外野は受け止めるしかない
- 一橋大学の学園祭で百田尚樹講演会が中止
- 講演会中止理由「新入生歓迎」困難になる警備体制増加
- 本件に対する私見:当事者が決めた以上無理強いできない
- 百田尚樹講演会反対派からの実行委員会非難は卑怯
- 百田尚樹講演会賛成派による願望の投影行為の違和感
- この事例を今後に生かすために:表現の自由と自律的判断の尊重
一橋大学の学園祭で百田尚樹講演会が中止
一橋大学の学園祭において、作家の百田尚樹氏が講演会をする運びとなっていましたが、学内の反対派や国会議員等による反対派への後押しにより、中止となってしまいました。
【百田尚樹氏講演会中止のお知らせ】
— 一橋大学第21回KODAIRA祭 (@KODAIRAfes) 2017年6月2日
6月10日に予定されておりました百田尚樹氏講演会は中止と相成りました。協力者の皆様、講演会を楽しみにして下さった皆様には大変申し訳ありません。
詳細につきましては、下記URLをご覧ください。
https://t.co/JCsv0aitgQ
講演会中止理由「新入生歓迎」困難になる警備体制増加
詳細は以下のページです。
このたび本講演会を中止することになった理由についてですが、「本講演会がKODAIRA祭の理念に沿うものでなくなってしまったこと」が挙げられます。当学園祭は一般の学園祭と異なり、「新入生の歓迎」を第一義とするものです。当委員会の企画のために、新入生の考案した企画や、新入生の発表の場である他の参加団体の企画が犠牲となることは、当委員会では決して容認できるものではありません。
当委員会は本講演会を安全に実施するため、これまで幾重にも審議を重ね、厳重な警備体制を用意していました。しかし、それがあまりにも大きくなりすぎたゆえ、(いくつもの企画が犠牲となり、)「新入生のための学園祭」というKODAIRA祭の根幹が揺らいでしまうところまで来てしまいました。
他の企画が犠牲になるくらい警備体制を厳重にしなければならないほどに反対が苛烈だったということでしょう。反対派の学生のツイートでは、院生を含めて6000人居る一橋大学の内100名程度の学生が反対活動をしていたらしいが、それだけであると考えるのはおかしいだろう。当然、学外の勢力からの妨害もあっただろうし、国会議員の有田芳生などもこの講演会の妨害を応援していた。
(学内の反対派の反対行動も、それ自体は尊重しなければならないことは言うまでもない)
本件に対する私見:当事者が決めた以上無理強いできない
苦渋の決断だったと思います。
— Nathan(ねーさん) (@Nathankirinoha) 2017年6月2日
妨害工作が学内の社研、言社、院生自治会の一部を始め、国会議員からも行われていたことに憤りを感じている者は全国に多数います。
心無い言葉もある中、整理が難しいとは思いますが、これまでの活動と今回の決断の全てに誇りを持っていただきたいと思います。
私は軽々しく「誇りをもっていただきたい」なんて書いたが、しかし、実行委員会の方々は忸怩たる思いでしょうね。これは、彼ら彼女らが整理をつけるべき問題として、第三者がとやかく言うことではないでしょう。
百田尚樹講演会反対派からの実行委員会非難は卑怯
さて、ここで指摘したいのは、この判断に際して第三者が勝手に学園祭実行委委員会の行動・判断を評価している者たちについてです。私はこのような者たちに与しない。
一橋大学がどういう大学なのかを考えると、一橋大学でありながらリスクや警備費用を見積もれなかったなんて恥以外の何物でもない。学生がこんなレベルなら教授が引き抜かれるわ。
— 富 ユタカ (@lkj777) 2017年6月2日
反対派の主張は百田直樹氏が「ヘイトスピーチをする者だから」というものでした。まず、百田直樹氏がこれまでヘイトスピーチを行ったことなど一度もなく、特定の政治的見解を述べたことについてヘイトだという評価がなされたに過ぎない。そして、百田氏が予定していた講演内容は表題からして全くヘイトの要素など入っていないものであった。
そうであるからこそ、反対派が現れるなどというのは「想定の範囲外」であったはずだ。さらに言えば、こういう反対というのはどんどん膨れ上がっていくものである。企画段階で「見積もれ」などというのはハッキリ言って不可能だ。机上の空論で現在の地点から過去の判断を一方的に攻撃する卑怯な論法である。
百田尚樹講演会賛成派による願望の投影行為の違和感
さらに言えば、講演会の実現を希望している者の中にも、受け入れられない考え方の者が居る。
今回の決断は褒められませんよ。
— 佐々木 進 (@sasaki_su) 2017年6月3日
言論弾圧に屈した情けない大学生としか言いようがない。
そもそも、一橋には大学自治は、無いの?
私は、自分の願望・欲望を他人にかぶせ、その他人が自分の願望通りに行動しなかったからといって非難するということはしません。実行委員会の行動に自己の願望を投影する者に、私は与しません。
— Nathan(ねーさん) (@Nathankirinoha) 2017年6月3日
「実行委員会の判断は、言論弾圧に屈した恥ずかしいものだ」
こんな評価を当人たちが目にするツイートラインで堂々と行うことは、私は絶対にしない。「言論の自由を実現せよ」などという命題は、第三者が勝手に設定したものであるし、それは妨害工作を受けてから設けられたものである。
実行委員会は、百田氏に政治的言論を求めていたのではない。それは講演のタイトルが「現代社会におけるマスコミのあり方」というものであったことなど、実行委員会の発信を見れば明らかだ。そこに何が何でも譲れない政治的思想の表明という要素は無い。
なぜ外野である者が実行委員会の行動指針を勝手に決めて、それに沿っていなかったら非難するのだろうか。そういう他人事の評価を「大人」である側(本当にそうかは怪しいが)がまるで実行委員会に教えて差し上げるかのような上から目線で行うことに、強烈な拒絶感を覚える。
「言論の自由の実現のために半端な覚悟で行動するな」
などという者は、妨害派による命題設定のすり替えに加担し、妨害派の理論の土俵にいつの間にか乗っかってしまっていることに気付いているのであろうか?
もちろん、客観的な評価として、後から振り返った視点でこの件を眺めるのならば、それも許される余地があろう。しかし、現実の学園祭の企画運営を知らない上に、実際の妨害情況を考慮しない空論をいくら唱えても、それが「言論の自由」に寄与するとは到底思えない。
この件の批判の対象は、妨害工作を行った者に対して行われるべきものだ。なぜ今回のことが地上波のTVで大々的に報道されないのか?という指摘などがまさにそれにあたる。これに対して、実行委員会を非難する形で「言論の自由をお前らが守らなかったせいで、日本全体が困るだろ、どうしてくれんだ」という主張をする者は、いったいどちらの味方なのかと言いたくなる。
彼らの普段のツイートを読む限り、反対派の連中が偽装工作をしているわけではないということはわかる。彼らが本当に心からそのように思っているのだろう。しかし、そうした心持ちは有害であるということに気付いてほしい。若い者であるのならなおさら今の段階で気づいてほしい。
この事例を今後に生かすために:表現の自由と自律的判断の尊重
さて、一橋大学は11月にも学園祭があるようです。
外野がこの時期に「百田氏を呼べ」などと言うことも、私は遠慮すべきだと思う。
ただ、一橋大の学園祭実行委員会に興味を持ったのであれば、この点について今後どうなるのかを追っていくというのはむしろいいことなのではないかと思う。
言うまでもなく、言論はその内容によって判断されるべきであり、言論発信段階の前に、発信のための場を潰してやろうということは表現の自由を冒涜しており、許されるものではない。このブログというものを書いている或いは見ている私たちはそうした考えを共有しているはずである。実行委員会の今回の判断のみならず、これまでの行動、そして今後の行動すべてについて、尊重していきたいと思う。
以上