事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

ヴォレアス北海道によるV-THEATER2019のイベントで韓国籍無料の理由

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https://voreas.co.jp/v-theater2019

「韓国籍の方は入場無料」というイベントがあるようです。

VOREAS HOKKAIDO(ヴォレアス北海道)主催のイベントで韓国籍の方が入場無料

V-THEATER2019 | 【公式】VOREAS HOKKAIDO(ヴォレアス北海道)OFFICIAL WEBSITE

V-THEATER2019という2019年8月17、18日に開催される文化団体とバレーボールチームのタイアップ事業のようです。

HPを調べてもなぜ韓国籍の方だけが入場無料なのか、よく分かりませんでした。

問い合わせしようにも、ヴォレアスのHPはメールフォームのみがあって電話番号の記載が無いので、即時の対応が期待できません(多くの企業もこういう風にすればいいのにと思う。)

一般社団法人 旭川青年会議所等、民間主催のイベント

関係している組織を見ると、民間団体が主催のようです。

なので、韓国籍限定で入場無料としていること自体を問題視するつもりはありません。

ただ、いったいどういう経緯でそのような条件を設定したのかは気になるところです。

ヴォレアスの選手や監督には韓国籍の選手は居ないようですし、イベントで韓国文化に関係するものは無さそうです。

ただ、旭川市としては韓国側に対して観光プロモーションをしていたという経緯はあります⇒韓国観光プロモーション報告 | 旭川市

元々韓国のチームと試合の予定だったのが理由か

元々8月18日はSUWON KEPCO VIXTORMという韓国のバレーボールチームとの交流試合が予定されていたということでした。現在はエキシビジョンマッチに変更されています。

おそらく韓国籍の方が入場無料だということは、韓国のチームとの交流試合があったからでしょう。

SUWON側は「日程変更のため参加できない」と一方的に連絡してきたということです。この試合を見るために予定を組んでいた人にとってはたまったものではないなと。

元々入場無料だったものを、試合の予定が変わったからといって変更するということにはしなかったのでしょう。

追加:韓国の水原(Suwon)市と旭川市は姉妹都市のようです。

まとめ:交流試合の招待側として特に問題ないのでは?

国際交流試合の招待側の行動として、相手国サポーターを入場無料とすることが通常あり得ることなのかは知りませんが、特に問題ないのではないか?と思います。

韓国チームとの交流試合が予定されていたという経緯を知らないとギョッとするものですが、知ってしまえば特に目くじらを立てるものでもないと思います。

以上

あおり運転殴打をして逮捕身柄拘束の宮崎文夫には何罪が成立するのか

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逮捕状が出た宮崎文夫のあおり運転殴打は何罪なのか簡単に検討してみました。

逮捕身柄拘束の宮崎文夫のあおり運転殴打と傷害罪、脅迫罪?

逮捕・身柄拘束された宮崎文夫の行為を簡単に記述すると『常磐自動車道(高速道路)上で被害車両の後方に急接近した後、前方を蛇行運転した上で中央車線上で斜めに停車することで被害車両を停車せざるを得ない状態にし、自車から降りて、被害車両の運転席に居た被害者に対して「殺すぞ」などと言い、開けられた窓から被害者の顔を5,6発殴打して怪我を負わせた』というものです。

常磐道あおり運転 茨城県警が43歳男を指名手配 - 産経ニュース

常磐道「あおり運転」指名手配の男を大阪で逮捕 | NHKニュース

被害者は映像からも血が出てるのが分かるので、確実に傷害罪は成立します。

なお、高速道路上で停車に追い込んでから「殺すぞ」と言ったことは脅迫行為ですが、被害者は「何を言ってるのかが分からなくて窓を開けた」と言っているように、脅迫の言辞を知覚していません。窓を開けたときにさらに脅迫文言を言われた可能性はありますが、それと殴打は一連の流れなので、脅迫行為として切り出して起訴する運用はしないように思うのですが、どうなんでしょう?

高速道路上での道路交通法違反

宮崎文夫の運転は複数の道路交通法の規定に違反していると思われます。 

(車間距離の保持)
第二十六条 車両等は、同一の進路を進行している他の車両等の直後を進行するときは、その直前の車両等が急に停止したときにおいてもこれに追突するのを避けることができるため必要な距離を、これから保たなければならない。
(罰則 第百十九条第一項第一号の四、第百二十条第一項第二号)

被害車両の後方に急接近したことはこれに当たり得ると思いますが、どれくらいの時間後方に居たかちょっと分からないのでもしかしたらこれには該当しないのかもしれません。

また、高速道路上の運転は道交法内で特則が設けられています。

道路交通法 (最低速度
第七十五条の四 自動車は、法令の規定によりその速度を減ずる場合及び危険を防止するためやむを得ない場合を除き、高速自動車国道の本線車道(政令で定めるものを除く。)においては、道路標識等により自動車の最低速度が指定されている区間にあつてはその最低速度に、その他の区間にあつては政令で定める最低速度に達しない速度で進行してはならない。

道路交通法施行令
高速自動車国道における交通方法の特例に係る最低速度を定めない本線車道)
第二十七条の二 法第七十五条の四の政令で定めるものは、往復の方向にする通行が行われている本線車道で、本線車線が道路の構造上往復の方向別に分離されていないものとする。
(最低速度)
第二十七条の三 法第七十五条の四の政令で定める最低速度は、五十キロメートル毎時とする。

高速道路は50キロメートル未満で走行してはいけないので、蛇行運転を取り出して考える場合には最低速度規定に違反していることになりそうです。

第七十条 車両等の運転者は、当該車両等のハンドル、ブレーキその他の装置を確実に操作し、かつ、道路、交通及び当該車両等の状況に応じ、他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなければならない。
(罰則 第百十九条第一項第九号、同条第二項)

一連のあおり運転は紛れも無く他人に危害を及ぼすような方法での運転でしょう。

第七十五条の八 自動車(これにより牽けん引されるための構造及び装置を有する車両を含む。以下この条において同じ。)は、高速自動車国道等においては、法令の規定若しくは警察官の命令により、又は危険を防止するため一時停止する場合のほか、停車し、又は駐車してはならない。ただし、次の各号のいずれかに掲げる場合においては、この限りでない。

省略

3 高速自動車国道等において第一項の規定に違反して駐車していると認められる自動車であつて、その運転者がこれを離れて直ちに運転することができない状態にあるものは、第五十一条の四第一項に規定する放置車両とみなして、同条の規定を適用する。
(罰則 第一項については第百十九条の二第一項第二号、第百十九条の三第一項第四号 第二項については第百十九条第一項第三号)

他にも道交法違反があるかもしれません。

自動車であおり運転をすることは暴行罪

暴行罪(刑法208条)は不法な有形力の行使があれば成立しますが、これは非接触のものであっても成立するという解釈がされています。

警察もあおり運転には暴行罪で対処する方針を取っています。

実際、あおり運転をしたことに対して暴行罪が成立した裁判例があります。

  • 自動車で高速道路を走行中、並進している右隣の自動車に対していやがらせ等のために自車をその至近距離にまで接近させる行為(東京地方裁判所昭和49年11月7日判決)
  • 大型貨物自動車を運転して高速道路上を走行中、他の車両の運転者に対するいやがらせのため、いわゆる幅寄せをする行為(東京高等裁判所昭50年4月15日判決)

高速での〈あおり運転〉に暴行罪が適用される理由(園田寿) - 個人 - Yahoo!ニュース

煽り運転は運転免許停止の行政処分も

危険!あおり運転等はやめましょう|警察庁Webサイト

警察ではあおり運転等に対してあらゆる法令を駆使して、厳正な捜査を徹底するとともに、積極的な交通指導取締りを推進しています。また、あおり運転等を行った者に対しては、危険性帯有(※)による運転免許の停止等の行政処分を厳正に行っています。

※ 「自動車等を運転することが著しく道路における交通の危険を生じさせるおそれがあるとき」には、危険性帯有者として、点数制度による処分に至らない場合であっても運転免許の停止処分が行われます。

刑事処分とは別個の行政処分として、宮崎文夫の運転免許の停止処分は免れられないでしょう。

東名高速の事件は危険運転致死傷罪で起訴有罪になったが

東名高速で2017年に発生した痛ましい事件。

被告人が高速道路で被害者の車両を複数回にわたってあおり、最終的に追い越し車線(第三通行帯)に被害車両を強制的に停止させ、その後、後続するトラックがその車両に追突し、被害者夫婦が死亡し、娘2人が傷害の結果を負ったという事件ですが、こちらは【自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律】の危険運転致死傷罪に当たるとして起訴され懲役18年の有罪判決が2018年12月14日に横浜地裁で出されました。

東名高速一家死傷事件で〈危険運転致死傷罪〉を認めた判決の疑問点(園田寿) - 個人 - Yahoo!ニュース

しかし、宮崎文夫の事件では交通事故の結果が発生していないので、自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律の適用は無いということになります。

男があおり運転の末に暴行加えた事件 傷害罪で裁判なら執行猶予つくと推測 - ライブドアニュース

殺人未遂罪や監禁罪は無理か

東名高速の事件では危険運転致死傷罪の適用は因果関係の認定に争いがあることから監禁致死傷罪を主張する弁護士や大学教授が現れ、その他殺人未遂罪の適用の可能性は無いのかという声もありました。

しかし、東名高速の事件では検察はいずれの構成も取らなかったようです。

『「監禁」という概念は広がっている』などと言われますが、「一定の場所からの脱出を不可能にする行為」という原義には変更が無いわけです。

高速道路上では横断、転回、後退が道路交通法で禁止されているため、前方に車を止められた場合には移動の自由が奪われたと言い得るかもしれません。

道路交通法 第四章の二 高速自動車国道等における自動車の交通方法等の特例 第二節 自動車の交通方法(横断等の禁止)
第七十五条の五 自動車は、本線車道においては、横断し、転回し、又は後退してはならない。

とはいえ、宮崎文夫の事例では、被害車両は未だ左右の車線に変更して走行することは可能と思われます。さらに、「自動車」ではなく「人」に焦点を当てれば、その人は自車から降りて道路脇に移動することはそこまで困難ではないことから、やはり監禁と言えるかというと困難だと思われます。

次に、停止行為が殺人の実行行為たり得るかというと難しいでしょう。

高速道路上に自動車を停止することが後続車の事故を引き起こすだけでなく死の結果を生じさせる蓋然性が高いという客観的なデータはありませんし、加害者の意識としても「高速道路上で停車させれば相手は死ぬので停車させてやろう」などという殺人の故意をもって行為するということは考えられません。

東名高速の事件でも停止行為はそれ単独では危険運転致死傷罪の実行行為ではないと横浜地裁で判断されました。

なお、乗用車のトランクに人を押し込んで監禁し、路上駐車していたところ、別の乗用車が追突したため死亡した事件においては監禁致死罪の因果関係が認められましたが、トランクの構造が人を守るためにできているのではないという車の特性が考慮された判断であるという分析がなされているので、単に道路上で停止している行為そのものに死の危険があるとされたわけではないと思われ、乗用車の運転席に座っている者については同様の判断はできないでしょう。

停止行為それ自体は、やはり道交法で捕捉するべきでしょうし、あおり運転の末に相手車両に停止を強制させる行為は立法で定めるべきではないでしょうか。

レンタカーを返却期間を過ぎて利用した行為は横領罪?

宮崎文夫が運転していた車は試乗車だったようで、レンタル期間を過ぎて運転していたようです。

横領罪(刑法252条)は「委託信任関係」に基づいて占有している他人の物をその趣旨に反して利用処分することで成立します。物を預けてそれを適切に管理する関係であればここで言う委託信任関係に当たると思われるところ、レンタカー契約は車体部分は賃貸借契約と言え、委託信任関係があるとして横領罪の成立は有り得ると思います。

器物損壊罪も?

あおり運転容疑者と同乗ガラケー女性が試乗車返却か - 社会 : 日刊スポーツ

車を貸し出した神奈川県内のドイツ製高級車販売店によると、容疑者は試乗車で神奈川から大阪、福井まで走ったと話していたという。車は傷ついており、店では損害賠償請求を検討している。

厳密に言えば器物損壊罪の構成要件に該当する行為でしょうが、実際上はレンタカー契約において利用した車を傷つけた客が居たとしても、それを器物損壊罪で立件するのはあまり無いのではないかと思います。

ただ、レンタカーが傷ついているということは、他のどこかにぶつけたということなので、そちらの器物損壊で立件することは有り得ると思います。

まとめ:覚せい剤等薬物の利用はあったのか

  1. 各種の道路交通法違反
  2. 暴行罪
  3. 傷害罪
  4. 横領罪
  5. 器物損壊罪

宮崎文夫にはこれらの罪が成立しそうです。暴行罪と一部の道路交通法違反は観念的競合(一個の行為が二個以上の罪名に触れる行為・刑法54条1項)になるモノもあるかもしれませんが詳細は省きます。

異常な運転であったことから、覚せい剤等の薬物の使用があったのではないかとも言われていますが、今の所そのような情報は無いようです。

以上

こっそり開催のトリエンナーレ検証委員会の告知ページが削除、津田大介「たった18人」

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 「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」が8月16日に愛知県庁舎で行われました。

それに関連して津田大介が「傍聴者は18人」「ネットで起きていることと現実で起きてることのギャップがすごい」などと言っています。

さらには告知ページが削除もされています。

こっそり開催のトリエンナーレ検証委員会の告知ページが削除

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あいちトリエンナーレのあり方検証委員会 第1回会議の開催について - 愛知県

検証委員会の告知ページはなぜか現在は削除されていますが、Google上にキャッシュが残っていたので愛知県の告知ページを見ることができました。

掲載日は8月13日となっているこの告知を見ると

  • 傍聴の申込みは、当日、午後1時30分から午後1時45分まで会場で受け付けます。
  • 傍聴の希望者が予定定員の30名を超えた場合は、抽選により決定します。

と書いてあります。

受付時間がたった15分、定員は30名だったというのが分かります。

それにしても、なんで削除したんでしょ?

トリエンナーレのHPや津田大介、大村知事のツイッター等では告知なし

検証委員会の告知については、愛知県のページ以外では見つけることができません。

大村知事や津田大介のツイートでも事後報告はありましたが告知はありませんでした。

また、トリエンナーレ実行委員会の会長代行である名古屋市の河村市長に対しては相談すらされなかったことが判明しています。

トリエンナーレ検証委 河村市長「説明なく人選も相談なかった。暴力的だ」と大村知事批判 - 毎日新聞

名古屋市の河村たかし市長は16日、愛知県が同日開いた検証委員会について「(芸術祭実行委員会の)会長代行の私に何の説明もなく設置し、人選も相談がなかった。暴力的だ」と大村秀章知事を批判した。

津田大介「たった18人」の傲慢さ

魚拓はこちら

この検証委員会にはオブザーバーとして大村知事が就任しています。

検証されるべき人物がオブザーバーなどとふざけたことを言ってる「検証委員会」に何を期待するというのでしょうか?

以上

津田大介、トリエンナーレお詫び文の不適切表現を削除「読者の誤読」にすり替える

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 津田大介がトリエンナーレお詫び報告文を一部削除しました。

 その文章が責任のなすりつけでしかないので本当に酷いなと思います。

津田大介お詫び報告分の8月16日の追記内容

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium

【2019年8月16日追記】
昨日公表した「あいちトリエンナーレ2019『表現の不自由展・その後』に関するお詫びと報告」の中で、「1つは、自分を批判する人を見つけたら『コロス』リストに入れると言った発言についてです。これは、アンガーコントロールの一環として、怒りを覚えた相手について、『コロス』リストに入れることで、その人に対する怒りを静めようとしたものであり、公開する気もなければ、もちろん、実行する気もありませんでした。特定の人に対する怒りを静めるために、怒りを覚えた相手を記録することで怒りを静めるやり方は、XXX協会や、XXXで推奨されている方法です。と記載したところ、その協会が「コロスリスト」を推奨していると誤読した方々からたくさんの問い合わせや抗議が来ていてとても迷惑しているとの苦情をXXX協会から受けるに至りました。本日電話で対応に当たられた皆様には、この場を借りてお詫びいたします。
「あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」」に関しては、今後も様々な発表をしていきたいと考えておりますが、具体的な人や団体の名前を出すたびごとにその人や団体にこのような迷惑がかかるというのでは、具体的な内容を発表することを躊躇せざるを得なくなってしまいます。
つきましては、上記お詫びと報告から該当部分を削除しますので、皆様におかれましても、他の組織や団体のご迷惑になるような行為は自重してくださいますようお願いします。

いったい何をいってるんだろう?

日本アンガーマネジメント協会や、累計65万部を突破した『頭に来てもアホとは戦うな!』(田村耕太郎著)

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium(魚拓のリンクです)

初期の魚拓を見ると、「日本アンガ―マネジメント協会」「『頭に来てもアホとは戦うな!』(田村耕太郎著)」という文言があるのが分かります。

子どもと関わる人のためのアンガーマネジメント 怒りの感情をコントロールする方法 [ 一般社団法人アンガーマネジメント協会 ] 

頭に来てもアホとは戦うな! 人間関係を思い通りにし、最高のパフォーマンスを実現 [ 田村耕太郎 ]

不適切表現を読者の誤読にすり替える津田大介

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あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium(魚拓のリンクです)

1つは、自分を批判する人を見つけたら「コロス」リストに入れると言った発言についてです。これは、アンガーマネジメントの一環として、怒りを覚えた相手について、「コロス」リストに入れることで、その人に対する怒りを静めようとしたものであり、公開する気もなければ、もちろん、実行する気もありませんでした。特定の人に対する怒りを静めるために、怒りを覚えた相手を記録することで怒りを静めるやり方は、日本アンガーマネジメント協会や、累計65万部を突破した『頭に来てもアホとは戦うな!』(田村耕太郎著)で推奨されている方法です。

この文面を見て、かなり慎重な人ならば「特定の人に対する怒りを静めるために、怒りを覚えた相手を記録することで怒りを静めるやり方」と「怒りを覚えた相手について、「コロス」リストに入れることで、その人に対する怒りを静めようとした」は別ものである可能性を考えます。

しかし、この書き方では日本アンガ―マネジメント協会や田村耕太郎著作において、「コロスリスト」が例示されていたと理解されても仕方がないでしょう。

これらの人・団体に抗議の電話が鳴ったのは津田大介の不用意な表現が原因であり、読者の誤読が原因であるという責任のなすりつけはおかしいでしょう。

以上

津田大介の長文の言い訳の疑問点:トリエンナーレ表現の不自由展

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あいちトリエンナーレ実行委員会の芸術監督である津田大介が「お詫びと報告」と題した長文の言い訳を私的な媒体に掲載しました。

その内容を見ると、判断がめちゃくちゃだったということが改めて分かりました。

表現の不自由展は「再展示」が契約内容だった?

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium 魚拓はこちら・削除部分あり

「表現の不自由展・その後」は、2015年の冬に行われた「表現の不自由展」を企画した表現の不自由展実行委員会(以下「不自由展実行委」)の作品です。公立の美術館で検閲を受けた作品を展示する「表現の不自由展」のコンセプトはそのままに、2015年以降の事例も加えて、それらを公立の美術館で再展示する。表現の自由を巡る状況に思いを馳せ、議論のきっかけにしたいという趣旨の企画です。トリエンナーレが直接契約を結んだ参加作家はこの「表現の不自由展実行委員会」です。

両実行委員会が契約を結んだのは、過去に開催した表現の不自由展の作品を(それ以降の事例も加えて)再展示するという趣旨でした。

であるならば、再展示以外のもの、つまり2015年以前に問題視された作品に関して新たに作品を作るということは、基本的に契約違反のハズです。

大浦信行の天皇コラージュは新たに焼却映像が

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium 魚拓はこちら・削除部分あり

本来「表現の不自由展・その後」は、公立の美術館で検閲を受けた作品を展示するというコンセプトであり、新作の出展はコンセプトになじまないというお話は大浦さんにはさせていただいたのですが、展示の準備段階で《遠近を抱えて》と《遠近を抱えてPartII》は一続きの作品で、《遠近を抱えてPartII》を展示できないのならば《遠近を抱えて》の出品も取り下げるという連絡が大浦さんからありました。2015年の「表現の不自由展」にも出品された同作を出展できないのは、「その後」の趣旨ともずれてきてしまうため、不自由展実行委と協議のうえ、出展が決まりました。これが《遠近を抱えてPartII》が出展された経緯です。

これは相手方の契約違反であるとして要求を跳ね除けなくてはならなかった話です。

なぜ契約違反行為があるので展示を許さないことが憲法違反なのか?

トリエンナーレの展示は政府言論:原則的に表現の自由の問題ではない

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 政府の言論と人権理論 (3) 金澤, 誠 北大法学論集, 61(5), 144[65]-81[128] 

アメリカの事案ですが、市が管理する公園において、ある宗教団体がモニュメントの展示を求めたが、市が認めなかったことが表現の自由条項違反だとして争われました。

連邦地裁は表現の自由の話だとしましたが、連邦最高裁は公園の展示は「政府言論」(ガバメントスピーチ)であるとして、その場合は表現の自由条項の問題ではないと判断しました。

トリエンナーレ実行委員会は実質的に愛知県が運営し、津田大介も愛知県から職務を委嘱されているので、津田大介も公的機関の側です。それは本人の記述からもそういう認識だったということがわかります。

この場合に展示作品を選考するのは検閲でも何でもなく、裁量の範囲であるということを津田大介に説明する者が居なかったのが大きな問題でしょう。大村知事も本件を検閲の話だと言っていたことから、周りにまともな憲法知識・判断能力のある者が居なかったのでしょう。

「政府言論」の詳細は以下参照。

津田大介の憲法観では芸術祭の「乗っ取り」が可能になる

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium 魚拓はこちら・削除部分あり

2019年2月28日(木)と3月18日(月)の打ち合わせの段階では、僕から不自由展実行委に《平和の少女像》については様々な懸念が予想されるため、実現が難しくなるだろうと伝えていました。しかし《平和の少女像》は2015年の「表現の不自由展」でも展示された作品であり、展示の根幹に関わるという理由で「少女像を展示できないのならば、その状況こそが検閲であり、この企画はやる意味がない」と断固拒否されました。
キュレーターチームや実行委員会事務局にその旨を報告すると、アーティストの参加辞退というのは前代未聞で、行政としても前例がないと言われました。

中略

「表現の不自由展・その後」にどの作品を展示し、どの作品を展示しないかは、最終的に「表現の不自由展・その後」の出展者である不自由展実行委が決定権を持っていました。

中略

とはいえ、事情は複雑で、そもそもの企画が「公立の美術館で検閲を受けた作品を展示する」という趣旨である以上、不自由展実行委が推薦する作品を僕が拒絶してしまうと、まさに「公的なイベントで事前“検閲”が発生」したことになってしまいます。後述するキム・ソギョン/キム・ウンソン夫妻の《平和の少女像》、及び、大浦信行さんの《遠近を抱えて》の関連映像についても、不自由展実行委の判断を優先しました。もちろん、この2作品を展示作品に加えた場合、強い抗議運動に晒されるリスクがあることは理解していましたが、自分の判断で出展を取りやめにしてしまうと同様の事前“検閲”が発生したことになります。芸術監督として現場のリスクを減らす判断をするか、“作家(不自由展実行委)”の表現の自由を守るかという難しい二択を迫られた自分は、不自由展実行委と議論する過程で後者を判断しました。8月3日の記者会見で今回の企画を通したことを「自分のジャーナリストとしてのエゴだったのではないか」と述べたのは、これらの判断のことを指しています。いずれにせよ、最終的に僕は出展者である不自由展実行委の判断を尊重しました。

「最終的に表現の不自由展実行委員会が作品展示の決定権があると言っておきながら最終的に津田大介が判断を尊重しました」って、支離滅裂ですね。

作品展示の最終決定権は公的機関たる津田大介ないし大村知事にあります。

それを「検閲になるから」という妄想によって出展者の言いなりになるというのは、おかしいことだとは思わなかったのでしょうか?

これでは乗っ取りが可能になってしまいます。

だいたい、トリエンナーレのパートナーシップ事業の団体参加資格や愛知県の補助金交付要件には「政治活動目的の事業ではないこと」という内容規制が既にあります。
(トリエンナーレの国際現代美術展にはそのようなルールが不思議と存在しない)

なぜ表現の不自由展だけが規制が許されない扱いになっているのか意味不明です。

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文化芸術基本法は介入を絶対的に禁止する根拠にならない

ここで、文化芸術基本法(法律名称の改正前は文化芸術振興基本法)を持ち出して「行政不介入原則があるのだから、大村知事が口出しはできないというのは当然だ」という主張がありますが、以下の点が無視されています。

  1. 文化芸術基本法は行政不介入の原則を示しているに過ぎず、絶対的に介入を禁止しているわけでは
  2. 文化芸術基本法があるからといって表現の自由に給付請求権は無い
  3. 文化芸術基本法2条9項には「文化芸術に関する施策の推進に当たっては,文化芸術活動を行う者その他広く国民の意見が反映されるよう十分配慮されなければならない」とある
  4. 誰が文化芸術であると決めるのか?

詳しくは以下で論じていますが、公的機関に自己矛盾を強いることになる理解はおかしいと思わないのでしょうか?

まとめ:本当に津田大介は展示を拒否するつもりだったのか?

津田大介の「お詫び・報告」と題する文章にはツッコみ所が満載なのですが、やはり本質的な問題は、誤った憲法理解によって津田大介が表現の不自由展の出展を拒否できなかったということでしょう。

また、津田大介と東浩紀がトリエンナーレについて語る対談動画がUPされていますが、その語り口を見ると、津田大介自身が積極的に表現の不自由展の展示内容をプッシュしていたようにも感じます。本当に津田大介が展示を拒否するつもりだったのか疑問です。

こうした点も含め、トリエンナーレは徹底的に調査されてしかるべきだと思います。

以上

表現の自由の問題ではなく【政府言論】トリエンナーレ表現の不自由展中止

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ほぼ愛知県で構成される実行委員会によって運営されている「あいちトリエンナーレ」の一つのブースである表現の不自由展が、昭和天皇の御真影を焼却する動画といった侮蔑的表現や、捏造慰安婦像の設置など国家意思に反する政治的表現を行ったことで抗議を受け中止になった事件。

この話を「表現の自由」の問題だとする論調がメディアに出る大学教授や弁護士らによってさも当然のごとく喧伝されていますが、基本的に無理筋であるという点が誤魔化されています。

アメリカにおける同種事案の分析をした論文等から指摘します。

「表現の自由」は「国家に邪魔されない権利」が原則

憲法上の権利を大別すると、自由権は「国家からの自由」、参政権は「国家への自由」、社会権は「国家による自由」と言われます(請願権や裁判を受ける権利などの国務請求権もあるが)。

憲法21条の表現の自由は「自由権」です。国民が国家の不作為を要求することができる権利(邪魔するなと言う権利)です。

これに対して社会権は、国民が国家に対して作為を要求することができる権利です。

ただし、憲法学上は、こうした分類は相対的なものであって、固定的に厳密に分類する事は避け、柔軟に考えるべきとされています。憲法21条1項からの派生原理である知る権利は作為請求権的「側面」を有しているとされます(ただ、具体的な給付請求権ではない)。

それでも、やはり原則は表現の自由という権利は自由権であり、国家に対して表現をする場を提供するよう求めることができる権利ではないという認識が前提にあります。

ここまでの事は憲法の急所第2版 [ 木村草太 ]などでも書かれています。

では、表現の不自由展は誰がどういう行為をしていたのか?

トリエンナーレ表現の不自由展は公的機関が運営

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あいちトリエンナーレ実行委員会の構成は様々ですが、責任を問われる役職にあるのはことごとく愛知県の公的機関に属する者が名を連ねています。

これは個人名ではなく、公的機関の役職名での記載であることから、あいちトリエンナーレ実行委員会は実質的に公的機関とみなす他ないと言えます。

そして、津田大介は民間人ですが、芸術監督は実行委員会の内部の機関であり、公的機関の側の人間です。実際、津田は愛知県から委嘱状を受けています(公務員就任をともなっていたかは不明)。

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「民間事業に公金が支出されている」のではなく「公的機関が主催している」のです。

アメリカ連邦最高裁の類似事案

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政府の言論と人権理論 (3) 金澤, 誠 北大法学論集, 61(5), 144[65]-81[128] 

トリエンナーレと類似している事案において、アメリカ連邦最高裁が合衆国憲法修正1条(表現の自由等の権利について定めた条文。原則として「厳格な審査」を要すると解釈されてきた)に該当する話なのかを判断したものがあります。

市が管理する公園において、ある宗教団体がモニュメントの展示を求めたが、市が認めなかったことが表現の自由条項違反だとして争われました。

連邦地裁は表現の自由の話だとしましたが、連邦最高裁は公園の展示は「政府言論」(ガバメントスピーチ)であるとして、その場合は表現の自由条項の問題ではないと判断しました。

公園は「伝統的パブリックフォーラム」と言われ、そこでの国民の表現行為を規制するためには、内容中立的で、重大な政府利益に仕えるように限定的に作られており、かつ、他の選びうる伝達回路が十分に残されているときにのみ制限が認められる、とされていました。

上記事案では「国民の行為」ではないとされたことから、上記枠組みから完全に外れると判断されたということです。

アメリカは星条旗を焼く行為すら表現の自由として認めていたことを考えれば、国民の行為か政府言論かという違いは決定的だというのが分かります。

「行為」しているのは公的機関:政府言論・政府事業の領域

このように、公的機関が管理運営することで初めて表現行為が成り立つというような場合には、行為者は公的機関であり、民間人の行為であるとは見ないという見解が示されている例があるということです。

日本で最も近い事案は船橋市立西図書館蔵書廃棄事件ですが、著作者らが現実に動いていたわけではないので種類としては別個の話でしょう。そこでも直接的には表現の自由の話ではないと最高裁で判断されています。

会社の営業マンが契約を取ってきたとしても、一般的にはお金は営業マンに入るのではなく、権利義務は会社に帰属するのと同じことです。現実に動いている者と法的な主体は異なるということは、世の中に溢れています。

表現の自由の問題ではない=検閲の領域ではない

憲法上の検閲、つまり憲法21条2項で禁止されている検閲については税関検査事件で判例に拠る定義が示されましたが、範囲が狭すぎるというの批判があり、また、一般用語としての「検閲」には「事後検閲が含まれる」とか、「広義の検閲概念」なるものを持ち出してトリエンナーレの話を「検閲」だとする者が居ます。

しかし、検閲とは本来は民間が自由に表現・出版等ができたのに、それを公権力が禁止する行為です。民間が自由に表現をする場ではない場合には、検閲であるか否かを問疑する段階にすら入りません。

このことは何度も指摘してきました。

こういった素朴な評価を言語化・法理化したのがアメリカ連邦最高裁の「政府言論」と言えるでしょう。日本では同様の事案が争われていないので判断されていないので、好き勝手言ってる人が居るというに過ぎません。

トリエンナーレ実行委員会が表現内容を理由として排除できないのがおかしいもう一つの理由

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トリエンナーレ本体の展示作品にかんするルールではないですが、パートナーシップ事業の団体参加資格や、トリエンナーレに参加している団体も申請している(愛知県の)補助金の交付要件には「政治活動を目的とする事業でないこと」というルールが既にあります。

大村知事や津田大介が言うように、もしも本当に「実行委員会が内容に踏み込んで事前規制することは許されない」のであれば、これらのルールの存在は一体何なんでしょうか?

なぜ、トリエンナーレの他の場面では規定されているルールがトリエンナーレ本体では用意されていないのか?とてもチグハグな状況だと言えます。

政府言論=ガバメントスピーチの乗っ取り

さて、逆にトリエンナーレの表現の不自由展の展示について、公的機関側が拒否をすることができないと考えてみましょう。その場合、どういうことが起こるでしょうか?

『政府言論=ガバメントスピーチの乗っ取り』が可能になってしまいます。

この懸念は衆議院議員の和田政宗氏も指摘しています。

表現の不自由展の実行委員会のメンバーを見ると、公的機関の運営する場を乗っ取ることを目的にしていたのではないかと疑わしく思います。

公的機関が主催運営している場での展示は「政府が認めた」と客観的には見えるものなので、それを狙っていたとしか思えません。

単なる公金支出の問題と考えるとおかしなことに

なお、トリエンナーレ表現の不自由展を「公金が支出されているから・公的施設を使っているから、表現が規制されても仕方がない」という主張がありますが、これは政府言論とはまったく異なる論法です。

民間事業に公金が支出されていても、それは政府が展示された表現を是認したということをただちには意味しません。

ですから、「行為者は誰か?」という観点は決定的に重要なのです。

承認しておいて後から禁止したことが問題

トリエンナーレ表現の不自由展の事案の特徴は、一度公的機関側が展示を承認しておいて、後から禁止したということです。

アメリカ流の政府言論の考え方なら、この場合でも表現の自由の問題とはなりませんが、船橋市立西図書館蔵書廃棄事件では著作者の人格的利益が法的保護に値するとされたこととの関係上、そういった利益が認められる可能性はあります。

それも認められないとしても、契約上の債務不履行の話になり得ます。

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium

「表現の不自由展・その後」は、2015年の冬に行われた「表現の不自由展」を企画した表現の不自由展実行委員会(以下「不自由展実行委」)の作品です。公立の美術館で検閲を受けた作品を展示する「表現の不自由展」のコンセプトはそのままに、2015年以降の事例も加えて、それらを公立の美術館で再展示する。表現の自由を巡る状況に思いを馳せ、議論のきっかけにしたいという趣旨の企画です。トリエンナーレが直接契約を結んだ参加作家はこの「表現の不自由展実行委員会」です。

過去開催された表現の不自由展の内容に加えてそれ以降の事例も加えて「再展示する」契約を両実行委員会が締結していたと津田大介は語っています。

そのような契約の中で一度承認しておいて中止したことが、憲法上の権利ではなく契約上の権利を根拠にして争いになることが考えられます。

まとめ

  1. 表現の自由は国家に邪魔されない権利なのが原則
  2. トリエンナーレ実行委員会は公的機関
  3. 表現の不自由展の展示は政府言論なので表現の自由の問題にはならない
  4. ただし、法的保護に値する人格的利益の侵害や契約上の債務不履行の話にはなり得る
  5. 単なる公金支出の問題だと考えると説明がつかない点がでてくる

憲法学界では政府による給付・助成・援助という文脈の中で、通常は表現の自由の範疇ではないものについて、表現の自由論によって憲法的統制ができないかと試行錯誤してきた経緯があります。

ですから、トリエンナーレの事案を表現の自由論で語ることが間違いだと言うつもりはありません。

しかし、原則的に表現の自由論となるかはかなり厳しい、というのがこれまでの議論であったわけで、それを無視してさも表現の自由の許されざる侵害であるという論調でメディアで話をする法律専門家は、甚だ不誠実だと思います。

以上