1995年1月17日の出来事について
- 自衛隊法上の自主派遣
- 阪神淡路大震災では兵庫県知事の派遣要請により出動
- 「誰が総理でも当時の自衛隊の運用や政治の認識では同じ対応だった?」
- 「自衛隊派遣を拒否した」「道路状況で遅れただけ」という言説について
自衛隊法上の自主派遣
自衛隊法
(災害派遣)
第八十三条 都道府県知事その他政令で定める者は、天災地変その他の災害に際して、人命又は財産の保護のため必要があると認める場合には、部隊等の派遣を防衛大臣又はその指定する者に要請することができる。
2 防衛大臣又はその指定する者は、前項の要請があり、事態やむを得ないと認める場合には、部隊等を救援のため派遣することができる。ただし、天災地変その他の災害に際し、その事態に照らし特に緊急を要し、前項の要請を待ついとまがないと認められるときは、同項の要請を待たないで、部隊等を派遣することができる。
3 庁舎、営舎その他の防衛省の施設又はこれらの近傍に火災その他の災害が発生した場合においては、部隊等の長は、部隊等を派遣することができる。
95年当時は「防衛庁長官又はその指定する者」ですが、現行法では防衛大臣又はその指定する者(部隊長など)が、天災地変その他の災害に際し要請を待つ暇が無い場合には、自主派遣をすることができます。
なお、「第100回国会 衆議院災害対策特別委員会 昭和58年10月13日」で自主派遣が触れられているように、阪神淡路大震災の当時から自主派遣の制度は存在していました。
阪神淡路大震災では兵庫県知事の派遣要請により出動
- 午前5時46分 地震発生
- 7時頃 兵庫県知事貝原は県庁から3キロ離れた知事公舎にいて、電話のつながった副知事に災害対策本部会合の招集を指示
- 8時過ぎ 貝原知事が県庁に登庁
- 午前10時 兵庫県知事から自衛隊に派遣要請、とされる。この際、自衛隊側に「この連絡をもって災害派遣要請としてよろしいか」と促された結果であり、貝原が超法規的に事後承認
- 午後1時過ぎ、神戸での自衛隊による救助活動が開始
大雑把な時系列はこういったものです。
阪神淡路大震災では、兵庫県知事の派遣要請により出動したこととされています。
第132回国会 衆議院 予算委員会 第7号 平成7年2月2日
【3ー1】危機管理 「迅速な全容把握」なお途上|震災25年目|阪神・淡路大震災|連載・特集|神戸新聞NEXT
【3ー2】危機管理 「心構え」なく初動に遅れ|震災25年目|阪神・淡路大震災|連載・特集|神戸新聞NEXT
「誰が総理でも当時の自衛隊の運用や政治の認識では同じ対応だった?」
(17)元防衛庁統合幕僚会議議長 西元徹也さん|東日本大震災|連載・特集|神戸新聞NEXT
(6)権限|震災10年目|阪神・淡路大震災|連載・特集|神戸新聞NEXT
「誰が総理でも当時の自衛隊の運用や政治の認識では同じ対応だった」
こういう認識があります。
確かに、震災発生後の時点ではそうだったのだろう、という予想が大半を占めるし、私もその可能性は高かっただろうとは思います。
自衛隊派遣に関する従前の運用の整備が行われてこなかったということは事実。
しかし、社会党や共産党の自衛隊違憲論が喧伝され、その権限を著しく限定させようとしていたという有形無形の圧力が加えられている世論が形成されていたんですよ。
(1)涙|震災10年目|阪神・淡路大震災|連載・特集|神戸新聞NEXT
自治体との連携も足りなかった。普段から疎遠だったため、被害把握にも時間がかかった。自治体側に、自衛隊への「アレルギー」があった。
自衛隊の災害派遣政策の変容― 阪神・淡路大震災までの政策過程 ― 北村知史
しかし,その後の政治情勢により,この自主派遣は行われないまま推移していた.事実,1995 年の阪神・淡路大震災では,激甚な災害が発生していたにもかかわらず,現地部隊が自主派遣規定を適用しての本格的な災害派遣に踏み切れず,近傍派遣や訓練名目で派遣せざるを得なかった.こうした初動態勢の遅れを招く,災害対策基本法の規定の不備や,自衛隊法の運用上の問題点は,1961 年の災害対策基本法の制定後も,1995 年の阪神・淡路大震災まで見直されることはなかったのである
そしてそれは現在でも続いています。
阪神大震災。なぜ自衛隊出動が遅れたか (2ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
自衛隊への派遣要請の権限を持つ貝原は振り返って述べている。
「自衛隊と交信ができなかった。8時の段階で、姫路の連隊からこちらの係員にやっと通じた。『大災害だから、準備を。すぐ要請するから』と言ったところで切れて、それ以降、連絡が取れなかった。いまだから言ってもいいと思うけど、出動要請が遅かったというのは、自衛隊の責任逃れですよ」
自衛隊出動問題も含め、初動のもたつきで多くの人命が失われたという悔恨は、村山に重くのしかかった。後に著書『村山富市が語る「天命」の561日』で、「『危機管理の体制に欠けていた』と、いかように責任を追及されても、弁明できない。お詫びをして反省する以外にない」と書いている。
こんなことを言うのか。
「自衛隊派遣を拒否した」「道路状況で遅れただけ」という言説について
まず、【村山政権は自民党を含む連立政権だった】という事実は重要。
「村山総理が自衛隊派遣を拒否した」について、関係者が肯定する言説を見つけることはできません。
従前の主張として社会党が自衛隊違憲論に立ってはいたものの、現実をみて修正したということ。
他方で、「自衛隊の救助活動が遅れたのは震災の影響で道路状況が悪かったから」というものがあります。
しかし、それは午前10時に兵庫県知事から災害派遣要請が為された後の事情であって、自主派遣を防衛庁長官が決めたり自衛隊の部隊が行うことができないような運用体制・政治状況にしていたことの責任については、社会党の村山富市にはあると言わざるを得ないでしょう。
「自主派遣」の観点から論じることがある記事でも、【当時の自衛隊にまつわる政治状況を作り出していたことの責任】という視点から論じるものはほとんどありません。
それは、日本史、震災史を語る上で、重大な要素が欠落していると思うのです。
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