平成31年3月6日の参議院予算委員会で、立憲民主党の小西洋之議員が質疑の中で安倍総理に「法の支配」の対義語は「人の支配」だ、という主張をしました。
この話の是非は過去に記事化しているのでそちらを見て頂ければと思いますが、ここでは【国会議員が政府にだけ法の支配を守れと言うこと】のおかしさを指摘します。
法の支配と専断的権力の抑制
「法の支配」とは"Rule of Law"の訳語です。
その意味内容の中核は専断的権力(arbitrary power)とくに政府の広汎な裁量権の支配に対立する正規な法(regular law)の優越の意味です。
ただ、この意味内容は各国で微妙に異なります。
田中耕太郎によれば、以下のように分析されています。
イギリスの場合、正規法の絶対優位は政府の専断、特権、広汎な自由裁量権の排除によって確立されています。念頭にあるのは国王大権の抑制であり、議会と裁判所は協力関係にあります。そのため、裁判所には議会の制定法が憲法に違反しているのかを審査する「違憲立法審査権」がありません。
一方アメリカの場合、それは裁判所の違憲審査権によって確立しています。議会(立法)と政府(行政)に対する抑制的機能が念頭にあります。
こうしてみると「法の支配」はそれぞれの国家に固有の歴史や政治的事情と密接に結びついて構成されていると言えるでしょう。
また、特にイギリスでは顕著ですが、判例法(コモンロー)が法の根源であり、特定の時代の者が人為的に設計した法律ではなく、歴史を通じて認められ醸成されてきたルール、つまり自然法が法の淵源であるとする考え方を持っています。
日本における法の支配
日本国憲法の前身である大日本帝国憲法はドイツ帝国憲法を元に作られましたが、現憲法が拠って立つ基盤は「法の支配」であると言われています。
元最高裁判所裁判官の伊藤正巳の「法の支配」という著作には以下書かれています。
はしがき
この原理的な意味での「法の支配」は、日本国憲法の根底に脈打っており、わが憲法は、この原理が、日本国民の信念と化することを期待しているといってもよい。司法権に対して払われる尊敬と信頼、基本的人権の絶対的ともいえるまでの保障、憲法の最高法規性の強調のごときは、その具体的なあらわれであろう。人の支配、権力の優越を否定する法の優位の思想が、日本国民の血肉と化したときこそ、この憲法の真に実現されたときであり、それが理想とする立憲民主政の完成したときといってよい。
アメリカ側の関与によって作られた日本国憲法ということもあり、日本の裁判所には違憲立法審査権があります。裁判所(司法権)は議会(立法権) と政府(行政権)と互いに牽制しあう関係にあります。
前項のアメリカにおける法の支配が裁判所は議会と政府に対する抑制機能があるということと合致すると言えるでしょう。
つまり、【法の支配に服するのは政府のみならず、議会も含まれる】ということです。
より強調して言えば
「議会」には【野党議員も含まれる】のであって、彼等もまた法の支配に服するということです。
野党議員(議会)と法の支配
日本の自称リベラルは明治憲法をイメージしながら、現代日本の法の支配を論じていることが多い。革命後のフランス、19世紀のドイツの法治主義と米国の立法府たる議会に対する法の支配の対置は無視。内閣ではなく、野党議員を含めた国会議員が法の支配の対象なのを忘れとるのかと。
— 木星3 (@tetsulovebird) March 9, 2019
その国会を縛る憲法の改正を問う国民投票をさせまいとしている国会議員どもは、まさに法の支配を踏みにじる輩。
— 木星3 (@tetsulovebird) March 9, 2019
行政権を執行する立場の政府に対して法の支配に服する事を要求するのは当然です。
しかし同時に、野党議員も法の支配に服しているのですから、やたらと野党議員が政府に対して「法の支配」を要求して「人の支配だ」と評するのは、なんだか話がずれていると思いませんか?
そもそもあなたたち、「法」を破ってたでしょ?
別に自分たちが出した法案の審議を予告も無くボイコットしたことや、速記録を妨害したことが起訴されて有罪になったわけではありませんけど、国会のルールを破っている者から「法の支配を守れ」と言われても説得力がありません。
まとめ:「法の支配を守れ」⇒オマエモナ―
国家権力の抑制の観点からの法の支配に国会議員は服します。
同時に、国会議員を含む全ての人や国家機関は、実力行使の抑止の観点(実力の支配に対するアンチテーゼ)からも法の支配に服します。
したがって、専ら政府に対してのみ「法の支配を守れ」などと言うことはおこがましいにも程があるのであって、「オマエモナー」以外の何物でもありません。
以上