事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します

実力の支配に対する法の支配:国家権力だけでなく一般国民も対象である

実力の支配と法の支配、人の支配

 法の支配の対義語は何か?を総理大臣に質問した議員が居ましたが、実は法の支配は「実力の支配」を排除するためにあるという側面があまり認識されていないように思います。

田中耕太郎「法の支配と裁判」を参考に法の支配と実力の支配につき考えていきます。

実力の支配と法の支配

法の支配と裁判 田中耕太郎 267頁

国家であればその機能として法を制定し、そうして法を自ら実現するに十分な実力をもっていなければならない。
ー中略ー
この故に法は社会に存在するあらゆる実力を克服するだけの力を自ら具備していなければならない。元来法は実力とアンティテーゼの関係に立つそれは社会を各人の恣意や実力の支配から防衛すること、社会が「万人の万人に対する戦い」「狼の狼に対する関係」に堕さないようにするために存在する。従ってこの意味で法と実力とは相いれない。「法の支配」は「実力の支配」に対立する観念である

元最高裁判所長官である田中耕太郎。

彼は、国際社会における法の支配とはどうあるべきかを模索していました。

だからこそ法の支配の対概念には「実力の支配」があると考えるに至ったのでしょう。

そして、この理は国際関係に留まらないと指摘しています。

法の支配と裁判 田中耕太郎278頁

およそ「法の支配」は前にのべたように「実力の支配」を排除することである。これは国内社会であると国際社会とによってことなるところがない

考えてみれば、警察や自衛隊よりもヤクザの方が実力が上であり、取り締まりが意味をなさないような世界は法ではなく実力が支配する弱肉強食の世界でしょう。

ヤクザが勝手に決めたみかじめ料を払うのではなく、法的根拠のある国家機関が設定した税金を納める。その裁定は究極には裁判所が行う。

これが法の支配の一つの要素でしょう。

法に包装された実力と裸の実力の違い

法の支配と裁判 田中耕太郎267頁

法と実力とは一方当為と存在とのアンティテーゼの関係にある。それらは他方目的と手段との関係にある。法その目的を達成するために自ら実力を用いるのは、一個人や団体の実力行使とその意味をことにしている。実力たることではいずれの場合にもちがいはない。実力はそれ自体として中性的である。この実力は裸の実力である場合と、法によって包装された場合とがある
ー中略ー
実力行使が例外的の場合に私人や私的団体にとくに認められている場合においても、それは法の理念からして正当化されるからであり、実力行使をそれ自体として許容したわけではない。従ってこの場合は「法の支配」の例外をなすものでなく、法が実力を手段として利用する関係が存することは、国家による実力行使の場合と同様である。国家による実力行使もその実力が法の包装をうけたものでなければならず、法を逸脱している場合には、「法の支配」が存するものといえないのである。

個人にとっては正当防衛や緊急避難の場合などにおいて、私的団体にとっては労働争議の場合などにおいて実力行使が行われることがあります。それは法によって認められているからであって、「裸の実力」ではありません。

ただ、その限度を超えたものは法が認めていないものとして「法の支配」を逸脱したものであるという関係にあるのです。

ボクサーのパンチも「実力」ですが、リング上では競技で認められている正当行為として(刑法35条)「法を纏った実力」であると言えます。これが試合以外だと暴行・傷害になるというのは法を纏った実力とはなりません。

サッカーやラグビー、アメフトの試合でも相手の身体にダメージを与えてしまうことがありますが、それは正当行為の一環として行われている限りにおいては刑罰の対象とはなりません。ただ、「悪質タックル」のような類のものについてはたとえ試合中であっても正当行為ではないために、一般の刑罰の対象になり得ます。

法と実力を対比した際、法の側には実力が含まれている(しかもそうあるべき)という認識を得るためには、田中耕太郎の分析は重要だと思います。

人の支配と法の支配

もちろん、上述の考えは「法の支配に対する人の支配」という考え方を否定するものではありません。相互排他的な捉え方ではなく、視点を変えた評価の一つです。

「法の支配」という概念・言葉は沿革的には国家権力の横暴に対抗するものとして発生したという経緯がありますが、実はさらに遡って「法」が生まれたのは何かを突き詰めると、実力に対抗するためであるということを田中耕太郎が認識したに過ぎません。

私たちの素朴な感覚からも、これが間違いであると言うことは不可能だと思います。

法の支配に服するのは国家だけではない

法の支配と裁判 田中耕太郎269ページ

 「法の支配」に服する者は一個人や私的団体をふくむ国民一般であり、この場合においては「法の支配」を阻害する私的実力の排除がとくに問題となってくる。次に問題となるのは国家自体と「法の支配」との関係である。

法は実力の支配を廃するためにあるという観点からは、法が規律する対象には一般国民が含まれるということになります。

似たような話で「憲法を守るのは国家の側であり、国民はまもらなくてよい」という暴言がありますが、憲法上、国民の義務として規定されている条文はあります(直接的に法的義務を発生させているわけではないものも含む)。

また、憲法改正の国民投票が投票者の過半数によって改正が決まるということを一般国民が無視することはできませんから、そのような意味において国民も憲法の拘束下にあるというのが現実です。

もちろん、憲法や法の支配が第一義的に縛っている相手は「権力」であり、その理解自体は正当です。ただ、それをすべての場合についてまで貫徹するのは実態とあまりにもかけ離れている上に、理想としてもおかしいというのもまた明らかでしょう。
※田中耕太郎もこの点を否定しているわけではない。

さて、私的団体による実力の行使について、田中耕太郎は鋭い指摘をしています。

実力行使と法の支配の関係

法の支配と裁判268頁 

戦後のわが国の混乱状態において、法と実力との関係についての正しい認識が失われ、実力行使自体が正当視されるかのような傾向が生じた。それは労働争議の場合において実力行使がきわめて限局された範囲内で認められるにいたったことに端を発している。実力行使の正当性はこの限度を超えて、ひろく政治運動その他自己の主張を貫徹し、自己の利益を擁護する場合に援用されるにいたった。この傾向は次第に増長し、はなはだしきにいたってはそれは大規模な大衆運動化し、これによって国会や裁判所の正常な機能を阻害するにいたった。

労働争議…政治運動…うッ頭が

どこかで見た様な既視感がないでしょうか?

労働争議に名を借りた反社会運動を行う団体がありますね。 

この団体は北朝鮮と関係を持っていますね。

何らかの権利行使に化体した犯罪行為って、これだけじゃないですよね。

沖縄平和運動センター議長の山城博治は防衛局職員への公務執行妨害と傷害、有刺鉄線を許可なく切断した器物損壊などで有罪判決が出ています(現在最高裁に上告中)。

これも「ヘリパッド建設に反対するための表現活動の一環だ」と主張されてました。

この反対活動に関西生コンからも人材派遣がなされていたというのは意味深です。

法の支配は専ら人の支配との関係で論じられるべきだと主張して、法の支配と実力の支配との関係を認識させないようにしている者は、実力行使を咎められるのが嫌なのではないでしょうか? 

たとえば共産主義では法は階級的支配の手段とされて、一個の実力としての意義しか与えられていませんが、そういう手合いの者が解釈した「法の支配」の理解がネット上でも散見されます。

まとめ:法にまつわるプロパガンダ

「法は弱者であっても権利を実現するためのもの」です。

「法は弱者が権利を実現するためのもの」ではありません。

同様の誤りとして「司法は少数者の権利を実現するためのもの」がありますが、正しくは「司法は少数者であっても権利を実現できるようにするためのもの」です。

なぜわざわざこういう事を言うかというと、「弱者だから、少数者だから厚く保護されるべきだ」という独自理論を振りかざす輩が居るからです。

法は強者だろうが弱者だろうが少数者だろうが多数派だろうが、平等に取り扱います。

ただ、ある力関係からして「公平ではない」と判断されれば何らかの調整が取られる場合がある、というだけに過ぎません。 

「法」にまつわるあらゆる言説を見ていくと、そこには巧妙な誤魔化しが含まれている場合があります。それはある種のプロパガンダです。

発信源は、現行の日本国家の統治体制が気に食わない者であることが多いです。

ある記述を読む際は、そういった事情を認識しながら読み進めるべきだと思います。

以上