三・一独立運動=朝鮮騒擾にかんしてムンジェイン大統領が7500人が殺害されたとフェイクを言いました。
このフェイクの出所、単なる伝聞でした。
- 文大統領演説全文「7500人殺害」がフェイク
- 朴殷植著韓国独立運動之血史と訳書の朝鮮独立運動の血史
- 朝鮮独立運動の血史の7500人は伝聞
- 三・一運動犠牲者の記述に矛盾だらけ
- 上海は大韓民国臨時政府の発足地
- まとめ:既成事実化される前に対処を
文大統領演説全文「7500人殺害」がフェイク
日本側の記録で、朝鮮騒擾にかんしての記録がありました。
単なる独立デモではなく、兇器を用いた暴動が多数あったことが書かれています。
その中ではデモ側の死傷者数は「1500人」程度だったとあり、そのほとんどは先行する暴動に起因するものです。
次項からは、7500人説の出所と、その内容の信憑性について書きます。
朴殷植著韓国独立運動之血史と訳書の朝鮮独立運動の血史
1920年12月に発行された朴殷植(パク・ウンシク)著 「韓国独立運動之血史」
これが死者「7500人」の出典の大元です。
本書は上海の維新社が発行したもので、原文は中国語で書かれています。
これを姜徳相氏が訳したものとして「朝鮮独立運動の血史 」が平凡社から出ています。
※「韓国」と「朝鮮」とで表現が変ってるので注意。また、1,2巻がある。東洋文庫「朝鮮独立運動の血史 1」がネット上では見つかる。
ここでは姜徳相(カン・ドクサン)氏の編著作を参考にしていきます。
なお、姜徳相は関東大震災についても公式資料を集めており、「朝鮮人虐殺」の提唱者です。
朝鮮独立運動の血史の7500人は伝聞
朝鮮独立運動の血史 1 169頁
第7章 独立運動一覧表今回の独立運動は、日本の厳密な秘匿のため、運動の詳細、確実な実態調査を得ることは難しい。いわんや、海外にあって、ただ新聞報道や個人の伝聞的報告によるものだけであってみれば、その事実調査の困難さはおして知るべきであろう。その地名、集会、死傷者、被囚者と教会、学校、民家の焼却されたものなどは、かやらず調査漏れになったものも、多いに違いないが、読者はこの間の事情を諒解していただきたい
このように、著者の朴殷植自身が「伝聞である」旨を吐露しています。
現地調査をしている気配はありません。
4年後の関東大震災(大正12年・1923年)の際にはわざわざ東京まで調査団を派遣してるのに(時宜を逸していたが)、「日本の厳密な秘匿のため」という言い訳を作ってるようにしか見えません。
三・一運動犠牲者の記述に矛盾だらけ
朝鮮騒擾=三・一運動の記述は矛盾だらけです。
逮捕・投獄者が数十万人?
独立運動は、三月一日から四月末までの間に、状勢はますます劇烈さをまし、日本は独立運動に名状しがたい野蛮暴虐な弾圧を加え、銃で撃ち、剣で刺し、それはあたかも草や管でも刈りとるようであった。こうして即死した者三千七百五十余名、重症を受けて日時を経過したのちに死んだもの四千六百余名、獄中で死んだ者は知ることもできない。しかも、なお逮捕投獄されている者は数十万をかぞえ、そのうえその人たちの死亡のしらせが陸続と入っている。
朝鮮騒擾=三・一運動の参加者は200万人と韓国側は主張しています。
この数字は過大であり、実際には4分の1程度ではないかと言われています。
逮捕投獄者が「数十万人」とあるので少なくとも30万人ということになりますが、すると全運動者の半分以上が逮捕投獄されているということになります。
そもそも数十万人もの人間を収容する施設なんてあったでしょうか?
ちなみに朝鮮民族解放運動の歴史 平和的統一への模索 (韓国の学術と文化) [ 姜万吉 ](カン・マンギル)の90頁には「日帝側の公式集計だけでも4万6000人あまりの朝鮮人が検挙され」とあります。
この数字はムンジェインの演説で使用されていますが、 数十万と4万6000という数字の隔たりはどうやったら生まれるのでしょうか?カン・マンギルの著作も公式集計と言っていますが、出典はありませんでした。
検挙人員は現代史資料25の492頁には「長谷川総督の事務引き継ぎ意見書(1919年6月)」という性質の文書の中で、「2万8200余人に達し」とあります。
死亡者数が矛盾している
朝鮮独立運動の血史1 223頁 郭山郡の惨殺
殺された朝鮮人の数は、数千人に達した。
あれ?
本当にこんな事実があったのだとすれば、なぜムンジェインはこちらの事例を出さなかったのか?
同書の7章「独立運動一覧表」では、各地域ごとの集人数、死亡者数、被傷者数、被囚者数をまとめている表があります。
そこの「郭山」列の死亡者の欄には、何も書かれていません。
このように、朝鮮独立運動の血史の記述は、その内部において矛盾が生じています。
堤岩里の教会の描写のずれ
<三・一運動記念式の文大統領演説全文>(聯合ニュース) - Yahoo!ニュース
京畿道・華城の提岩里でも教会に住民を閉じ込めて火を放ち、幼い子どもも含めて29人を虐殺するという蛮行が起きました。
朴殷植の著作では以下のようにあります。
朝鮮独立運動の血史1 212頁
日本軍の一中尉の指揮する一隊が、水原郡南方の堤巌里(※注:堤岩里)に出現、村民に対して論示訓戒すると称して、キリスト教徒と天道教徒三十余名を教会に集合させた。そして、窓やドアをきつくしめ、兵隊がいっせい射撃を開始した。堂内にいたある婦人が、その抱いていた幼児を窓の外にだし、「わたしはいま死んでもよいが、この子の命は助けてください」と言った。日本兵は、子どもの頭をつき刺して殺した。
殺害方法が放火と射撃とで変わっています。
これは日本側の資料と比べると印象が変わります。
現代史資料 26(朝鮮 2)三・一運動では、「巡査惨殺や小学校放火等の首謀者が天道教徒と基督教徒である旨を村民から聞いたため、教会内に集めて質問したところ、1名が逃亡を図ったため制止しようとすると他の者が打ち掛りに来たため、斬り捨てたところ、その場の朝鮮人全員が暴行の態度に出て兇器を使用しだしたため兵卒に射撃させたが、この混乱中に隣家から出火があり教会に延焼した」という経緯が書かれています。
つまり、時系列としてはやむを得ない銃撃が先に在り「火災」はその後です。
※長谷川総督の文書では部落民=住民の「あいつらを掃滅してくれ」という懇請を受けた検挙班員の放火であると確かめたとあり、陸軍中尉の有田俊夫が軍法会議にかけられています。その文書の中でも射殺、放火という順番であり、こちらの信憑性が高い。
現代史資料は姜徳相氏が編集してるので、日本側の残酷さを立証しようと公文書以外の他の資料を添付していることがあります。堤岩里の教会の件でも複数の証言を資料として挙げてますが、いずれも発砲が先にあり、放火が後です。
しかし、その証言(390-392頁)では、「子どもが一切出てきてない」上に、「閉め切った教会の外から発砲して」万全を期すために「全員を銃剣で突き刺した」とあります。
ムンジェインの演説や朴殷植の記述とずれている上に、閉め切った教会の外からの発砲という首をかしげざるを得ない状況が叙述されています。
上海は大韓民国臨時政府の発足地
「韓国独立運動之血史」は上海で発行されたと書きました。
上海といえば、大韓民国臨時政府が結成され活動していた場所です。
現在の韓国憲法では、大韓民国臨時政府を継承したと謳っています。
要するに臨時政府の正統性を国際社会に訴えるのに便利な上海という土地でプロパガンダのために書いたという要素が強い代物と言えるでしょう。
だからこそ、その書籍の内部で矛盾する記述が多数出てくるのでしょう。
まとめ:既成事実化される前に対処を
「7500人殺害説」の出所である朴殷植の 「韓国独立運動之血史」とそれを姜徳相氏が訳した「朝鮮独立運動の血史 」は伝聞でした。
ムンジェインの演説での発言が複数の資料とズレが生じているのは、元々が創作であるから事実を確かめることができずに微妙に違った形で伝えられてきた結果であると言えます。
このような内容が既成事実化される前に、強烈に否定しなければなりません。
以上:はてなブックマークをお願いします