事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

「国葬は三権の合意が重要」言説の不審点と検証:内閣法制局吉國長官の発言?

おかしいと思わないのか?

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「国葬は三権の合意が重要」言説の出どころ

週刊エコノミスト Online 社会党と内閣法制局の力で佐藤栄作「国葬」は阻まれた 社会学的皇室ウォッチング!/42=成城大教授・森暢平 2022年8月1 サンデー毎日

社会党が結果として吉田国葬に反対したことは、佐藤が亡くなる段に効いてくる。佐藤の逝去は1975(昭和50)年6月3日未明。政府・自民党首脳は同日午前8時から協議を開始した。出席者は三木武夫首相、井出一太郎官房長官、中曽根康弘自民党幹事長ら政府・自民党の9人。
 この会議には、吉國一郎内閣法制局長官も陪席した。吉國は「国葬の場合には立法、行政、司法三権に及」ぶ(『日本経済新聞』75年6月3日夕刊)と、国葬とするには三権の合意が重要だと説いた。6月3日朝の段階で、社会党だけでなく、共産党、公明党がすでに異論を唱えていた。議論は、野党の反対を抑えて国葬を断行するかどうかに集中した。

この記事が拡散され、『「国葬の実施のためには三権の合意が重要」だと内閣法制局長官が指摘していた』とする言説が広まり、国葬反対の理由として主張されています。亜種として「国葬は三権の合意が必要」という言説も生まれています。
(yahoo掲載の方が多い⇒ttps://news.yahoo.co.jp/articles/e1233c822ae28bcb5cf43728a75eb89726d15745)

しかし、この記述は一見して不審な点があります。

司法権が国葬実施の判断に介入する謎、内閣法制局長官の吉國一郎

まず、記事の記載の通りであれば、【司法権(最高裁)が国葬実施の判断に介入する】という奇妙な話になります。司法権が国家の行事の実施可否につき事前に関与する、などと法的に説明されるような例は存在しません。

たとえば憲法7条10号の「儀式」たる【大喪の礼】(皇室典範25条)は、司法権が何か執行のために判断に関与するということはありません。

次に、仮にこの発言が存在していたとして、サンデー毎日の記事によれば【アノ】吉國一郎内閣法制局長官の発言ということですが、この人物は要注意です。なぜそうなのかは後述します。

ということで、元ネタ(日経新聞記事)に当たりました。

日本経済新聞1975年(昭和50年)6月3日夕刊「出席者は裁判官にも及ぶ」

国葬実施には三権の合意が必要との内閣法制局長官吉國一郎発言?

日本経済新聞1975年(昭和50年)6月3日夕刊3面上半分

日本経済新聞1975年(昭和50年)6月3日夕刊の3面に詳細が書かれていました。

日本経済新聞1975年(昭和50年)6月3日夕刊3面

すると、実際にはこのように書かれていました。

 同日の会議では、吉國法制局長官が明治以来の首相経験者の葬儀の前例について説明した。この中で吉國長官は戦後、国葬に関する法令がなくなったことを指摘、さらに「国葬の場合には立法、行政、司法三権に及び、国会や裁判所も出席の対象に含まれる」との見解を明らかにした。この結果、国葬にする場合、三権の合意がなければならないとの判断が出てきたが、立法府については社会、共産、公明の三野党が国葬に異論を唱えていることから、今回は困難だとして、準国葬である「国民葬」に落ち着いたものである。

2つ指摘できます。

まず、吉國長官の発言としてかっこ書きでくくられた部分で「国葬の場合は…三権に及び」とあるのは、出席者として裁判官が含まれるという趣旨の発言だったということ。

いったい何が「及」ぶのかも、この記述では不明ですが、これだけだと国葬儀の出席者の対象が(司法権に属する(おそらく最高裁の)裁判官にも)及ぶという理解しかできません。

次に、「国葬にする場合、三権の合意がなければならない」というのは、吉國長官の発言は明示的には書かれていないということ。吉國長官の発言を受けてそういう判断が出てきたことを伝えているだけで、誰がそう言ったのかは不明です。「判断」とあるので、出席者の中の判断権者が言っているように見えます。

しかし、相変わらず司法権の合意が必要というのは国家作用の法的な説明としては異例中の異例であり歪な認識であるということは、先述の通りです。比喩的にそのように表現することは有り得ますが、それでもそれは事後的な振り返りの評価のハズです。

さて、それでもなぜ「三権の合意」という言葉が出て来たのか?(「なければならない」「必要」「重要」という単語はメディアによってまちまちなので、無視する)

となると、やはり陪席した吉國長官の影響力を考えざるを得ません。

吉國一郎内閣法制局長官:野茂英雄投手への「第2の野茂を出すな」発言

そもそも内閣法制局とは何か?吉國一郎内閣法制局長官とはどういう人物か?については検証 内閣法制局の近現代史[ 倉山満 ]にて詳しいですが、わかりやすいのが後年、彼がプロ野球コミッショナーの立場で、野茂英雄投手がメジャー移籍した際に「第2の野茂を出すな」と発言したというエピソードです。

そのとき野茂は雪山をバックに投げていた<後編> 〜二宮清純特別寄稿〜 – SPORTS COMMUNICATIONS

ドラフト時の希望入団枠制度=逆指名制度=自由獲得枠制度を導入したのも吉國氏ですが、不正の温床になり2006年シーズンを最後に廃止されています。

FA制度との関係も、逆指名をした選手が不利(FA権行使宣言の資格付与が登録通算1305日⇒通算1450日)になるという意味不明な内容でした。

天皇の靖国神社参拝に関する吉國一郎内閣法制局長官の国会答弁など

国会ではどうだったか。第69回国会 参議院 決算委員会 閉会後第5号 昭和47年9月14日における日本社会党の水口宏三議員の質疑に対する答弁が混乱していたことが特徴的なので以下抜粋。集団的自衛権の解釈は1969年(昭和44年)2月19日に高辻正己内閣法制局長官から示されて以来、同様の見解だとする答弁をした流れのことです。
※高辻答弁は「集団的自衛権というものは、国連憲章五十一条によって各国に認められておるわけでございますけれども、日本の憲法九条のもとで…この憲法がそういうものを否定しているというふうに解する余地はない」というもので、「保有しているが行使できない」とは明示していないが、その萌芽が見られると言い得るが、「保有してるが行使し出来ない」としたのは1972年とされている。
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○説明員(吉國一郎君)~省略~ 先ほど私が申し上げましたのは、憲法前文なり、憲法第十二条の規定から考えまして、日本は自衛のため必要な最小限度の措置をとることは許されている。その最小限度の措置と申しますのは、説明のしかたとしては、わが国が他国の武力に侵されて、国民がその武力に圧倒されて苦しまなければならないというところまで命じておるものではない。国が、国土が侵略された場合には国土を守るため、国土、国民を防衛するために必要な措置をとることまでは認められるのだという説明のしかたをしております。その意味で、いわばインディビデュアル・セルフディフェンスの作用しか認められてないという説明のしかたでございます。仰せのとおり、憲法第九条に自衛権があるとも、あるいは集団的自衛権がないとも書いてございませんけれども、憲法第九条のよって来たるゆえんのところを考えまして、そういう説明をいたしますと、おのずからこの論理の帰結として、いわゆる集団的自衛の権利は行使できないということになるというのが私どもの考え方でございます。

○水口宏三君 いまの長官のお答え、何かちょっと……、十二条、十三条とおっしゃいますが、十二条、十三条というのは関係ないんじゃないですか。——それはまあいいです。憲法をごらんになっていただくと十二条は自由及び権利の保持、濫用禁止、利用責任の問題である。十三条は個人の尊重の問題ですね。別に九条とは直接関係がないと思います。

~以下略~

おそらくこれは13条の誤りと思られるが、13条を自衛権行使のために説明するというのは現行の政府見解でもありますが、この吉國答弁から見られるようになりました。ただ、砂川事件判決でも触れているところがありません。もっとも学者らにおいてはよく見られる主張です。

参考:国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について
平成26年7月1日 国家安全保障会議決定 閣 議 決 定

また、昭和天皇が靖国神社に御親拝した最後の日の前日では、天皇の靖国神社参拝について、以下答弁しています。

第76回国会 参議院 内閣委員会 第4号 昭和50年11月20日

○政府委員(吉國一郎君) 毎年八月十五日に日本武道館において行います戦没者追悼式、これは国が主催をいたしまして、去る大戦において国のために殉じた戦没者の霊を慰めるということで追悼の式を行うわけでございますが、その追悼の式の一つのプロセスの中に天皇陛下のお言葉をいただくことになっておりまして、もちろんその場合には、天皇は公式の立場において皇后陛下とともに御臨席になって、そこでお言葉をいただくわけでございますので、もちろん、これは公的な色彩がきわめて強く、天皇の公的行為と申して私どもはよろしいと思います。これに対しまして、靖国神社に明日御参拝になります場合の姿と申しますのは、もちろん警戒等においてはその地位からいたしまして当然一般私人とは異なるところがあると思いますが、お参りをされることそれ自体は何ら一般私人と変わるところはなく、靖国神社というものが、もちろん神道の施設ではございまするけれども、そこに従来国のために命を捨てた人が祭られてあるという事実に照らしてだけ天皇はそこに表敬をされるわけでありまして、私人がお参りをするのと実質においては何ら異なるところがない。ただ、警戒等においては、その地位からいたしまして当然一般の私どもがお参りをする場合とは違ってくることは、これはやむを得ないことであろうと思います。ただ、戦没者追悼式の場合においては、国の機関が主催をして行う一つの儀式の中の一段階としてと申しますか、一つの行事として天皇陛下がお言葉をたまうということで公的な色彩がきわめて強い。それに対して、靖国神社に明日お参りになる姿は全くな私的なものであるという区別があると思います。

~省略~

○矢田部理君 先ほどから天皇の靖国参拝は私的行為だと説明をされておりますが、どうしても納得できないわけであります。その前提として幾つかの問題点を伺いたいと思うのでありますが、天皇が公式に靖国神社を参拝すれば、まず憲法に抵触するというお考えに立つのかどうか、その点を第一点にお伺いしたいと思います。

○政府委員(吉國一郎君) これは御承知のように、憲法第二十条第三項に「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」という規定がございますが、この宗教的活動は何であるかということについては学者間にもいろいろ議論があるところでございます。非常に広い説を唱える人もあれば、全く布教活動等のような限定的な解釈をする人もございまするけれども、またその中間において、宗教的な施設、神社であろうと寺院であろうと、そういうものに単に表敬をするということについてはこの宗教的活動にならないという説もございますし、また単に表敬をすることは、ならないという議論、つまり、そこで宗教的な儀式を伴って表敬をする、神道の場合でございまするならば神官が出てきておはらいをして、奏楽をして玉ぐしを奉賛する。また寺院であれば、この場合でも仏教の寺院であれば奏楽がございましょう、読経もございましょう、香をたき、あるいは線香を燃やすということもございましょう。そういうような宗教的儀式を伴わない限りは宗教的活動にならないという議論をする学者もございます。ただ、政府といたしましては、その点については、これはまさに国民感情からして割り切って考えなければならない問題でございますので、従来はあくまで私人としての立場でお参りをするということで貫いておるわけでございます。

~省略~

○矢田部理君 私が伺っているのは、時間がないから端的に答えてください。
 天皇が公式行事として靖国神社を参拝すれば憲法二十条の第三項に抵触することになると考えているのか。イエスかノーかだけ答えてください。

○政府委員(吉國一郎君) 先ほど申し上げましたように、第二十条第三項に直ちに違反するというところまでは徹底して考えることはできないと思います。ただ、第二十条第三項の重大な問題になるという考え方でございます。

当時、三木総理の8月15日の靖国参拝において(1)公用車の不使用、(2)玉串料は私費による、(3)記帳はあくまで個人で肩書きは書かない、(4)公職者を随行させない、という要件で「私的参拝である」と返答したことから政治論争と化しており、それが天皇の参拝についても波及したということです。

天皇の靖国参拝が翌年以降止まった理由は諸説ありますが、公約数的には【政治論争化したから】と言えます。その中に内閣法制局が「天皇の公的参拝には憲法20条3項の政教分離原則との抵触の問題が生じ得る、天皇は私的に参拝したに過ぎないから違反じゃない」と答弁したことが影響したのではないか、とする説があります。

政教分離原則はおよそ国家が宗教との一切の関係を持つことが許されないというものではなく「その関わり合いが我が国の社会的,文化的諸条件に照らし,信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものと認められる場合に,これを許さないとするものである」ものですから、天皇が戦争の犠牲者を慰霊するために参拝する行為がこれに反するものではないはずですが。。。

それを公的か私的かという基準で分けるような考え方が導入されたのがこの年であり、それが今日まで続く原因となったのが吉國長官の存在ということです。

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*1:当初エントリでは立憲民主党の逢坂議員のツイートを示して「元裁判官」と書いていましたが他の議員と混同した誤りなので当該部分を全部削除しました。お詫びいたします。

*2:※この日の答弁において吉國は集団的自衛権と集団安全保障についての関係の説明から説き起こしているが、この部分は沿革的な内容として正しい。国連憲章51条では集団安全保障を補完するものとして集団的自衛権が規定されていることからして、国際法上の集団的自衛権の説明のためにこのような意味において集団安全保障に触れることは何ら間違いではない。

*3:※水口は国際法上の集団的自衛権の法的性質について死活的利益防衛説のような立場のようで、その立場から論難しているが、吉國は国際法上、他国防衛説や個別的自衛権共同行使説があることを認識しつつそれを視野に入れながら話しているように見える。ニカラグア事件判決で共通理解を得た援助要請要件についても、この時点で必要であるという認識を示している。また、水口は日本国憲法上の集団的自衛権概念は国際法上のそれと一致すべきだという立場のようだが、吉國(というより従前の政府解釈)は国際法上のものよりもさらに限定されている=保有しているが行使できないという立場を取っている。政策論と言えば政策論だし、解釈論が完全に政策論から逃れられるわけでもない。

*4:現行の日本国憲法上の集団的自衛権行使の政府見解は、国際法解釈論上の死活的利益防衛説における考え方よりもさらに限定されている内容⇒我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。」