事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

広島高裁の虚偽?伊方原発差止決定文に引用の欠落を発見

伊方原発広島高裁差止め

とんでもない発見をしてしまいました。

伊方原発差し止め決定において、広島高裁が引用した文に欠落を発見しました。

この点がどう決定に影響したのか、それは正当なのかについて検討していきます。

広島高裁の虚偽の可能性?

広島高裁は差止め決定文において、原子力規制委員会の「考え方」を引用していました。

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では、引用元であった原子力規制委員会の「考え方」には、実際にはどう記載されていたか?

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「又はその危険性の相当程度が人間によって管理できると考えられる場合に」

この文言が全て欠落している。

広島高裁がこれを読み落としたということは在り得ないから、意識的に引用時に省いたのだろう。これは自説を展開するために恣意的に省いた虚偽なのか?

それは断定する事ができないため、好意的に解釈するとすれば、広島高裁はこの部分の引用をせずとも文章の意味は変わらないと判断したと解すことも可能である。

しかし、そうであっても、その判断は妥当だったのか?

つまり、そもそも危険性の予測判断が専門家においても為し得ないという場合には、「人間によって管理できると考えられない」のであって、相対的危険の俎上にすら乗らないという読み込みができるのではないか?相対的危険の俎上に乗らないとしても、立地不適切と判断されるということにはならないのではないか?

それがこの日記で検討したい内容である。

広島高裁が伊方原発差止決定引用しなかった理由

ここの文言の理解は相当分かれると思う。広島高裁を正当化する立場に立って考えてみると、例えば、単純に社会通念上容認できる水準を下回らない場合であって、危険の程度が単独で許容範囲外である場合を除く、という読み方が素直かとも思った。

 

①社会通念を下回る << 社会通念上容認できる水準 << ②相当程度が人間によって管理できる << ③管理できない

 

①、②は相対的危険で考慮、③は即ダメ

このように、同じ次元、同じ軸で理解されるべきものであるならば、「又はその危険性の相当程度が人間によって管理できると考えられる場合に」という文言は、単に上限を設定する意味しか持たないため、省いても問題ない。

これに対して、普通だったら「社会通念上容認できる水準を超えていても」という文言が入るのではないだろうかという指摘もできる。

ただ、暗黙の裡にこの前提があると読むことも可能である。下限は暗黙にあり、上限として「人間が管理できる」を設定しているのかもしれない。

しかし、A又はBという場合、両者は「別物」と読む余地も十分に可能である。

同じ軸の上下関係、強弱関係にある、というような場合には、明示的にそのようなことが書かれているはず。

今回も、危険が社会的許容範囲以下という「水準」の場合 又は 「人間が管理できる」場合という、別次元の二つを並べているように思える。

この見解に立てば、高裁が「人間が管理できる」という点を落として原子力規制委員会の「考え方」を理解したのは過誤があるということになる。

「人間が管理できる」の意味内容 

ただし、この前提に立っても、もう一つクリアするべき問題がある。

それは、「そうすると、「今回は人間が管理できない場合」にあたるから、この場合には相対的危険を判断するまでもなく危険だとして立地不適切ということになるのではないか?」という疑問に答えざるを得ないという問題である。

ここで問題なのは、「人間が管理できる」場合、すなわちその反対としての「人間が管理できない」とはどういう意味かということと、その場合には立地不適切と判断すると火山ガイドが規定していると読めるのか、という問題がある 

「人間が管理できない」の理解について

「人間が管理できない」場合にも2種類があると思われる。

1つは、「人間が生み出すことが予定されている危険」つまり、危険の発生そのものには人間の側にイニシアティブがある場合、つまり、危険発生の手綱を人間が握っている場合であって、その危険の大きさや頻度(可能性)は人間がコントロールできない場合である、例えば電子同士を亜光速で衝突させ、極小ブラックホールを造るという実験の際に、ブラックホールが地球を飲み込むのではないかということが心配されたが、その可能性はないとされた。これが仮に現実とは異なり本当にコントロールできないのがわかっていれば、その場合には一義的にやめるべき、ということになる。この場合には実験の利益、などという相対的危険のもう一方の考慮など働かせる余地はないだろう。

もう1つは、危険が発生するのか否かについて人間にイニシアティブが無い、つまり、危険発生の手綱を人間が握っておらず、危険発生の予測もできないという場合である。簡単に思いつくのが天変地異である。隕石の落下、超巨大地震、破局的噴火、(地球の地軸変化などもこの類だろう)などは、この部類に入るのではないだろうか。

だとすると、今回は後者の事例にあたることを理由に相対的安全性の俎上に乗っからないことになる。 

火山ガイドにおける「人間が管理できない場合」の扱い

原子力規制委員会の火山ガイド

では、相対的安全性の俎上に乗っからない場合、むしろ危険が推定されて立地不適切と判断されるのだろうか?

そのような見解を火山ガイドは取っているか?

この点、火山ガイド上も、相対的安全性の俎上に乗っからない場合において、危険だから原子力発電所の設置をやめるべきということは明文上規定していない上、考え方としても示されていない。相対的安全性という概念自体、危険が人間のコントロール下にあることを前提としている以上、人間のコントロール外の事情がある場合に直ちに火山ガイド上、危険と解することはできない。

よって、火山ガイド上も、相対的危険の俎上に乗っからない場合であっても、なお立地不適切と判断されない余地が残っており、「人間に危険発生のイニシアティブがない場合」においては、立地不適切との判断において考慮しないという前提があると解することは十分可能である。

広島高裁が火山ガイドは原子力委員会に裁量を与えたと理解した理由

さて、火山ガイドは原子力規制委員会に判断の裁量が与えられていると高裁は述べた。その裁量を与える淵源として、火山学者の専門的技術的知見が備わっている前提だった。にもかかわらず、高裁も現代の火山学には噴火予測、規模予測の知見がほぼ無いということを具体的危険の判断の中でのみ考慮していた。

これはどういうことか?

もしかしたら司法判断の大原則として「法が措定する仮想的事実は、実際の現実的事実に影響を受けない」というものがあるのかもしれない。 例えば民法では「経済的合理人」の行為を措定しているが、一般消費者には妥当しない場面がある。しかし、おばあちゃんが行為をしようが、専門知識を備える個人事業主が行為をしようが、民法上は、人の行為として同じ次元で捉えられる。

こうした不都合を是正するために、一般消費者の保護のためにわざわざ消費者契約法が作られた。

このような法体系から考えると、火山ガイドは現実の火山学の知見のレベルは度外視した上で、火山学には予測判断の知見が備わっていると法的には理解されるということも十分考えられる。そうだとすると、高裁の判断はむしろ正しいということになる。

そもそも広島高裁の火山ガイドの理解は正しいか?

しかし、そもそも「火山ガイドが学者に全ての事象の予測判断をする能力が備わっているという仮想的事実を措定しているのか?」という疑問を呈する事は可能なように思われる。 これが可能なら、広島地裁のように現実の火山学者の能力不足を司法判断の枠組みの場面で考慮し、司法判断の枠組み自体を変更したのは妥当という事になる。

これをどのように考えるべきかを検討すると、結局のところ、最初に示した部分の文言

「又はその危険性の相当程度が人間によって管理できると考えられる場合に」

ここの解釈・理解が重要になってくると思われる。

人間によって管理できない危険(危険発生に人間のイニシアティブがないもの)というもの、つまり、人間の科学というものでは捉えきれないものがあるということを、火山ガイドは既に予定しているのではないだろうか?

そして、人間の完全性という誤謬に嵌るべきではないということは、科学の世界のおいても一般的なものとして認識されているはずであるし、世の中一般においても妥当する考え方である。

それが「社会通念上容認できる危険」であり、火山ガイドの基準該当性判断においても当然にして考慮されるものであると言えないか。それは火山ガイドという法とも、原子力規制委員会の裁量的判断とも乖離していない。

結論:伊方原発差止決定は判断に問題があるのでは

以上のように考えるのであれば、やはり高裁は火山ガイドの解釈を誤っていたと言える。

広島高裁の判断枠組みの中で具体的危険が十分低いことを立証するのではなく、そもそもその判断枠組みは誤っているという見解が採り得ないかについて広く検討されることを願って本稿を締めたい。