事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

河瀨直美の東大祝辞「ロシアの正義」への最大限の好意的解釈:「批判は切り取り」への回答

河瀨直美:東大入学式祝辞

東大HPより

最大限の好意的解釈をしてもアウト

てっとり早く結論を読みたい方は目次の8番をどうぞ。ただし目次の5番は重要な前提があるので読み飛ばさないでください。

1:河瀨直美の東大祝辞、国際政治学者らが批判

映画監督の河瀨直美の東京大学の入学式における祝辞の内容について、国際政治学者らが批判しています。

そして、「ハフポストですらそうした批判を紹介するレベル」になっています。

2:ハフポストですら批判を紹介するレベル

実際、河瀨氏への批判は政治的思想の左右を問わず為されています。

もっとも、いわゆる左側の人からは、NHK大阪が「東京五輪反対デモにお金」と字幕につけて放送したことを掘り返して非難する者が目につき、祝辞の内容を非難している者は少ないですが。

さて、ここでは最大限の好意的解釈をするためにきちんと河瀨氏の論旨を踏まえてから批判します。なので、まどろっこしいと感じるかもしれませんが、その場合は5番の項から読んでください。むしろ5番は重要な前提があるので読み飛ばさないでください。

3:河瀨直美の東大祝辞の全文と問題視されている箇所

祝辞全体から言えば4分の1程度の箇所、特に報道されている中核的部分は全体の10分の1程度の箇所が問題視されているため引用します。

この前後の文章が気になるならリンク先へどうぞ。

前後の文章を読むことで多少は引用した文の理解に役に立つだろうが、評価に影響を与えるものではないです。

令和4年度東京大学学部入学式 祝辞(映画作家 河瀨 直美 様) | 東京大学

 私の地元奈良の東大寺は華厳宗のお寺ですが、華厳の思想はこうした小さいものの中に無限の宇宙を見ることを説いています。一つの窓を見つめ続け生み出された一滴が、私の「世界の切り撮り方」として他の人たちの目に触れます。逆にいうと、それ以外のことから誰も判断してはくれません。だからこそ、小さくても自らのまなざしを獲得することはとても大切なのです。

 今、世界はあるひとつのバランスを失って、かけがえのない命が奪われる現実を見ることとなりました。「戦争」を世界から無くしたい。その想いは映画を撮り始め、世界で上映される機会が増えた頃に願った気持ちでした。しかし、ひとつの映画で戦争は無くなりません。残念ながら、世界は小さな言葉を聞いてくれませんそう思わざるを得ない出来事が起こっています。
 先ごろ、世界遺産の金峯山寺というお寺の管長様と対話する機会を得ました。本堂蔵王堂には、山から伐ってきたままの大きな樹の柱が御堂を支えています。それらの樹は全て違う種類で、それはまるで森の中に自らが存在しているかのような心地になるとのことでした。なるほどその存在を確かめてみると、それぞれの柱がそれぞれの役割でそこにあって、どれひとつとして何かと比べられることなく、そこにきちんと自らの役割を全うしているようです。この世界観、精神性が今の自分に大きな希望を与えました。元来、宗教や教育の現場には、こういった思想があり、それを次の世代の人たちに伝える大切な役割があるのでしょう。あなたが今日ここにあって、明日から、かの大木の柱のように、しっかりと何かを支え、しっかりと何かであり続ける人であってほしいと願います。また、この管長さんが蔵王堂を去る間際にそっとつぶやいた言葉を私は逃しませんでした。

「僕は、この中であれらの国の名前を言わへんようにしとんや」

 金峯山寺には役行者様が鬼を諭して弟子にし、その後も大峰の深い山を共に修行をして歩いた歴史が残っています。節分には「福はウチ、鬼もウチ」という掛け声で、鬼を外へ追いやらないのです。この考え方を千年以上続けている吉野の山深い里の人々の精神性に改めて敬意を抱いています。

「華厳(けごん)の思想」を出発点に、金峯山寺(きんぷせんじ)にも通底する世界観・精神性があるとし、具体的には「鬼」を追いやらずに弟子にして共に修業した歴史を紹介。

こうした前提を置いた上で、直後に続く以下の文が直接的な問題個所です。

 管長様にこの言葉の真意を問うた訳ではないので、これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。管長様の言わんとすることは、こういうことではないでしょうか?例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。

4:前提理解:「華厳の思想」とは?「鬼」=オークとロシア兵

問題の箇所の評価をする前に解説をした方が理解が深まるため触れておきます。

華厳」とは「雑華厳浄(ざっけごんじょう)」の省略形であり、自然界に大小様々な花、有名・無名の花が咲いていて、それぞれに独自の美しさがあり、世界を美しく飾っている、人間も同じであり、その一人ひとりが世の中を美しく飾っていこう、という考え方を指します。

そこには「価値判断基準は一様ではない」、というニュアンスを感じます。

参考:第 9 回 KOSMOS フォーラム(平成 18 年 9 月 10 日)基調講演:物と心と人間観と 講 師:森本公誠

華厳の思想/鎌田茂雄: DESIGN IT! w/LOVE

『華厳経』でいちばん多く説かれるのは、微塵のなかに大きな世界が全部入り込んでしまうのだという考え方で、これが根底にある。簡単にいうと「一即多・多即一」、これが『華厳経』で説かれるいちばん根本的な考え方である。
鎌田茂雄『華厳の思想』

「華厳の思想」というのは、個のなかに普遍が入り、普遍のなかにも個があるという考え方を指します。

これは引用前の文にある主張の大要「今の世界は情報過多で選択肢は無限にあるが、たった一つの窓をずっと見つめ続けてみてください。そうすれば世の真理に触れることができ、結果的に世界中の人との出会いを豊かにし、自分の言葉で真理を語ることができる、それこそがオリジナリティ」というものとリンクします。

次に、ウクライナのメディアがロシア兵に言及する際、しばしば"ОРКИ"=オークという表現をしています。オークとは「」の意味であり、「鬼」に関する金峯山寺の逸話が言及されているのは、ロシアについて論じる後の発言に説得力を持たせるためのものでしょう。

Kyiv Media ✔️ Новини Києва ✔️ Телеканал Київ ✔️ Радіо Київ FM

У Макарівській та Бородянсьій громаді орки пошкодили 30 закладів освіти ✔️ Kyiv Media

5:河瀨直美の入学式祝辞は外国人留学生をも念頭に置いたもの?

最初に言及しておきますが、東京大学の4月の入学式には外国人留学生が参加することもあり得ます。秋季入学式もありますが。

なので、問題視されている当該箇所は、中国人留学生などへの呼びかけをも意識した言及だったのでは?という疑問が出てくる。

しかし、4月入学において留学生を含めた相手を基準に述べたと理解できるのでしょうか?しかもこの場合、ロシア人留学生にとってだけは別の意味になる。こうなると、いくら好意的に解釈しても、ロシアへの免責的言及だと言われることは避けられない。

祝辞全体を見ても、どうも日本人を念頭において話を展開している気がします。

特に、河瀨氏が「私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください」と始めて「それを拒否することを選択したいと想います」と締めくくった(「拒否することを選択しましょう」ではない)ことからは、河瀨氏が帰属する国家である日本国に関する言及であると言えます。

なので、問題視されている当該箇所に関して、河瀨氏は日本国に関して自己の認識を論じていたとして以下記述していきます。

6:「ロシアを悪者にするのは簡単・悪認定で安心するな」⇒一方的な見方を常に戒めよ?

ここからが本題。

河瀨氏の当該発言部分は「ロシアを悪者にするのは簡単である。悪を存在させることで安心するな」と言っているものと紹介されがちですが、それは一方的な見方を常に戒めよ、という趣旨と捉えることが可能では?

え?『たった一つの窓をずっと見つめ続けてみてください』とか華厳の思想とか言ってたのは何だったの?

と思うかもしれませんが、ここでは超好意的に解釈するので、それらの主張とは矛盾するものではないです。いや、矛盾していたとしても良くて、両方の目線を持ち、それらを行き来していきましょう、と理解すれば整合的では?

「ロシアの正義」「ロシアを悪者にするのは簡単」に対して「いや、侵攻自体が国際法に反しているから悪だ」「ロシアの正義ではなくプーチンの正義だろう」という批判がありますが、「ロシア側の視点での正義」というものの存在を措定する、という趣旨だと理解してみる。

それは次項の主張を導くためのものと理解します。そうすれば矛盾しないはずだ、と。

7:自分の国が他国を侵攻する可能性を自覚し、そうなった場合は拒否せよ

さて、河瀨氏は「自分の国が他国を侵攻する可能性を自覚し、そうなった場合は拒否せよ」と述べています。

ロシアの側には「正義」を認めながら、日本の場合には「正義」を認めずに拒否せよと言っているのは矛盾だ、という指摘があります。

ただ、そこは【自国を主語にして、一方的なものの見方をして自分の正義に溺れることが無いようにしましょう、との教訓を述べる】場なので、「ロシアの正義なるもの」を措定しつつ論じることはおかしな話ではない、と言うことが可能ではないか。

…と、ここまで河瀨氏の祝辞の個別の文節ごとに最大限の好意的解釈をしてきましたが、それを全部覆す観点を呈示します。

8:ロシア等の他国が侵略を試みた場合は?鬼を弟子にできる膂力が無いと成り立たない

ここで河瀨氏が「拒否します」と言っているのは、本来的に「侵攻が悪であること」を河瀨氏も分かっているからでしょう。

なので、「ロシアの正義」についても、それを本当に「正義」だと思っているわけではない、ということになるはずなのですが…

では、ロシア等の他国が日本国の侵略を試みた場合は、いったいどう考えるのか?

「その国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか」と言っているのだから侵略【される】場合も語ることが期待される文面だったのに、それはついぞ語られることは無かった。
※例えば東京大学教養学部長 石井洋二郎 氏の式辞で「東大総長が『肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」と式辞で話したという言説の誤り』について話したようなことがあったのだろうか?しかし、それは実際には話していないものだったが、今回のは祝辞の全文として掲載された文章の問題。入学式の動画はリアルタイムのみであったようで非公開となっている。

結局、ロシアがウクライナを侵攻していることは「悪」なのでは?河瀨氏は本当に正義だとは思っていないとするなら、それは『「悪」を存在させることで、安心』ではないのでは?

河瀨氏の主張の趣旨を最大限好意的に解釈しても、それは巡り巡って、この部分の主張との整合性の破綻として機能する。

あちらを立てればこちらが立たず」なわけです。

問題が指摘されている箇所の文脈では「一方的な見方を常に戒めよ」と言っているのだから、その観点が無ければ矛盾する。この矛盾は河瀨氏の論理展開に内在するものなので反論のしようが無い。というより、自らの視点が提示するはずの問いを、自らが無視している構図になっている。

「河瀨氏に対する批判は切り取りだ」「全文を見たら印象が変わる」と言ってる人らは、『文節ごとの最大限の好意的解釈』をしてるだけで、全体の論述から導出される歪みについて無頓着なのは、いったいどういうことだろうか?

特に、金峯山寺の役行者が鬼を諭して弟子にした話は、金峯山寺が鬼を弟子にできるほどの膂力が無いと成り立たないものです。

いかに「鬼」=ロシアの膂力を上回り侵攻を抑止・阻止するかどうか、という優先課題を無視して、なぜ日本国の他国への侵攻の心配をするだけなのか?

これは日本の学界が軍事研究を禁止することを明言し、さらには「軍事研究」のみならずデュアルユースなどの「軍事研究と見なされる可能性のある研究」までも特別の事前審査を求めている態度から来ているのでしょう。

軍事的安全保障研究に関する検討について|日本学術会議魚拓

軍事目的のための科学研究を行わない声明

日本学術会議は、東京大学出身・所属の者が多く在籍してきましたからね。

9:河瀨氏の主張が合理的なものと理解できる場合:「拒否」が無ければ核抑止力の覚悟

私は、FNNの記事や全文を読むまでは、「ロシアの正義~」は、「ロシア視点ではそのように主張されている」という趣旨として措定されているだけではないかと考えていました。

つまり、【いくら国際社会がルールを作っていても、大国或いは独裁国家の論理のリアリズムによって容易に打ち砕かれる可能性がある。そのため、ロシアのような「ウクライナ政府はネオナチ」などと正義を振りかざす国から自国民を守るために備えよ】、という意味ならば、それはまったく正しい主張だということ。
※もちろん国際法が無意味というわけではない。今のロシアだって、形式的には国際法に準拠しているように見せかけようと必死だし、国際法の抑止力があるためにミサイル・砲撃などが東京大空襲のように大々的には行われていない。

そこから考えると、「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要がある」についても、日本の核共有或いは核の傘=核抑止力についての議論を念頭に、『核兵器を使用されたらこちらも核兵器によって相手国を反撃する覚悟を持っておけ』、という意味ならば理解できると考えていました。

しかし、そうした理解は「~拒否することを選択したいと想います」という発言によって、否定されました。

悪を存在させる=悪だと認定することは本来、その判断を留保することよりも難しい。

「ロシア(による侵攻や現地での戦争犯罪)は悪」と言うためには国際法の理解や近年のウクライナ情勢とロシアの態度の把握、今般のロシア軍の蛮行の事実認識など(さらにはアメリカのイラク戦争との比較など)、負荷のかかる理解が必要。

それをせずに判断留保しておくのは、誰にでもできる。

なお、ロシアという国による他国への侵攻や戦争犯罪の価値判断ではなく、ロシア人に対する扱いという視点であれば、金峯山寺の「鬼」の扱いとの対比で「差別的扱いはやめよう」という話として十分合理的でした。

10:河瀨氏の主張の本質的悪質性:安易な価値相対化の行き着く先と陰謀論:新興宗教と神真都Q

河瀨氏の祝辞は結局、「ロシア側にもウクライナ侵攻に一分の理があることを認めろ」と政治的主張をしているにすぎません。現状では、虐殺等の戦争犯罪行為すらそうだと言っているようにも聞こえる。本人が実際にどう思っていようが、客観的に表れた文章からは離れられない。

「華厳の思想」から始まり、「小さくても自らのまなざしを獲得すること」を奨励し、「残念ながら、世界は小さな言葉を聞いてくれません。そう思わざるを得ない出来事が起こっています」とした後に「「ロシア」という国を悪者にすることは簡単」「一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?」としているのですから。

これでは「ロシアは悪ではないという小さな言葉を聴け」以外の理解は困難です。

そこに河瀨氏の祝辞の本質的な悪質さがある。

他方、河瀨氏の主張の表面上伺える安易な価値相対化は、新型コロナ陰謀論などで顕著に表れてきました。

神真都Qという陰謀論団体が反ワクチン・反マスク運動を展開し、医療施設へ侵入した者が逮捕され、活動拠点に強制捜査が入りましたが、彼らもまたLINEオープンチャットやTwitterという窓に閉じこもって「真理を知っているのだ」とでもいわんばかりです。

基本的な知識や事実関係の把握をせず誰かが垂れ流す「〇〇は危険、△△による陰謀」という情報に乗っかっています。「大勢の人間が知らない事を我々は知っているんだ」、という優越感が垣間見えます。

そうした主張すら「華厳」であり、一つひとつが尊い、とすることは自由ですが、何らの批判の対象にはならないと考えるのもまた違うでしょう。

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