聞の記事です。

UPされて間もなく魚拓が採られていました。

タイトルには「元徴用工裁判で混乱続く」という断定調の文言があります。
※徴用工という用語も間違いで、本来は「朝鮮人戦時労働者」です。

しかし

現在の記事は当初のものからタイトルが修正され、内容が一部追加されています。

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https://www.asahi.com/articles/ASLCW3C6GLCWUHBI00P.html

こちらは現在のものです。

タイトルに「70代の男、訴訟に不満か」という文言に変わっています。

また、「韓国メディアによれば、男性は自身が関与した訴訟結果に不満を持ち、数カ月前から大法院近くで抗議活動を続けていたという。」という一文が追加されています。

「数か月前から」ということは、徴用工に関する判決は無関係だろうという推認が強く働くということになります。

中央日報は火炎瓶投擲をどう報じているか

他方、韓国メディアの中央日報は火炎瓶投擲事件を詳細に報じています。

大要、ナム容疑者(74)が、自分の経営する農場で豚の飼料を作成し、販売認証を得ようとしたが不適合とされたことを不服として訴訟提起していたが、大法院で敗訴した恨みがあったということが報じられています。

徴用工訴訟、全く関係ありませんね。

容疑者の年齢からも戦前の徴用工とは無関係だということがわかるでしょうし、韓国人らしき名前なので、「徴用工判決に怒ったため」という関係を連想することもありません。

ということで、朝日新聞のタイトルは壮大な事実誤認でした。

しかし、記事には修正した旨の記載がありません。

朝日新聞が徴用工判決と強引に結びつけ、誘導している

ここで、現在の朝日新聞の記事をもう一度見てみましょう。魚拓はこちら

修正後であるにもかかわらず、男の名まえと年齢、訴訟の内容は書いていません。

「男が火炎瓶を大法院長に投げつけた」という事実から、なぜか徴用工判決と関連付けようとしているということです。そして、詳細な事実関係が分かった後も、読者にそう思わせようと誘導しているということが分かります。

男の名まえすら表示しないという点からは、何やら「日本人や新日鉄側の者が不満に思ってやったのではないか?」という可能性を読者に想起させたいのではないかと訝しむ者も居るのではないでしょうか?

記事の後半には「徴用工」判決にまつわる韓国政府の動きを載せて居ます。

「読者に想像させる」クオリティが高いペーパーですね。

 そういう手法は毎日のように行われています。以下がその典型例です。

それにしても、何でもないふつうの訴訟の結果ですら火炎瓶を投げつける韓国人の民度っていったいどうなっているのでしょうか?

そういえば、日本でも「火炎瓶」というワードにやたら心躍っている輩が居ますが、何やら関連性を感じざるを得ません。

火炎瓶の火がナム容疑者の体にも火がついた

韓国最高裁長官の車に火炎瓶投げた理由…「豚の飼料のため…」中央日報

火炎瓶についた火が乗用車のタイヤに移り、ナム容疑者の体にも火がついた

身から出た錆ならぬ身から出た火でしょうか………

南無

以上

日本国紀の評価・評判、問題点と読み方のすすめと「隠しテーマ」

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何かと話題の百田尚樹の日本国紀。

形式面での批判が相次いでいることは承知していますが、作者の評価から離れた本書の「価値」と「攻撃力」について感想を述べていきます。

百田尚樹の日本国紀の目的:通説への異論を積極的に示す

本書はいきなり継体天皇の皇位簒奪説の見解を示します。
私は皇位簒奪説は違うと思っていますが「そういう推論がなされているのだな」と勉強になりました。

これには面喰った者も多かったようで、アレルギー反応を示す者が多発しました。

ただ、SNSを概観すると、それは本書が「保守の立場に貫かれて書かれているハズだ」という期待の元に読み進めた結果のように見受けられます。

本書は「一般に流通している見解に臆することなく疑問を呈する書」です。

通説と異なる学説の紹介、通説と異なる自説の見解を述べる箇所が所々に存在します。

たとえば関東大震災時の朝鮮人殺傷人数として司法省の「刑事事犯調査書」における233人という数字を示して6000人説に疑義を呈しているように、一般の歴史本・歴史教科書の記述に対しても積極的に否定している箇所があります。

多くの歴史本では、233人というベースとなる数字が示されていません。
※ただ、最近の中高の歴史教科書では「多くの人が殺された」という表現になっているものもある

その見解自体の信憑性はともかく、一般人が当たり前だと思っているであろうことや確定的事実であると思いこまれていた事柄に対して、百田尚樹が突っ込みを入れていく。

それを受けて調べる読者が出てくるという効果も期待しているのだろうと思います。
なお、皇室に対して如何なる批評も許さないという態度はこちらの記事のような建設的な主張をも封殺することになり、むしろ弊害が大きいと言えます。

歴史学界隈への攻撃:日本人の歴史を取り戻す

日本国紀には参考文献が無いから信用できない!

こう噴き上がる者が居ますが、歴史教科書には参考文献の記載は無いですし、一般の歴史本でも記載が無いか、主要参考文献の提示にとどまるものがそれなりにあります。

百田尚樹の新刊「日本国紀」に参考文献が載っていない件について - 事実を整える

通史の「正当な」歴史書ですら「事実のみを記載している」 ということはありません。

事実のみでは中学校の教科書のように「〇〇年、△△がありました」という出来事の羅列になってしまいます(それでも教科書には推論や評価は含まれている)。

参考文献が膨大に示されている通史の「正当な」歴史書においても、参考文献が示されていない文章中で、なぜそのような推論になるのか不明な箇所はいくらでもあります。

特に、朝鮮関係の記述においては日本が「悪者」であるかのような記述ぶりになっているなどその傾向が顕著です。

上記の関東大震災について言えば、数千人説を肯定する者は朝鮮人被殺者数においては証言を絶対的な根拠にし、朝鮮人による犯罪者数においてはただちに証言は信用できないとするダブルスタンダードがあります。 

そのような非合理的な推論が通説となっているということは多いのです。

歴史学界の問題点

「 韓国の徴用工問題の背後に広がる深い闇 ネット媒体も駆使して実態を伝えたい 」 | 櫻井よしこ オフィシャルサイト

西岡氏は語る。
「60年代に日本の朝鮮統治は犯罪だったという研究が始まっているのです。その典型が『朝鮮人強制連行の記録』という朝鮮大学校の教員だった朴慶植氏が書いた本です。彼の弟子だった人が、いま東京大学の先生になったりしています」

歴史学界には、明らかに日本国の立場に立たない者が跋扈しており、世の歴史本にはそのような者による視点が多分に取り入れられているという現実があります。

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東京書籍 小学校社会科教科書 参照:http://deliciousicecoffee.jp/blog-entry-7302.html

「朝鮮の人々のほこりが深く傷つけられました」

こんな評価はいったい誰の視点なのでしょうか?

当時の朝鮮は清の属国状態だったものを日清戦争の結果独立し、その後併合せざるを得ない状況になったのです。

そりゃあ朝鮮人の視点からすれば自主独立ができなくなったのですから悔しいだろうし、反骨心を持っていたとしても自然でしょう。

しかし、日本としてはそれが最善だと思って韓国を併合したのであって、そこに人道的不道徳があったかのような記述があるのは異常です。

歴史的「事実」についての説がどうであるか、ということ以外にも、このように「冷静な視点」を装いながら意味不明かつ歴史教育に不必要な「評価」があるのが歴史学界、歴史教育の現状です。

日本国紀自体では紙幅の関係で詳細な検討はできません。

しかし、本書によって初めて通説以外の考え方を知ることができた者が、通説に疑問を持ち、別の見解を調べ、自分で調査するということもあるかもしれません。

歴史学界の体たらくによって日本人の手から離れた日本の歴史を取り戻す。

日本国紀にはそのような行動を喚起する攻撃力があります。

歴史教科書、歴史学界の問題点の具体例

『最近「元寇」「蒙古襲来」という言葉は否定的なニュアンスがあるからモンゴルや中国に配慮して使わない流れになっている』という旨が日本国紀で触れられています。

「蒙古」については近代以降、日本国がモンゴルに配慮して公的には使用しないという選択を行ってきた経緯がありますが、文永・弘安の役当時の呼称はそうであったのであって、歴史用語として使用する分には正当です。
参考:百田尚樹『日本国紀』に書かれた「蒙古」 : モンゴル情報クローズアップ!

それを言うなら「倭寇」「倭国」という言葉も侮蔑の意味合いが含まれているので使用するべきではない、という話になるはずなのですが、そういう動きはありません。

こうした歴史用語に関するダブルスタンダードも日本国紀には書いてあります。 

日本通史をとにかく読ませる

日本国紀の記述ぶりは意外にもあっさりしています。

本書の構成は、日本通史を最初から最後まで「読ませる」ためにこのような書きぶりになっているのではないかと思います。

1ページあたりの文字数は学術的な書籍に比べれば少ないです。

文字を大きくしているためですが、「文量に圧倒される」ということがありません。

読者がどんどん読み進めようと思うことを企図していると感じました。

学校の教科書以外で日本通史を概観する機会を持っている人は希少でしょう。

書店での日本通史を扱っている書籍を探しても岩波・山川など多くは自虐的な視点での評価が入り混じっているものしかありませんから、こういう構成の本は貴重なのです。

また、世の「通史本」は通説や編著者の自説を軸に書かれているものがほとんどです。

通説に対して異論を唱えるためには本来、それなりの文量を割く必要がありますが、そうすると特定の主題を扱う書籍や限定された時代を扱う書籍にならざるを得ません。

教科書のように無味乾燥且つ日本ではない視点に立った記述があることによって、読み進めることや繰り返し読むことが苦痛なものではなく、一種の爽やかさを覚えながら読み進めることができます。

「自分に都合のよい見解しか知りたくない者が読むんだろう」

という声が聞こえてきますが、既に述べているように日本国が嫌いな者の見解が跋扈している状況下において、評価の違いでしかないもので嫌な気分になる書籍とそうでない書籍とどっちが読みたいですか?という話です。

また「内容が薄っぺらい」という評価をする者も居ますが、歴史書籍の価値を「情報量の多さ」でのみ測ろうとする狭量な視点に過ぎません。

通史を見渡すことで感得するものを伝える

SNSを見ると「歴史通」の人たちが細かい記述について「この記述が無い」「この説明は間違っている」とあげつらっていますが、その多くは『ぼくがかんがえたさいきょうのれきしほん」と違う!』という態度に過ぎません。 

枝葉末節に引っかかって読み進められないという人は読み方を変えるべきです。

ここで「通読すると何が見えるのか?」を明言することは本来控えるべきものですが、私が感得したものの一部は実は既に述べています。

歴史学界の闇の部分。

なぜそうなのかを示唆する記述が日本国紀の中に存在します。

それは12章「敗戦と占領」以降で明示的に言及されていますが、実は全編に渡ってちりばめられて書かれていることでもあります。

12章以降を読めば、それまでの内容がどうしてそうなっていたのかが氷解する。

そのあたりに本書の「一貫性」や「軸」「筋」を感じ取ることができるのです。

安能務韓非子との比較にみる日本国紀の評価

日本国紀の記述と歴史的事実との整合性について多くの者が検証をしています。

一部は正当な行為も含まれますが、多くは「作品の愉しみ方」を一面でしか捉えていないものが見受けられます。

たとえば、『百田の魏志倭人伝解説は「日本人は盗みをしない」と書いているが、原文は「日本人は盗みが少ない」という意味だ!間違っている!』というものです。

確かにその通りなんですがそういう読み方しかできないのって不幸じゃないですかね?

ここで、韓非子〈上〉 (文春文庫) 安能務を例にとります。

韓非子とは古代中国の思想家であり、彼の著作が「韓非子」とそのまま呼ばれています。これまでに夥しい数の韓非子本が出版されてきました。

ただ、安能氏の韓非子は、通常の韓非子本とは異なります。

原文+書き下し文+現代語訳+注釈のオーソドックスな構成ではなく、安能氏のストーリーに合わせて原文の一部の記述を抜き出し、独自の解釈を加えていくものです。

普通「本書はこういう意図で書かれており…」ということがまえがき等で触れられるハズですが、そういうものは一切なく、いきなり安能ワールドに引きずり込まれます。

一例を上げるとすると、下巻の最終節には、以下のように書かれています。

抱法処勢治
法を抱いて体制に処すれば、国は治まる
王も法を守らなければならない。法は王の上にある。

「抱法処勢治」の現代日本語訳が「法を抱いて体制に処すれば、国は治まる」ですが、「法は王の上にある」という部分は「膨らませて」いるというのが分かります。

こんな文章は通常の韓非子本にはありません。

「法は王の上にある」という思想は、韓非子の原文の理解からはかなり外れています。

さて、これを「そんなことは原文に書いていない!、安能はホラ吹きだ!」という読者が居るでしょうか?(笑)

百田尚樹氏の日本国紀に対しても、そのような性質の論評を加えている者が居ます。

「いや、百田自身が事実しか書いてないと言っていた!宣伝文句も日本通史の決定版と言っているのだからそういう読み方はしない!」と言う人が居るでしょうが、きっと真面目な人なんでしょう、と思う事にします。
ある程度は百田氏自身が撒いた種ですが

「隠しテーマ」

ここで言う隠しテーマは要は「ある外国・民族との付き合い方」です。

歴史上の失敗から示唆される日本国のあるべき方針が黙示的に示されています。

特にある国や地域、民族について言及しているという事は一読すれば分かるでしょう。

私は、この「隠しテーマ」はこれまで述べたものほど重要ではないと思いますが。

まとめ:評判に惑わされない日本国紀の読み方のすすめ

  1. 日本国紀は議論紛糾する話題に異論を示すことを厭わない
  2. 歴史学界の態度に対して分かりやすい形で問題点を指摘している
  3. とかく退屈になりがちな日本通史を読ませる事に力点がある
  4. 通史を見渡すことで感得できるものを伝えたい
  5. 日本国紀は12章以降からが本番(ただしそれまでの記述が重要)
  6. 書籍の愉しみ方は複数存在する
  7. 隠しテーマはとある外国・民族との付き合い方だがそんなに重要ではない

逐条的に一つ一つの記述の正確性や妥当性を検討する読み方も「アリ」です。

ただ、せっかく日本の歴史を古代から現代まで貫いて書かれた書籍なのですから、全体を俯瞰した読み込み方をすることをおすすめします。

これまで、歴史教科書等では退屈でそうした読み方ができなかった方も、日本国紀であればその「読ませる」記述ぶりによって俯瞰した読み方を体験できるでしょう。

そういう意味でも本書の価値は素晴らしいものがあると、私は思います。

以上

漫画キングダムにみる法の支配と法治主義

キングダム488話法治国家

キングダム 原泰久 集英社 45巻 488話

法治国家

ヤングジャンプで連載中の漫画「キングダム」において秦王嬴政(エイセイ)が中華統一後の統治形態について言い表した言葉です。

古代の秦国において、史実ではどのような「法治」が行われてきたのか?

法の支配・法治主義の意味も踏まえて紹介し、中華統一後のキングダム世界の描写について予想していきます。

法の支配と法治主義

法の支配」="Rule of Law"は「自然法」を観念します。

自然法とは何かと一言で言い表せるものではありませんが、ハイエクの言葉を借りれば成文化・慣習化されたルール以前に存在する「人間的行為の結果ではあるが人間的設計の結果でないもの」です。合理的設計の産物ではなく、(人間的行為が関わる)自然的淘汰の産物です。

実定法の最高規範たる憲法は、この自然法を淵源とすると考えられています。

他方、「法治主義」とは「法治国家」="Rechtsstaat"の根幹を支える精神です。

19世紀ドイツの形式的法治主義では法実証主義の立場でした。悪法もまた法であるという立場でしたが、戦後、法の内容の正しさも要するという実質的法治主義に変化しました。

法実証主義とは、人為的に制定された成文法や現実に規範として認識され実行されている慣習法などのみを法学の対象と考えるものです。上記のような意味での「自然法」を観念しません。法を意図的な構築物とみなしています。

法の支配と(実質的法治主義も含めた)法治主義の一応の区分けとしては、上記のような意味での「自然法」を観念するかどうかであると言えるでしょう。

より詳細については以下でまとめています。

秦の始皇帝と同時代の韓非子の法治主義

キングダムにも名前が出ている法家として「韓非子」が居ます。

冨谷至の韓非子―不信と打算の現実主義 (中公新書)分析によると、韓非子の考えていた「法」ないし「法治主義」の性質は以下のようになるでしょう。

  1. 性悪説を前提とした世界観、人間の理性を信じず、本能的打算を人の性と見る
  2. 法は君主による統治のための道具
  3. 法は凡人の君主であっても統治を行うことができるようにするためのもの
  4. 韓非子の法治主義は自然法を観念しない法実証主義の要素がある
  5. 法文による事前抑制ではなく、刑罰による威嚇をもって予防する
    ⇒実定法、成文法でもって法を記述するという思想であるにもかかわらず、罪刑法定主義の思想はみられない
  6. 集団としての民を扱っており、個人としての民を見ていないため、応報刑論は観念していない。一般予防のみを目的としている。

韓非子の法ないし法治主義は、近代以降の法の支配や法治主義とはまったく異なる側面を有していたと言えるでしょう。

これに対して、儒家は性善説に基づく「徳治主義」を唱えていました。

詳細については以下で触れていますが、史実でも韓非子は抹殺されたように、秦国の法治がどれだけ韓非子の思想通りに行われたのかは未知数です。

秦王嬴政(始皇帝)の法治国家「王も法の下にある」

キングダム法治国家法の下の平等

キングダム 原泰久 集英社 45巻 488話

キングダムの秦王嬴政の法治主義は、「王も法の下にある」というものです。

また、嬴政は人の本質は「光」であるという信念を持っています。

これは「人の本性は悪である」という前提で善に向かわせようとする韓非子の根本思想とも対立しています。

どちらかといえば、人の本性は善であり、君主の仁徳によって国を治めるべきだとする徳治主義を説く儒者の思想に近いです。これは秦滅亡後に中華を統べた漢の思想的支柱です(秦時代に作られた律令を用いた統治という手法がなくなったわけではないが)。

したがって、嬴政の法治主義は、一般的な韓非子の法治主義とはかけ離れたものであると言えます。安能務の韓非子(文春文庫)には「法は王の上にある」とする一節がありますが、原文から飛躍した解釈を行う安能ワールドを楽しむ書籍での一節です。

ところで、「王が法の下に在る」という中には「皇帝」も含まれているのでしょうか?

史実では列国の「王」制度は滅されて秦国は郡県制により数十の県に分割され、各郡県の長には皇帝が任命した官吏が就任しましたから、「郡県のトップが法の下にある」という意味なのでしょうか?

私は、嬴政のこれまでの言動からは「皇帝」も含まれていると思います。

下僕の信とも仲がいいですし、「皇帝は含まれませ~ん」と屁理屈をこねる嬴政なんて見たくありませんからね(笑)

李斯「法とは願い」とキングダムの法治主義

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キングダム 原泰久 集英社 46巻 494話

次に、李斯は「法とは国家の願い」と言っています。

この言葉がそのまま嬴政の法治国家の思想ならば、それは皇帝たる嬴政の理想を含むものですから、国王大権に対抗するための原理であった19世紀ドイツの法治主義とも異なります。

法の支配も「法とは国家の願い」ということからは当てはまらない気がしますが、嬴政や李斯が自然法を観念しているのかは現時点では判然としません。

むしろ、この言葉だけ見ると韓非子の「君主による統治のための道具」の思想に近いかもしれません。キングダムにおいて李斯の理想と嬴政の理想が異なるということでしょうか?

この辺りは、今後の展開で明らかにされていくのではないでしょうか。 

史実で中華統一後の秦国が行った法治主義

秦国には「秦律」という法体系がありました。

これは今でいうところの刑法、民法、行政法、訴訟法、軍事法などの法律群の総体を指すものです。

ただ、皇帝権力はこれらの法よりも上位のものとされていましたので、現代でいうところの法の支配が徹底されていたかというと、この時代はまだそこまでではなかったということでしょう。

秦律等については以下の書籍を参考にして説明します。

秦律の構造

秦律には「」「」「」「法律答問」「」の5つの形式で計400条以上の条文が存在していました。刑法だけで60条程度ありました。

」とは、秦律の主体であり、18種類存在しました。

たとえば「田律」があり、水害、干ばつ、虫害で田畑に被害が出た場合には地方官はすぐに報告することとされていたり、春の2月には山林の木材は伐採してはならない、などという内容です。

「行書律」では「すべての急いで処理すべきものは、その日のうちに処理せよ」など、かなり事務的な内容まで規定されていました。

現代日本でいう法律、政令、省令、訓令が混ざったようなイメージですね。

ただ、行書律のように具体的な事項まで法的に定められてしまうと、それに反した場合のペナルティが怖いので、現実を曲げて運用するということが横行してそうです。

「この案件は今日来たが、とても処理できないので別の日に来たことにしよう」

このような「現場の調整」があったのではないか?と思ってしまいます。

」とは、皇帝が日頃公布する詔令のことで、律の重要な補足をするものです。

「焚書令」が代表的な令の一つです。

大日本帝国憲法でいうところの天皇の勅令のようなものでしょうか。

昭和の戦争期には天皇の勅令という名目で軍部が政策を決定している例がありましたが、古代の秦のような国家においてはどうだったのでしょうか?幼い皇帝の傀儡政権の場合には、まさに詔令が悪用されていたのだろうと推測されます。

」とは、律以外の単独の条文です。

たとえば「任人法」では、役人の審査不合格だったはずの者を役人に採用したら処罰されなければならない、などという内容が定められていました。

律との関係がよく分かりませんが、体系立った内容がある律と比較するとそうではないもの、と言えそうです。

法律答問

法律答問」とは、役人が法律を執行する過程の解釈について、Q&Aの形式で書かれたものです。現代日本でもガイドラインやガイドラインのQ&Aがある場合がありますが、法律答問は同時に法律として通用力を持っていたようです。

たとえば、「Q:盗人が人を殺傷したときに周囲の人間が助けなかったが、処罰を受けるべきか?」「A:135メートル以内の者は処罰せよ」などといった感じで具体的な基準を示していたようです(もちろん距離の単位は当時の言葉で書かれている)。

一度決定された具体的な事項が法律としての通用力を持つということで、かなり慎重に決めなければならないはずですが、おそらく不具合が続出したのだろうと思います。

上記の例で言えば、川を挟んだ向かい側や崖の上と下の場合など、一律に距離だけの基準を設けてしまうと不当な結果になることは明らかです。

そのような場合には処罰権限者の裁量判断だったのでしょうが、柔軟な判断をすること自体が法律答問に反するとしてその者自身が処刑されてしまうおそれがあります。

よく、国会で成立した法律について「曖昧な内容があるため危険だ」と評価されることがありますが、法律のレベルであまりに具体的な内容を決めてしまうことは逆に危険な場合もあり、どの程度の抽象度をもって規定するかは本来評価が分かれるものでしょう。

」とは、法律を執行するときに参照する各種の判例、裁判の格式や書式などを指します。

犯人の尋問をするときは、まず犯人の陳述を聞いて記録しなければならない。途中で問い詰めてはならない。拷問にかけるときは書式に則って原因を書かなければならない、などといった内容です。

現代で言う所の裁判所の判例や各種の訴訟法のイメージに近いでしょうか?

裁判の書式も含まれていることからは、かなり具体的な実務的内容も記述しているということですから、民事訴訟規則、民事訴訟費用に関する法律、最高裁判所規則などをイメージしてしまいます。

この頃から「手続法」のような考え方があったということは、驚きです。

法体系を整えるだけではダメ

以上のような構造的な法体系を作ったところで、民衆がすぐに従うとはいえません。

むしろ、それまでその地で通用していたルールと異なることになり混乱するでしょう。

キングダムで李斯が「各国では文化形成が違うため、単純に人が増えたという認識でいると失敗する」と指摘していたように、史実上でもそのような問題が発生したのだろうと思います。

場所と時代が違いますが、たとえば近代日本では、日韓併合後に土地の所有権関係を明確にしようと日本と同様或いは類似の制度を敷いた結果、所有権が立証できない者が多発し、その土地を官吏の側が所有することになり、小作人となったことに不満を持つ者が発生したということがあります。

また、そもそもルールを伝達する際の「基準」が異なっていたら、文言としてはルールを伝えていたとしても、実行される行為はルールに反しているという状況が発生します。

史実上の統一後の秦でも「度量衡」(長さ・体積・重さ)の規格の統一が行われましたが、それ以外にも全中華的な統一化が進められました。

秦の始皇帝が行った全国の統一化

法治国家を建設する過程で必要になるものとして「規格の統一化」が挙げられます。

秦律を全中華に行き渡らせ、人々の暮らしを豊かにするには、バラバラになっていた各国の地におけるルールを全国的に統一する必要がありました。

  1. 度量衡の統一
  2. 統一貨幣
  3. 規範文字の普及
  4. 車軌の統一

主要なものでは、これらが挙げられると思います。 

ここでも以下の書籍を参考にします。

統一貨幣

当時、他国間では貨幣の形や重さだけでなく、計算単位すら不統一でした。

これによってしばしば取引上の問題が生じ、商品流通の阻害要因となっていました。

そこで、秦の始皇帝は貨幣を2等級に分け、規格を統一したのです。

上級の貨幣は黄金で作られ、「鎰」という単位で計算されました。

1鎰は20両の価値があるとされています。

他方、一般流通における日常取引で使用される通貨としては銅銭が用いられました。

「半両」という単位で計算されたことから「半両銭」と呼ばれています。

キングダムでも史実でも豪商の呂不韋が一時権力を掌握していましたから、貨幣の統一という発想に至るのは自然なことだと思います。

キングダムでは法の番人の李斯が呂不韋の配下でしたから、李斯が貨幣の統一を具体化するのでしょう。それとも、「呂不韋再登場」となるのでしょうか?一部で史実と異なる展開をもいとわないキングダムですから、可能性としては在り得ると思います。

規範文字の普及

列国の文字は、同じ内容を表す内容について別々の文字が使われていたり、同じ文字なのに国によっては意味が異なる内容になっていたりしていました。

そのため、皇帝の詔令が地方の役人に届けられても、その者は内容を正しく理解することができず、政策が徹底されなかったということがあったようです。

そこで、統一された中華としての秦国全体において、使用する文字を統一しました。

文字の不統一とは性質が異なる話ですが、日本で「たぬき」と「むじな」の呼称の理解の仕方が国と猟師とで異なっていたために、むじなを銃殺した猟師が狩猟法違反で起訴された事件がありました(結局無罪)。

この事件のような悲劇が、古代では多く発生していたんだろうと思います。

車軌の統一

当時、既に車輪を馬に曳かせる馬車が存在していました。

現代のように道が全面舗装されているわけではありませんから、轍(わだち)に車輪を沿わせて動かした方が移動時の揺れが少なくて済みます。これが別々の車幅だったら、轍の形が歪なものとなって、でこぼこ道が出来てしまいます。

都市部においても、車輪が通る場所として石畳を敷くのとそうでない場所とで、車軸の幅が統一されていた方が都合が良いでしょう。

また、馬車がすれ違うことができるように道路設計する際も基準があれば予測ができます。

そこで、車輪の幅(車軌)は6尺(1.4メートル)と統一することにしたのです。 

法治国家と実効性

具体的なレベルで言えば、上記のように統一された基準に従って人々が行動するのが法の支配を普及させるために必要であった、ということが言えると思います。

しかし、ルールを決めて規格を統一しようとしても、実効性がなければいけません。

そこにキングダムの嬴政が「武力」による中華統一を目指した理由があるように思われます。

実力の支配と法の支配

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キングダム 原泰久 集英社 40巻 427話

国家であればその機能として法を制定し、法を自ら実現するに十分な『実力』を持っていなければなりません。

法の支配と裁判 田中耕太郎 267頁
法と実力とは一方当為と存在とのアンチテーゼの関係にある。それらは他方目的と手段との関係にある。法がその目的を達成するために自ら実力を用いるのは、一個人や団体の実力行使とその意味をことにしている。
実力はそれ自体として中性的である。この実力は裸の実力である場合と、法によって包装された場合とがある。

本来、法は「実力」が無い者でも正義を実現できるためのものです。

それは近代法においても、韓非子の皇帝による統治のための法においても同様です。

しかし、相手の持つ「実力」を上回るものがなければ実効性がありませんから、法による正義を実現するためには逆説的ながら『実力』が必要だということです。ただし、その意味での『実力』は法によって認められるものでなければならない。

したがって、法の支配ないし法治国家を実現するためには、国内的には警察権力が、対国外勢力に対しては軍隊が必然的なものになってくるのです。
※したがって、「法は実力が無い者が正義(権利)を実現するためのもの」というのは誤りです。

キングダムでは嬴政と呂不韋の国家統治の理念について問答がありました。

呂不韋は「貨幣」つまり金の力による豊かさで民心を掌握して統治すると言いました。

対して嬴政は「武力」による中華統一を実行すると断言しました。

これは、中華統一後の法治国家建設をも睨んだ信念ではないかと思います。

形の上では中華統一をし、ルールと規格を統一しても、官吏や民衆がそれを守らなければ意味がありません。反体制勢力が武力蜂起でもして勝ってしまったら、絵に描いた餅です。

戦争がなくなった世の中であっても、ルールに実効性を持たせるためには、やはり実力(武力)が必要なのです。

秦国はなぜ崩壊するのか?

原泰久 「キングダム」インタビュー/コミックナタリー

いろいろ調べたり詳しい方に聞くと、今の研究だと逆で、始皇帝はすごい先を見ていて、新しすぎて失敗したっていうことになってきているらしいですよ。そこはおいおい描けると思うんで、今温めてるところです。

 「中華統一した後も、物語は続きます」

原泰久先生は、中華統一後もエピローグ的に描くとしていますが、その中で「法治国家」という理想の失敗も必然的に描かれるでしょう。

では、なぜ失敗するのか?

現在までに出ている登場人物の発言から、その理由を予測してみます。 

許し難きこと

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キングダム 原泰久 集英社 45巻 491話

キングダムでは中華統一後の統治について不穏な描写があります。

斉王王建の問いかけ「明日よりこれらすべてを明日から趙の米、趙の肉、趙の野菜と言わねばならぬとしたら」に対して給仕が「許し難きことです」と答えたシーン。

現代でこそ移動手段が多様化して遠方にも容易に移住できるようになりましたが、古代の人々の「生まれ育った土地」に対する愛着心は想像だにしないものがあったことでしょう。

記憶に新しいところでは、平成の大合併では多くの市町村において、元の市町村の漢字を残すか否かで争われました。元の地名に無い語句や、ひらがな表記になった地方都市も少なくありませんが、禍根を残している所もあります。それくらい「名称」というものは大切にされているのです。

中華統一後の秦においても、あらゆる土地・物・風物の名称が禁止されたのでしょうか?上記のシーンは非常に意味深ですね。

もてあました武力?

キングダムでは数十万、数百万の軍勢がしのぎを削り合いますが、統一後、その軍勢はどこへ行くのでしょうか?

その力は更なる外敵(匈奴など)への警戒と国内の警察権力に割かれることになりますが、農民兵は農作業に戻るとして、王宮直属の兵士や職業としての傭兵は数が余るという事になりそうです。

桓騎兵のような荒くれ者集団が中華統一後は不法者となってしまい、治安が悪化するということは在り得る予測ではないでしょうか。

早過ぎた統一化?

現代日本ですら、西日本と東日本とで電気の周波数が異なったり、各地で「一畳」の面積が異なっていたり、「敷金」を家賃の1か月分にする地域もあれば6か月分がデフォの地域もあるなど、完璧な統一は達成されていませんが、むしろそれが良かったのかもしれません。

中華統一後の秦国では、そのような生活の細部に直結するルールまでも統一しようとし、しかも短期間のうちの適合を求めた結果、現実にそぐわない結果になり、反発を招いたのではないかと思います。

原先生には、ぜひともこの辺りも描いて欲しいと思います。

まとめ:大将軍李信は法治国家建設にどう向き合うか

キングダムは戦争・戦闘シーンの迫力が醍醐味ですが、それと同じくらいに面白いのが王宮の政治的駆け引き、文官たちの「戦い」です。

物語に緩急をつける効果もある上に、国家統治というものをトータルで描いている点が唯一無二の作品だと思います。

嬴政の法治国家の建設はどう描写されていくのか?

六国を滅ぼす過程において、それは後に大将軍となる飛信隊の信の戦争・戦闘に影響するでしょう。

戦の勝利だけでなく、その先も見据えた高く広い視点に立って戦略・戦術を考える。

黒羊戦でその伏線が張られていたハズなので、そういう信の姿を見てみたいですね。

「非戦闘員は殺してはいけない」など、近代以降になってルール化したものを飛信隊は既に持っています。そうした「法の支配」を広めることができるのか?

今後もその点に注目して読み進めていこうと思います。

以上

韓国徴用工:日韓請求権協定の個人の請求権に関する河野太郎外務大臣の解説の解説

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衆議院議員河野太郎公式サイト:https://www.taro.org/

河野太郎外務大臣が、日韓請求権協定において「個人の請求権は消滅していない」ということの意味を詳細にかつ端的に説明しました。

ただ、この話は一般国民、特に韓国側から「要求」される可能性のある企業の従業員・役員・株主の方々の認識が重要であるため、より詳細に説明しようと思います。

説明の説明なのでくどいと思われますが、これくらい念入りにやらないと親北勢力や弁護士連中に誘導されてしまいますからね。

「徴用工」という用語法も一種の誘導になってしまいます。

正しくは「朝鮮人戦時労働者」(当時日本国民であったことも考えると「朝鮮半島出身戦時労働者」が良い)です。

韓国「徴用工」判決についての河野太郎外務大臣の解説

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衆議院議員河野太郎公式サイト 日韓請求権・経済協力協定 2018.11.21

衆議院議員河野太郎公式サイト 日韓請求権・経済協力協定 2018.11.21では、上図のように説明されていますが、各用語の概念が同じものを同じ色で表しました。

まず、赤色の「日韓間の財産・請求権」というのが「全て」だと思って下さい。

その中で橙色「財産権」「個人の財産」「権利及び利益」と表記されている「実体的権利」があります。

そして、もう一つ緑色の「個人の請求権」=「クレームを提起する地位」があります。

河野大臣の説明では言及は無いですが、実は国家の「外交保護権も「日韓間の財産・請求権」に含まれており、これは相互放棄されています。

 

日韓請求権協定「個人の請求権は消滅していない」の意味

日韓請求権協定の個人の請求権と実体的権利

日韓請求権協定でそれぞれの権利がどのように扱われたかの図式が上図です。

財産権措置法とは河野大臣の説明にもあるように【財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第二条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律】のことです。

では、「財産的価値が認められる実体的権利」とそうではない「請求権」とはどういう意味内容なのでしょうか?

日韓請求権協定における「請求権」「実体的権利」の意味

これは重要なことですが、ここでの説明は日韓請求権協定における請求権」「実体的権利」の用語法の話であるということです。

一般的な法律用語の使用場面で「請求権」「実体的権利」と言う場合とは異なる意味で使われています。過去の政府答弁を確認しましょう。

126 衆議院 予算委員会 26号 平成05年05月26日

○宇都宮委員 次に、この協定第二条第一項の「財産、権利及び利益」と「請求権」との関係についてお聞きしたいと思うんです。
 それはどうしてかといいますと、この当時の合意議事録によりますと、ここで言う「「財産、権利及び利益」とは、法律上の根拠に基づき財産的価値を認められるすべての種類の実体的権利をいうことが了解された。」というふうに書かれております。そしてまた、今までの外務委員会とか予算委員会での議事録を見ますと、「財産、権利及び利益」というのは法律上の根拠のある請求権である、そして「請求権」というのは法律上の根拠のない請求権であるというふうな説明がなされております。このような両方の説明からしますと、ほとんどの権利は「財産、権利及び利益」の中に入って、いわゆる何というか全く根拠のない、言いがかりをつけるようなものだけが「請求権」の中に入るというふうな感じにちょっと感じられるのです。
 そこで、もう少しわかりやすく、「財産、権利及び利益」の中にはどういう権利が入って、「請求権」の中にはどういう権利が入るのか、具体例を挙げて、かつ簡単に御説明いただきたいと思うのですけれども。

○丹波政府委員 いわゆる財産、権利、利益と請求権との区別でございますけれども、「財産、権利及び利益」という言葉につきましては、日韓請求権協定の合意議事録の中で、ここで言いますところの「財産、権利及び利益」というのは、合意議事録の2の(a)ございますけれども、「法律上の根拠に基づき財産的価値を認められるすべての種類の実体的権利」を意味するということになっておりまして、他方、先生御自身今おっしゃいましたとおり、この協定に言いますところの「請求権」といいますのは、このような「財産、権利及び利益」に該当しないような、法律的根拠の有無自体が問題になっているというクレームを提起する地位を意味するということになろうかと思います。

省略

例えばAとBとの間に争いがあって、AがBに殴られた、したがってAがBに対して賠償しろと言っている、そういう間は、それはAのBに対する請求権であろうと思うのです。しかし、いよいよ裁判所に行って、裁判所の判決として、やはりBはAに対して債務を持っておるという確定判決が出たときに、その請求権は初めて実体的な権利になる、こういう関係でございます。

河野外務大臣の説明にあった「法律的根拠の有無自体が問題になっているというクレームを提起する地位」というのはここからきています。

質疑をしている宇都宮真由美議員は弁護士ですので、それでも疑問に思っていたというのが分かります。

一般的な法律用語としての「請求権」

  • 所有権に基づく目的物返還請求権
  • 消費貸借契約に基づく貸金返還請求権
  • 不法行為に基づく損害賠償請求権

一般的にはこれらのような意味の請求権を導く私権(物権や債権)が「実体法上の権利」と言われます。

法律上の根拠があるものとして一応は扱われるものです。財産的価値もあると考えられる場面があります。

「実体法上の権利」は「実体的権利」という言い方をする場合もあるので紛らわしいのですが、日韓請求権協定における「実体的権利」とはまったく種類が異なるものです。場面が異なります。

一般的な法律用語としての実体法上の権利(実体的権利)は、裁判を起こす前でも、自らが権利者であると主張する根拠となる権利のことです。デフォルメして言えば、未だ世の中的には裁判を通した正式なものとは認められていない権利です。

そのような権利を裁判所に認めてもらおうとするのが「法律的根拠の有無自体が問題になっているというクレームを提起する地位」という意味です。

これは訴訟提起がなされない限り(物権のように物理的な存在が確認できるものや契約書が残っている債権でない限り)目に見えるものではない場合が多く含まれます。

日韓請求権協定の文脈においては、このような意味で「個人の請求権」という用語が使われているのです。

実体法上の権利の満足を得るためには裁判を起こさなくても相手方の任意履行を求める方法もあります。権利があるのですから、よほどのことが無い限りは履行を求める行為は恐喝にはなりません。

相手方が任意に履行しない場合に自力で強制すると犯罪になるので、裁判という訴訟手続きを踏みます。

この実体法上の権利が裁判で存在すると確定すれば、それは「債務名義」となって強制力を伴って執行可能な権利になります。

日韓請求権協定における「実体的権利」とは、(債務名義そのものではないですが)債務名義のように権利の存在が証明でき、執行可能な権利のことを指しているのです。

裁判所もそのような権利であることを判断しています。

名古屋地方裁判所 平成11年(ワ)第764号、平成12年(ワ)第5341号、平成16年(ワ)第282号  平成17年2月24日

上記認定の本件協定締結に至るまでの経緯等に照らして考えると,財産権措置法1項1号に規定されている,韓国又はその国民の我が国又はその国民に対する債権であって本件協定2条3項の財産,権利及び利益に該当するものとは,本件協定の署名の日である昭和40年6月22日当時,日韓両国において,事実関係を立証することが容易であり,その事実関係に基づく法律関係が明らかであると判断し得るものとされた債権をいうものと解するのが相当である。

これは一般的な法律用語から外れた用語法なので混乱が生じるのも無理はありません。

※なお、憲法上の概念の性質を表す用語法としても「請求権」が使われることがありますがここでは関係ないので触れません。 

個人の請求権は残り、訴訟提起は一応可能だが救済が受けられない

衆議院議員河野太郎公式サイト 日韓請求権・経済協力協定 2018.11.21

日韓請求権・経済協力協定により、一方の締約国の国民の請求権に基づく請求に応ずるべき他方の締約国及びその国民の法律上の義務が消滅し、その結果、救済は拒否されます。つまり、こうした請求権は権利としては消滅させられてはいないものの、救済されることはないものとなりました。

訴訟を提起できても、救済が拒否される。

このことが「訴権の消滅」や「裁判上の訴求権能の喪失」と呼ばれたりします。

ただ、一般的には「訴権」というと「裁判を受けるための権利」というニュアンスで使われています。「救済可能性がある」というのは当たり前なので、「訴権の消滅」と言った場合には訴訟提起そのものができなくなるという印象になってしまいますが、日韓請求権協定の文脈においては、「訴訟提起は一応可能だが救済が受けられない」という意味になります。

弁護士らは一般人に焦点を当てている

北朝鮮と韓国の肩を持つような弁護士らが強調しているのは「個人の請求権が残っているのだから、企業が任意に補償に応じることは禁止されていない」という点です。

この事自体はその通りで、日韓請求権協定や財産権特措法によっても「任意履行」まで禁止することはできません。

しかし、そのような任意履行がどれだけ日本人の名誉や日本国の地位を貶めることになるのか、分かっているのでしょうか?

彼らはICJ(国際司法裁判所)で裁判になれば必ず敗訴するということが分かっているからこそ、主張の力点を「任意履行」に持って行っています。だからこそ新日鉄の本社に韓国からわざわざ弁護団がやってくるなどというパフォーマンスをしているのです。

そうした韓国弁護士のパフォーマンスや日本の弁護士有志声明の名宛人は日本政府ではありません。

訴訟提起の可能性がある全ての企業の従業員・役員・株主です。

彼らに対して「人道的に…」「可哀想だから…」と思わせて任意履行させるために行動しているのです。

まとめ

  1. 日韓請求権協定の文脈における用語法は、一般的な法律用語の用語法とは異なる
  2. 日韓請求権協定や財産権特措法があっても「個人の請求権」は残っているが、一応提訴可能であっても救済されないものとして合意されている。
  3. 弁護士らは一般人の意識を変えることに焦点をあて、任意履行を目指している

企業人に限らず、一般の日本国民の認識がしっかりしていないと、該当企業の社員、役員、株主が変な気を起こして「補償してもいっか」となってしまいます。

そうさせないためにも、日本政府としては『提訴も辞さない構え』を見せなければならないと思います。

以上