事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

津田大介の長文の言い訳の疑問点:トリエンナーレ表現の不自由展

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あいちトリエンナーレ実行委員会の芸術監督である津田大介が「お詫びと報告」と題した長文の言い訳を私的な媒体に掲載しました。

その内容を見ると、判断がめちゃくちゃだったということが改めて分かりました。

表現の不自由展は「再展示」が契約内容だった?

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium 魚拓はこちら・削除部分あり

「表現の不自由展・その後」は、2015年の冬に行われた「表現の不自由展」を企画した表現の不自由展実行委員会(以下「不自由展実行委」)の作品です。公立の美術館で検閲を受けた作品を展示する「表現の不自由展」のコンセプトはそのままに、2015年以降の事例も加えて、それらを公立の美術館で再展示する。表現の自由を巡る状況に思いを馳せ、議論のきっかけにしたいという趣旨の企画です。トリエンナーレが直接契約を結んだ参加作家はこの「表現の不自由展実行委員会」です。

両実行委員会が契約を結んだのは、過去に開催した表現の不自由展の作品を(それ以降の事例も加えて)再展示するという趣旨でした。

であるならば、再展示以外のもの、つまり2015年以前に問題視された作品に関して新たに作品を作るということは、基本的に契約違反のハズです。

大浦信行の天皇コラージュは新たに焼却映像が

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium 魚拓はこちら・削除部分あり

本来「表現の不自由展・その後」は、公立の美術館で検閲を受けた作品を展示するというコンセプトであり、新作の出展はコンセプトになじまないというお話は大浦さんにはさせていただいたのですが、展示の準備段階で《遠近を抱えて》と《遠近を抱えてPartII》は一続きの作品で、《遠近を抱えてPartII》を展示できないのならば《遠近を抱えて》の出品も取り下げるという連絡が大浦さんからありました。2015年の「表現の不自由展」にも出品された同作を出展できないのは、「その後」の趣旨ともずれてきてしまうため、不自由展実行委と協議のうえ、出展が決まりました。これが《遠近を抱えてPartII》が出展された経緯です。

これは相手方の契約違反であるとして要求を跳ね除けなくてはならなかった話です。

なぜ契約違反行為があるので展示を許さないことが憲法違反なのか?

トリエンナーレの展示は政府言論:原則的に表現の自由の問題ではない

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 政府の言論と人権理論 (3) 金澤, 誠 北大法学論集, 61(5), 144[65]-81[128] 

アメリカの事案ですが、市が管理する公園において、ある宗教団体がモニュメントの展示を求めたが、市が認めなかったことが表現の自由条項違反だとして争われました。

連邦地裁は表現の自由の話だとしましたが、連邦最高裁は公園の展示は「政府言論」(ガバメントスピーチ)であるとして、その場合は表現の自由条項の問題ではないと判断しました。

トリエンナーレ実行委員会は実質的に愛知県が運営し、津田大介も愛知県から職務を委嘱されているので、津田大介も公的機関の側です。それは本人の記述からもそういう認識だったということがわかります。

この場合に展示作品を選考するのは検閲でも何でもなく、裁量の範囲であるということを津田大介に説明する者が居なかったのが大きな問題でしょう。大村知事も本件を検閲の話だと言っていたことから、周りにまともな憲法知識・判断能力のある者が居なかったのでしょう。

「政府言論」の詳細は以下参照。

津田大介の憲法観では芸術祭の「乗っ取り」が可能になる

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium 魚拓はこちら・削除部分あり

2019年2月28日(木)と3月18日(月)の打ち合わせの段階では、僕から不自由展実行委に《平和の少女像》については様々な懸念が予想されるため、実現が難しくなるだろうと伝えていました。しかし《平和の少女像》は2015年の「表現の不自由展」でも展示された作品であり、展示の根幹に関わるという理由で「少女像を展示できないのならば、その状況こそが検閲であり、この企画はやる意味がない」と断固拒否されました。
キュレーターチームや実行委員会事務局にその旨を報告すると、アーティストの参加辞退というのは前代未聞で、行政としても前例がないと言われました。

中略

「表現の不自由展・その後」にどの作品を展示し、どの作品を展示しないかは、最終的に「表現の不自由展・その後」の出展者である不自由展実行委が決定権を持っていました。

中略

とはいえ、事情は複雑で、そもそもの企画が「公立の美術館で検閲を受けた作品を展示する」という趣旨である以上、不自由展実行委が推薦する作品を僕が拒絶してしまうと、まさに「公的なイベントで事前“検閲”が発生」したことになってしまいます。後述するキム・ソギョン/キム・ウンソン夫妻の《平和の少女像》、及び、大浦信行さんの《遠近を抱えて》の関連映像についても、不自由展実行委の判断を優先しました。もちろん、この2作品を展示作品に加えた場合、強い抗議運動に晒されるリスクがあることは理解していましたが、自分の判断で出展を取りやめにしてしまうと同様の事前“検閲”が発生したことになります。芸術監督として現場のリスクを減らす判断をするか、“作家(不自由展実行委)”の表現の自由を守るかという難しい二択を迫られた自分は、不自由展実行委と議論する過程で後者を判断しました。8月3日の記者会見で今回の企画を通したことを「自分のジャーナリストとしてのエゴだったのではないか」と述べたのは、これらの判断のことを指しています。いずれにせよ、最終的に僕は出展者である不自由展実行委の判断を尊重しました。

「最終的に表現の不自由展実行委員会が作品展示の決定権があると言っておきながら最終的に津田大介が判断を尊重しました」って、支離滅裂ですね。

作品展示の最終決定権は公的機関たる津田大介ないし大村知事にあります。

それを「検閲になるから」という妄想によって出展者の言いなりになるというのは、おかしいことだとは思わなかったのでしょうか?

これでは乗っ取りが可能になってしまいます。

だいたい、トリエンナーレのパートナーシップ事業の団体参加資格や愛知県の補助金交付要件には「政治活動目的の事業ではないこと」という内容規制が既にあります。
(トリエンナーレの国際現代美術展にはそのようなルールが不思議と存在しない)

なぜ表現の不自由展だけが規制が許されない扱いになっているのか意味不明です。

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文化芸術基本法は介入を絶対的に禁止する根拠にならない

ここで、文化芸術基本法(法律名称の改正前は文化芸術振興基本法)を持ち出して「行政不介入原則があるのだから、大村知事が口出しはできないというのは当然だ」という主張がありますが、以下の点が無視されています。

  1. 文化芸術基本法は行政不介入の原則を示しているに過ぎず、絶対的に介入を禁止しているわけでは
  2. 文化芸術基本法があるからといって表現の自由に給付請求権は無い
  3. 文化芸術基本法2条9項には「文化芸術に関する施策の推進に当たっては,文化芸術活動を行う者その他広く国民の意見が反映されるよう十分配慮されなければならない」とある
  4. 誰が文化芸術であると決めるのか?

詳しくは以下で論じていますが、公的機関に自己矛盾を強いることになる理解はおかしいと思わないのでしょうか?

まとめ:本当に津田大介は展示を拒否するつもりだったのか?

津田大介の「お詫び・報告」と題する文章にはツッコみ所が満載なのですが、やはり本質的な問題は、誤った憲法理解によって津田大介が表現の不自由展の出展を拒否できなかったということでしょう。

また、津田大介と東浩紀がトリエンナーレについて語る対談動画がUPされていますが、その語り口を見ると、津田大介自身が積極的に表現の不自由展の展示内容をプッシュしていたようにも感じます。本当に津田大介が展示を拒否するつもりだったのか疑問です。

こうした点も含め、トリエンナーレは徹底的に調査されてしかるべきだと思います。

以上

表現の自由の問題ではなく【政府言論】トリエンナーレ表現の不自由展中止

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ほぼ愛知県で構成される実行委員会によって運営されている「あいちトリエンナーレ」の一つのブースである表現の不自由展が、昭和天皇の御真影を焼却する動画といった侮蔑的表現や、捏造慰安婦像の設置など国家意思に反する政治的表現を行ったことで抗議を受け中止になった事件。

この話を「表現の自由」の問題だとする論調がメディアに出る大学教授や弁護士らによってさも当然のごとく喧伝されていますが、基本的に無理筋であるという点が誤魔化されています。

アメリカにおける同種事案の分析をした論文等から指摘します。

「表現の自由」は「国家に邪魔されない権利」が原則

憲法上の権利を大別すると、自由権は「国家からの自由」、参政権は「国家への自由」、社会権は「国家による自由」と言われます(請願権や裁判を受ける権利などの国務請求権もあるが)。

憲法21条の表現の自由は「自由権」です。国民が国家の不作為を要求することができる権利(邪魔するなと言う権利)です。

これに対して社会権は、国民が国家に対して作為を要求することができる権利です。

ただし、憲法学上は、こうした分類は相対的なものであって、固定的に厳密に分類する事は避け、柔軟に考えるべきとされています。憲法21条1項からの派生原理である知る権利は作為請求権的「側面」を有しているとされます(ただ、具体的な給付請求権ではない)。

それでも、やはり原則は表現の自由という権利は自由権であり、国家に対して表現をする場を提供するよう求めることができる権利ではないという認識が前提にあります。

ここまでの事は憲法の急所第2版 [ 木村草太 ]などでも書かれています。

では、表現の不自由展は誰がどういう行為をしていたのか?

トリエンナーレ表現の不自由展は公的機関が運営

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あいちトリエンナーレ実行委員会の構成は様々ですが、責任を問われる役職にあるのはことごとく愛知県の公的機関に属する者が名を連ねています。

これは個人名ではなく、公的機関の役職名での記載であることから、あいちトリエンナーレ実行委員会は実質的に公的機関とみなす他ないと言えます。

そして、津田大介は民間人ですが、芸術監督は実行委員会の内部の機関であり、公的機関の側の人間です。実際、津田は愛知県から委嘱状を受けています(公務員就任をともなっていたかは不明)。

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「民間事業に公金が支出されている」のではなく「公的機関が主催している」のです。

アメリカ連邦最高裁の類似事案

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政府の言論と人権理論 (3) 金澤, 誠 北大法学論集, 61(5), 144[65]-81[128] 

トリエンナーレと類似している事案において、アメリカ連邦最高裁が合衆国憲法修正1条(表現の自由等の権利について定めた条文。原則として「厳格な審査」を要すると解釈されてきた)に該当する話なのかを判断したものがあります。

市が管理する公園において、ある宗教団体がモニュメントの展示を求めたが、市が認めなかったことが表現の自由条項違反だとして争われました。

連邦地裁は表現の自由の話だとしましたが、連邦最高裁は公園の展示は「政府言論」(ガバメントスピーチ)であるとして、その場合は表現の自由条項の問題ではないと判断しました。

公園は「伝統的パブリックフォーラム」と言われ、そこでの国民の表現行為を規制するためには、内容中立的で、重大な政府利益に仕えるように限定的に作られており、かつ、他の選びうる伝達回路が十分に残されているときにのみ制限が認められる、とされていました。

上記事案では「国民の行為」ではないとされたことから、上記枠組みから完全に外れると判断されたということです。

アメリカは星条旗を焼く行為すら表現の自由として認めていたことを考えれば、国民の行為か政府言論かという違いは決定的だというのが分かります。

「行為」しているのは公的機関:政府言論・政府事業の領域

このように、公的機関が管理運営することで初めて表現行為が成り立つというような場合には、行為者は公的機関であり、民間人の行為であるとは見ないという見解が示されている例があるということです。

日本で最も近い事案は船橋市立西図書館蔵書廃棄事件ですが、著作者らが現実に動いていたわけではないので種類としては別個の話でしょう。そこでも直接的には表現の自由の話ではないと最高裁で判断されています。

会社の営業マンが契約を取ってきたとしても、一般的にはお金は営業マンに入るのではなく、権利義務は会社に帰属するのと同じことです。現実に動いている者と法的な主体は異なるということは、世の中に溢れています。

表現の自由の問題ではない=検閲の領域ではない

憲法上の検閲、つまり憲法21条2項で禁止されている検閲については税関検査事件で判例に拠る定義が示されましたが、範囲が狭すぎるというの批判があり、また、一般用語としての「検閲」には「事後検閲が含まれる」とか、「広義の検閲概念」なるものを持ち出してトリエンナーレの話を「検閲」だとする者が居ます。

しかし、検閲とは本来は民間が自由に表現・出版等ができたのに、それを公権力が禁止する行為です。民間が自由に表現をする場ではない場合には、検閲であるか否かを問疑する段階にすら入りません。

このことは何度も指摘してきました。

こういった素朴な評価を言語化・法理化したのがアメリカ連邦最高裁の「政府言論」と言えるでしょう。日本では同様の事案が争われていないので判断されていないので、好き勝手言ってる人が居るというに過ぎません。

トリエンナーレ実行委員会が表現内容を理由として排除できないのがおかしいもう一つの理由

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トリエンナーレ本体の展示作品にかんするルールではないですが、パートナーシップ事業の団体参加資格や、トリエンナーレに参加している団体も申請している(愛知県の)補助金の交付要件には「政治活動を目的とする事業でないこと」というルールが既にあります。

大村知事や津田大介が言うように、もしも本当に「実行委員会が内容に踏み込んで事前規制することは許されない」のであれば、これらのルールの存在は一体何なんでしょうか?

なぜ、トリエンナーレの他の場面では規定されているルールがトリエンナーレ本体では用意されていないのか?とてもチグハグな状況だと言えます。

政府言論=ガバメントスピーチの乗っ取り

さて、逆にトリエンナーレの表現の不自由展の展示について、公的機関側が拒否をすることができないと考えてみましょう。その場合、どういうことが起こるでしょうか?

『政府言論=ガバメントスピーチの乗っ取り』が可能になってしまいます。

この懸念は衆議院議員の和田政宗氏も指摘しています。

表現の不自由展の実行委員会のメンバーを見ると、公的機関の運営する場を乗っ取ることを目的にしていたのではないかと疑わしく思います。

公的機関が主催運営している場での展示は「政府が認めた」と客観的には見えるものなので、それを狙っていたとしか思えません。

単なる公金支出の問題と考えるとおかしなことに

なお、トリエンナーレ表現の不自由展を「公金が支出されているから・公的施設を使っているから、表現が規制されても仕方がない」という主張がありますが、これは政府言論とはまったく異なる論法です。

民間事業に公金が支出されていても、それは政府が展示された表現を是認したということをただちには意味しません。

ですから、「行為者は誰か?」という観点は決定的に重要なのです。

承認しておいて後から禁止したことが問題

トリエンナーレ表現の不自由展の事案の特徴は、一度公的機関側が展示を承認しておいて、後から禁止したということです。

アメリカ流の政府言論の考え方なら、この場合でも表現の自由の問題とはなりませんが、船橋市立西図書館蔵書廃棄事件では著作者の人格的利益が法的保護に値するとされたこととの関係上、そういった利益が認められる可能性はあります。

それも認められないとしても、契約上の債務不履行の話になり得ます。

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium

「表現の不自由展・その後」は、2015年の冬に行われた「表現の不自由展」を企画した表現の不自由展実行委員会(以下「不自由展実行委」)の作品です。公立の美術館で検閲を受けた作品を展示する「表現の不自由展」のコンセプトはそのままに、2015年以降の事例も加えて、それらを公立の美術館で再展示する。表現の自由を巡る状況に思いを馳せ、議論のきっかけにしたいという趣旨の企画です。トリエンナーレが直接契約を結んだ参加作家はこの「表現の不自由展実行委員会」です。

過去開催された表現の不自由展の内容に加えてそれ以降の事例も加えて「再展示する」契約を両実行委員会が締結していたと津田大介は語っています。

そのような契約の中で一度承認しておいて中止したことが、憲法上の権利ではなく契約上の権利を根拠にして争いになることが考えられます。

まとめ

  1. 表現の自由は国家に邪魔されない権利なのが原則
  2. トリエンナーレ実行委員会は公的機関
  3. 表現の不自由展の展示は政府言論なので表現の自由の問題にはならない
  4. ただし、法的保護に値する人格的利益の侵害や契約上の債務不履行の話にはなり得る
  5. 単なる公金支出の問題だと考えると説明がつかない点がでてくる

憲法学界では政府による給付・助成・援助という文脈の中で、通常は表現の自由の範疇ではないものについて、表現の自由論によって憲法的統制ができないかと試行錯誤してきた経緯があります。

ですから、トリエンナーレの事案を表現の自由論で語ることが間違いだと言うつもりはありません。

しかし、原則的に表現の自由論となるかはかなり厳しい、というのがこれまでの議論であったわけで、それを無視してさも表現の自由の許されざる侵害であるという論調でメディアで話をする法律専門家は、甚だ不誠実だと思います。

以上

あいちトリエンナーレ大村知事、自ら「検閲」していたと暴露する

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あいちトリエンナーレで表現の不自由展が中止になったことについて。大村知事が8月13日の定例記者会見において自ら「検閲」をしていたことを暴露しました。

あいちトリエンナーレ大村知事、自ら「検閲」していたと暴露する

  • 6月中旬に事務方から表現の不自由展の内容を聞いた
  • 津田監督を通して「これについて本当にやるのか」「この点についてはやめてもらえないか」「実物ではなくパネルにしたらどうか」「写真を撮ることは禁止してはどうか」などの強い要望希望は伝えた
  • その一線を超えると憲法21条の話になってしまうおそれがある。ましてや事前なので
  • 「それだったらこの企画を止める」などと言われることもあったが、そうなるとまさに憲法21条そのものの話になる

内容に踏み込んでの話ではない、というように言っています。

しかし、「実物ではなくパネルにしたらどうか」というのは内容に踏み込んでいます

美術館等に展示される芸術作品はその作品単体だけではなく、その空間内での配置や他作品群との関係・作品を観る側との関係において表現されるものが多いです。

たとえば「イタリアのアカデミア美術館にあるダビデ像の写真」を展示したところで、その芸術的価値は「ダビデ像の実物」と同じものではないでしょう。平面360度+αから観れるものが、そうではなくなるわけですから。 

大村知事自身が「検閲」をしていたことを暴露したということです。
(もちろん検閲の話には成りえない)

先週の記者会見との違い

過去にはこう言っていました。

  • 展示について、強い希望要望はお伝えした
  • 写真撮影やSNSで拡散するのはやめたほうがいいのではないかなど
  • (それ以上の)希望要望の具体的な中身については途中段階の内部のことだから申し上げることは控えたい、ご想像の通りにおまかせします
  • (作品の内容を知事が確認した上で承認したというプロセスがあったのか?という質問に対して)それはありません。

大村知事が作品内容の最終判断権者という組織体制ではなく、芸術監督が決定したものについて助言・要望を伝える立場だったということが言いたかったのでしょう。

13日では「この点についてはやめてもらえないか」「実物ではなくパネルにしたらどうか」という「希望要望」を伝えていたということが新たに分かったということです。

大村知事の説明の通りだと憲法21条の検閲の話になる訳がない

大村知事は『(津田大介から)「それだったらこの企画を止める」などと言われることもあったが、そうなるとまさに憲法21条そのものの話になる』と言っていました。

一体、どういうことを言ったためにそのような事を言われたのかは大村知事が敢えて言わないので分かりませんが、これで本当に「この企画=表現の不自由展」を止めたとしても、それは検閲などではありません。

単なる自主的な展示中止です。

なぜなら、内容に踏み込んでいないのであれば検閲ではないのだから。

内容に踏み込んでいたとしても、問題視された作品以外のものについてまで展示中止するというのは勝手な判断だから。

そもそも検閲のフィールドにならない

『憲法21条2項の「検閲」の定義は判例によれば「行政権が主体となって…」』という話をする以前に、今回の事件は検閲であるかどうかを問疑するまでも無い状況だということが理解されていません。

大村知事は「芸術監督との役割分担」を強調していますが、そんなものに意味はありません。津田大介は民間人ですが、実行委員会から職務の委嘱を受けている「公的機関側」の人間だからです

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https://aichitriennale.jp/archive/item/at2016_report.pdf

トリエンナーレ実行委員会と愛知県等の公的機関との関係は以下。

実質的に愛知県の組織であると言えます。

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あいちトリエンナーレは「民間事業に公金が支出されている」のではなく「公的機関が主催・企画・運営している事業であり、公金も支出されている」が現実です。

本当に「展示内容に踏み込んで選別してはいけない」のであれば、津田大介が作品・企画を選考している時点でダメでしょう。津田大介は公的機関の人間として振る舞っているのですから。

「政治的表現等」を禁止しているトリエンナーレの関連ルール

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トリエンナーレ本体の展示作品にかんするルールではないですが、パートナーシップ事業の団体参加資格や、トリエンナーレに参加している団体も申請している補助金の交付要件には「政治活動を目的とする事業でないこと」というルールが既にあります。

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大村知事が言うように、もしも本当に「内容に踏み込んで事前規制することは許されない」のであれば、これらのルールの存在は一体何なんでしょうか?

なぜ、トリエンナーレの他の場面では規定されているルールがトリエンナーレ本体では用意されていないのか?とてもチグハグな状況だと言えます。

文化芸術基本法は介入を絶対的に禁止する根拠にならない

ここで、文化芸術基本法(法律名称の改正前は文化芸術振興基本法)を持ち出して「行政不介入原則があるのだから、大村知事が口出しはできないというのは当然だ」という主張があります。

文化芸術基本法は行政不「介入」の原則

文化芸術基本法は法文上、「文化芸術に関する施策の推進に当たっては」「自主性を尊重する」としか書いていません。

たしかに立法過程で立法者議員が「行政不介入原則」を念頭に立案したことを答弁しています。

しかし、それは行政の「介入」についての話であって、公的機関が主催・企画・運営している場面では妥当しません。

さらに、民間事業の話だとしても『行政不介入の「原則』なのであって、絶対的に介入を禁止しているわけではありません。

不当な干渉が無いようにという附帯決議

実際、文化芸術振興基本法の立法時の附帯決議には

五 文化芸術の振興に関する施策を講ずるに当たっては、文化芸術活動を行う者の自主性及び創造性を十分に尊重し、その活動内容に不当に干渉することのないようにすること。

「不当に」という文言があります。

本則では「文化芸術に関する施策の推進に当たっては」「自主性を尊重する」としか書いおらず、行政不介入の原則を明確化するために、附帯決議にこの文言を忍ばせたと言えるでしょう。
(附帯決議には法的拘束力はないが議員、政府らに事実上の拘束力を持たせるという運用になっている)

不当でなければ、活動内容について問題があれば何らかのアクションをするのは当たり前の話です。この「不当」という文言を無視して絶対的禁止であるかのように主張している者が居ますが、甚だ不誠実でしょう。

違法ではない作品に対する「介入」の話だとしても、例外的な場合には介入が許されていると考えるのが当然です。

文化芸術基本法があるからといって表現の自由に給付請求権は無い

表現の自由を定めた憲法21条1項は「国家からの自由」とも言われる「自由権」であり、国家から邪魔されない権利です。国家に対して自分の表現の場を設けるように請求することができる権利ではないというのが原則です。
(憲法21条1項の派生原理である「知る権利」は国家に請求する機能があると言われますが、それでも給付請求権そのものではない)

文化芸術基本法が立法されたとしても、文化芸術の展示に関する表現の自由に給付請求権的機能を付与したものとは解されません。

国家の側に対して文化芸術を振興する際の義務について規定しているだけです。

大村知事は文化芸術基本法2条9項を無視していた?

文化芸術基本法

第二条 文化芸術に関する施策の推進に当たっては,文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない。
中略
9 文化芸術に関する施策の推進に当たっては,文化芸術活動を行う者その他広く国民の意見が反映されるよう十分配慮されなければならない

文化芸術基本法を根拠として内容に着目した規制が許されないと主張する人たちは、同時に2条9項で「その他広く国民の意見が反映されるよう十分配慮されなければならない」と定められていることをどう考えているのか?

こちらは行政不介入の原則を表した附帯決議とは違って、本則の条文に書かれていることです。

「国民の意見」として大反対が展開されている内容について公金を支出するのはどうなのか?ということです。ましてや今回は単なる公金支出ではなく官製イベントなのですから。

文化芸術基本法上の「文化芸術」は誰がどう決めるのか?

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ここから素朴な価値判断を多く含みますが必要なので言及します。

文化芸術基本法は「文化芸術」に対するものです。

何がここで言うところの「文化芸術」なのか、誰がそれを決めるのかについて何も触れていません。書くべきではないと思います。それを決めるのは政府や民間という一時点の特定主体ではなく、人類の営為が醸成されて決まるものだからです。

問題は文化芸術でもあり政治的でもある(そんなような気がする)作品です。

この場合に「文化芸術だから政治的でも絶対に介入は許されない」とするのか?

しかし、誰かが勝手に「これは文化芸術だ」と言えば絶対に行政が介入できなくなるということになるのは「特権」を作ることになるのでそれこそ許されません。他の表現形態では許されないのに、文化芸術だと自称したとたんに許されるというのはおかしい。

政府は「何が文化芸術か」を判断する能力は無いですが、「何が政治的か」を判断する能力はありますから、政府事業において自らが「これは政治目的の活動だ」と判断したなら展示を許さないとする裁量は当然にして持っているハズです。

まとめ:自己矛盾行為を強制することは出来ない

トリエンナーレは民間事業に公金が支出されているのではなく、公的機関の事業だということを指摘しました。

「表現の自由だから」という理由で公的機関に対して国家戦略に反する政治的表現が許されるなら、それは公的機関に自己矛盾を強いることに他なりません。

「自己矛盾行為を強制する」というのは、あらゆる場面において容認されない考え方ではないでしょうか。表現の自由にそのような機能があるとは考えられません。

以上

大村知事がツイート再開、削除理由をツイート:検証委員会の構成も

大村知事がトリエンナーレ後のツイートを削除していましたが、1日半経ってからその理由をツイートし、トリエンナーレの検証委員会の構成やその他告知等を行いました。

大村知事がツイート再開、削除理由をツイート

再開後のツイートでは最初に削除理由を書いています。

削除したツイッターの内容はブログに掲載しているようです。 

大村ひであきブログ

まぁ、当然のごとく、リプライまでは表示されないので、どんな批判があったかは見ることが出来ません。

この削除理由ですが、私はある程度は理解できます。

関係の無い関係者に対しても迷惑がかかっているというのは、私が8月4日以降に愛知県文化芸術課に電話しても一向に繋がらなかったことや、スポンサーに対する抗議電話を呼び掛ける者が各所で見受けられたことから想像できるからです。

削除と理由説明は遅かったんじゃない?

ただ、3つの疑問があります。

  1. なぜ12日になって削除したのか?ツイートが止まったのは5日以降だが、なぜその間は放置していたのか?
  2. 削除してから1日半以上経過しているが、なぜ最初から削除理由をツイートしなかったのか?
  3. 今日以降にするツイートにもトリエンナーレとは無関係な所が記載されているが、そこに対しても表現の不自由展に関する書き込みがなされる可能性がある

まぁ3番目は今の段階では規模が小さくなると予想したのでしょうが。

削除したけど、そのこと自体に対する批判も多かったので、慌てて理由説明をしたのではないか?と思われても仕方のない経緯だと思います。

検証委員会の構成

検証委員会は6人の有識者で構成するとのこと。

  • 座長:国立国際美術館長の山梨俊夫氏
  • 副座長:慶應義塾大学総合政策学部教授の上山信一氏
  • アグロスパシア株式会社取締役・編集長の岩淵潤子氏
  • 文化政策研究者で国立美術館理事の太下義之氏
  • 信州大学人文学部教授の金井直氏
  • 京都大学大学院法学研究科教授の曽我部真裕氏

特に曽我部教授は憲法学の教授で表現の自由に関する著書・共著もあるので選ばれたものと思われますが、彼自身が既にトリエンナーレについて見解をメディアで述べています。

少女像展示中止、市長や官房長官の発言は「憲法違反」なのか?京大・曽我部教授に聞く - 弁護士ドットコム

『表現の不自由展』中止が浮き彫りにしたこと。右派と左派、お互いが潰しあってる? | ハフポスト

この「記事」の違和感については以下で指摘しています。

まとめ

今回の検証委員会は中間報告も必要なら出す予定であるとのことなので気長に待つとして、トリエンナーレは2016年にも鳥が死亡することが前提の展示があったりしたなど、その内容が今になって問題視されています。検証委員会の構成がなぜそのようになったのかについても、愛知県議会等で説明が求められるでしょう。

また、愛知県内で話が終わるわけもなく、文化庁の補助金が採択されているのですから、国会での検証もされると思われます。

以上

「iPhoneでウイルス検出・バッテリー感染」「アップルセキュリティ」という偽ページ

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「iPhoneで(3)つのウイルスが検出されました。バッテリーが感染しています。」

この画面はフェイクなので落ち着いて対処しましょう。

"notification-phone.info"のページ

どういう環境で表示しているかは人それぞれだと思いますが、大体の人は画面上部のURLに"notification-phone.info"と表示されているのが分かるでしょう。

ここにアクセスしてみます。

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"Site just created"=サイト制作中とあります。

少なくとも、これであの「Apple社」公式のページではないということが分かります。

who is 情報を見てもまったく関係がありません。

よって、Apple社の出している警告ではないということです。

にもかかわらず、iPhone上のアイコンと似ている表示等をしているということは、偽物の表示であると考えるべきです。

なお、URLに"www"を追加すると"nginx"というオープンソースのWebサーバーが表示している画面に遷移しますがNginxが何か悪さをしているのではないので誤解無きよう。

それでは、この画面になったら何かする必要があるのか?

必要な事は「今すぐブラウザを閉じろ!」です。

(1)システム通知 iOSデバイスに関する重要なお知らせ

再掲

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「(1)システム通知 iOSデバイスに関する重要なお知らせ」という画面。

この画面を閉じて終了させるべきです。

ただ、ここでOKを押してもまだ何も悪影響はありません。

「iPhoneで(3)つのウイルスが検出されました。バッテリーが感染しています。」

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「iPhoneで(3)つのウイルスが検出されました。バッテリーが感染しています。」

という表示の下に「ダウンロードとインストール」というのがありますが

これをタップする必要はありません。

すぐにブラウザを閉じましょう。

上記の画面はsafariを使ってますが、画面右下の四角が2つ重なってる所を押すと、ブラウザ画面が斜めに表示されるので、左上あたりにある「×ボタン」を押して消しましょう。

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なお、この画面でSafariの画面そのものを上にスワイプすると消えますが、内部ではブラウザを開いている事になっているはずなので、きちんと問題となっている画面について×ボタンを押して消してください。

私はCookieや履歴が残っているのが嫌だったので、そちらも消去しました。

スマホが熱くなってきたら電源を切れ

上記までの操作を行っても、スマホ本体が異常な熱を持って熱くなっている場合があります。その場合は電源を切って、安全な温度になるまで待ちましょう。

そのまま肌に触れさせているとやけどしそうなほどになる場合があるので要注意です。

この現象によって「バッテリーにウィルスが感染してるんだ」と思ってしまう人も居るのかもしれませんが、そうではないので大丈夫です。

以上

「韓国は敵なのか」に「愛知県に慰安婦像を設置する会会長 大村秀章」の文字が

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「韓国は敵なのか」の賛同者一覧に「愛知県に慰安婦像を設置する会会長 大村秀章」という記載がありますが、まぁ、「愛知県知事たる大村秀章本人」であるわけがないので気を付けましょう。

「韓国は敵なのか」に「大村秀章(愛知県に慰安婦像を設置する会会長)

声明への賛同者一覧 - 韓国は敵なのか8月13日時点魚拓)を見ると、『大村秀章(「愛知県に慰安婦像を設置する会」会長)』とあります。

しかし、7月29日時点魚拓では名前が記載されていません。

これはもう、8月1日以降にあいちトリエンナーレで問題視された結果、荒らし行為として投稿されたものと判断するしかないでしょう。

「大村秀章」のWikipediaページも事件以降、幾度となく荒らしによる編集が行われては削除・修正されています。

荒らしも可能なつくりの署名ページ

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賛同署名のページを見れば分かりますが、これは「Googleフォーム」を使ってます。

まぁ、つまり「荒らし投稿し放題」ということです。

「韓国は敵なのか」のページ運営者は、こんなことも分からずに、フォームからの投稿があったら盲目的に「賛同者」として掲載しているようです。

もともと、このページには「枝野幸男(東京都)」という記載もあり、信憑性など最初からなかったということでしょう。もしかしたら、他にも名前を騙られている人も居るかもしれません。

署名サイトの信憑性の無さ

署名サイトと言えば、「中2女子」が利用したChange.orgが有名ですが、投稿数を水増しすることが可能なつくりになっているという指摘がある上に、規約もガバガバだということが判明しました。

また、韓国青瓦台の請願サイトでは日本からも署名が可能でした。

ネット上での署名サイトはもともと信用性が無いものであり、単にメディアと結託して「何か重要な事が起こってる」と見せかけるための道具でしかなかったわけです。

今回の「大村秀章」名義の署名は、そういう署名サイトの性質を逆に利用された悪戯が行われたということでしょう。

以上