事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

あいちトリエンナーレ大村知事「表現の自由!検閲!」の見解を改めて公表

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9月10日、愛知県の大村知事があいちトリエンナーレ2019の表現の不自由展について、愛知県HP上で改めて見解を公表しました。

相変わらず「表現の自由!検閲!」と言っており、何も成長していません。

あいちトリエンナーレ表現の不自由展の大村知事の考え方

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」について - 愛知県魚拓

こちらのページに以下の3つのファイルがUPされています。

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」について(9月10日付け)魚拓

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」について(8月2日付け河村市長から知事あて文書)魚拓

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」について(8月8日付け河村市長公表文書):魚拓

9月10日付け文書が大村知事の考え方を述べたものです。内容は河村市長の主張に対する反論のようなものになっています。

大村知事「表現の自由!検閲!」

大村知事は憲法21条2項で検閲の絶対的禁止が表現の自由の保障のために敢えて規定されていることを指摘した上で次のように述べます

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」について - 愛知県魚拓

したがって、検閲にさえ当たらなければ問題ないかの如き理解があるとすれば、本末転倒といわざるを得ません。憲法 21 条 2 項にいう「検閲」の解釈については様々な解釈がありますが、公職にある者は、何故に表現の自由が保障されているのか、何故にわざわざ検閲が明示的に禁止されたのか、その歴史的意味を深くかみしめる義務があると考えます。今般、本件展示の内容が「日本国民の心を踏みにじるもの」といった理由で展示の撤去・中止を求める要求がありましたが、もし事前に展示内容を審査し、そのような理由で特定の展示物を認めないとする対応を採ったとすれば、その展示物を事前に葬ったとして世間から検閲とみられても仕方がなく、いずれにせよ憲法 21 条で保障された表現の自由の侵害となることはほぼ異論はないものと考えます。

大村知事はこの問題の当初から「事前に表現内容に立ち入って拒否することは検閲である」と言っていました。

それが今回の文書では「検閲とみられても仕方がなく」という「印象」の問題であるとして逃げを図っています。

もちろん、これは愛知県の現実の行動とは矛盾した主張なので説得力がありません。

「事前に内容を審査」は既に行われている

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このブログでも何度も指摘してきましたが、既に愛知県はトリエンナーレに関係する参加団体や補助金申請交付の要件に「政治的主張・政治目的事業」を禁止する項目を掲げていました。

ただ、トリエンナーレの内の「国際現代美術展」については、こうした要件・基準が設定されていなかったというのが本件の問題なのです。

大村知事が言うような「事前に内容を審査して特定の表現を認めないとすれば検閲」というのが本当なら、既に愛知県は検閲をしていることになります。

当然、愛知県が検閲をしているという評価にはなりません。

トリエンナーレという催しは愛知県が責任主体として行為しているのですから。

愛知県が法的な行為主体:政府言論

表現の自由というのは基本的に公権力が私人の行為を規制・阻害する場面で私人の側が公権力に対して主張できるものです。

本件が「民間事業に公金支出」の話なら表現の自由の話だとして異論は無いでしょう。

しかし、トリエンナーレは実行委員会の構成に愛知県知事の役職が会長として存在し各種契約も愛知県知事名義で行われ事務局も主に愛知県の文芸課の職員が担い、告知等をするホームページ等も愛知県のパブリックなドメイン"pref.aichi.jp"(トリエンナーレ公式HPは別に存在)であり、文化庁のトリエンナーレへの補助金も愛知県を事業者として採択されているという状況です。

要するにトリエンナーレというのは、愛知県という公的機関がお膳立てをして設えた「場」であり、私人が自由に利用できる公的な場所を利用したり、私人の活動によって創設された作品展示の機会などではないということです。

このような場での作品展示は政府言論】として扱われ、表現の自由条項の問題ではないとするアメリカの連邦最高裁の判例があります。そのため、パブリックフォーラム理論などの表現の自由にまつわる法理が登場する機会すらありません。

日本では同様の事件が存在していないのですが、比較的近いと思われる事件でも表現の自由の話ではないとされています。

したがって、「展示前の場面」において、内容に基づいて展示拒否をするというのは公的機関の裁量の話に過ぎません。仮に公的機関が自己の見解に基づいて作品を選別できないとすれば、それは公的機関に対して「自己矛盾行為を強制」することになります。

大村知事は「基本的人権の尊重」を何度も口にしますが、自分が主体となって行為しているのに自分の考えと相反することをさせられるというのは「法的主体の自律性・尊厳」を毀損する行為ではないでしょうか?

「何が芸術か」は分からないが「何が政治的か」は判断可能

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あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」について - 愛知県魚拓

いうまでもなく、芸術の価値に対する評価は百人百様です。したがって、誰もが芸術的価値を認めるものだけの展示を認めることになれば、こうした展示展は成立しません。したがって、テーマや展示の選択など芸術的内容に関わる点は、芸術分野の専門家を中心としたメンバーで選ばれた芸術監督やキュレーターによる議論・検討を経て決定されています。愛知県は、施設や財政面、事務局スタッフの人的支援といった観点で中心的な役割を担っていますが、愛知県や私が芸術的な価値について当否を判断して展示内容を決定したものはありません。芸術的価値に対する評価については、実行委員会会長あるいは首長といえどもそれを評価・判断して決定すべきでなく、展示内容の取捨選択は最終的には芸術分野の専門家に委ねるべきで、実際にそのように進めてきました。

大村知事は芸術的価値を判断するのは専門家の役割であり、そうではない実行委員会の他の人間は展示可否の判断をしてはいけないと考えています。

公的機関には芸術的価値を判断する能力が無いということを前提にしているようです。 

ただし、公的機関は「何が芸術的か」を判断する能力が無くとも「何が政治的か」を判断する能力はあるハズです。

その作品が芸術的か否かに関わらず、一定のラインを超えた政治的な表現については展示を許可しないというルールを設けたとしても、それは公的機関が「芸術性を判断」することにはなりません。実際に愛知県でそういうルールが存在しているのは先述の通りです。

許されるべきではない政治的表現について、それが芸術的だからといって「治癒される」ようなものではないでしょう。「芸術性という免罪符」を創設することはあってはならないことです。

「行政の中立性」という謎ワード

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」について - 愛知県魚拓

また、公権力を行使する職にある者にも、表現の自由、思想・良心の自由、政治的な意見は個人として当然保障されるべきです。私も個人的な意見等はもちろんあります。ただ、他方で、公権力を行使する立場にある者、特に行政権を執行する職にある者は中立性が求められます。思想や良心の中立性ではなく、行政権を公正に執行すること、すなわち、例え自分の思想や信条、政治的立場と異なる相手であっても、法に従って公正に職務を行うという職務執行上の中立性です。

大村知事は「中立性」という言葉を使ってきましたが、結局のところそれは法令に従て行為するという当たりまえのこと(この場合は憲法21条を守れと言っているようですが)を言っているに過ぎません。

注意すべきは、これは「政治的中立性」ではありません。

そもそも特別職の公務員には政治的中立性の規制はありません。なぜなら、彼らの権力行使はそれ自体が政治」だからです。

それと同様に、政府言論すなわち公的機関が行為主体となって開催する催しも法令レベルでの政治的中立性の要請は働きません。

ただ、行政機関内部の規律として「官僚は特定の政治家におもねらない」などの意味で政治的中立性と理解されているケースもあるようです。

それ以外のある種の理念として「政治的中立性」が求められる場面があり、現実の催しでは、一応の「政治的中立性」を確保しようとしてイベント毎の規約・ローカルルールなどにおいて「政治目的規制」が存在していることが多いということです。その一例がまさに先述した愛知県のルールでしょうが、これは公的機関の側が敢えてそのようなルールを主体的に敷いているということです。

「行政の中立性」ないし「政治的中立性」については【公務の『中立性』はどう理解されてきたか 嶋田 博子】でその概念の多義性がまとめられています。

河村市長の主張「公金を支出」「表現内容が酷い」

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」について(8月2日付け河村市長から知事あて文書)魚拓

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」について(8月8日付け河村市長公表文書):魚拓

他方、河村市長は昭和天皇関連の作品と捏造慰安婦像関連の作品について「表現の自由の領域ではない」と指摘していますが、これは「政府言論」の構成ではなく「表現の内容が酷いから」という理屈でそのように判断しています。

また、「公的施設を使って」「公金を支出しているから」今回の話は私人に対する規制ではない、そのように解するとすれば行政に求められる政治的中立性や社会の信頼が損なわれる、という論法です。

このような主張は危ういと言えるでしょう。

たとえば「日中歴史共同研究」というものがあり、研究結果が政府HPにUPされていますし、書籍化して販売もされています。当然、この事業には日本政府の予算が使われていますし、会議等も公的な施設を使って行われていた事でしょう。

しかし、日本政府はこの研究結果(日中それぞれの研究結果について)を政府見解とはしないことを明言しています。

「公金を支出し」「公的施設を使って」る成果物だからといって、それが公的機関の公式見解であるとは必ずしも言えないのです。

便益供与後にそれを撤回する行為の是非

これまでは作品展示の前の段階において、公的機関側が表現内容から採用するか否かを判断することの是非について述べてきました。 

では、本件のように「既に行われた便益供与について、それを一方的に撤回する行為」の是非はどうなるのでしょうか?

似たような事件として船橋市立図書館蔵書廃棄事件があるので憲法レベルの話としてはこれが参考になると思います。

ただ、本件は契約関係の問題に過ぎない可能性が高いです。

事前に政治目的規制のルールが存在していなかった国際現代美術展においては愛知県美術館ギャラリー利用者の手引きくらいしか規制ルールがありません。

ここで「鑑賞者に著しく不快感を与えるなど、公安・衛生法規に触れるおそれのある作品」「その他美術館長が不適当と判断する作品」がありますが、前者は該当し得る「法規」がありそうにないので後者が残りますが、事前にチェックした上での展示であればこれを理由とすることもできないでしょう。

まとめ:大村vs河村では答えが出ない

大村知事の発想が「vs河村市長」の視点になっているうちは、河村市長に対する反論にしか視点が行かないので、不毛な争いでしょう。

表現の不自由展については愛知県がアンケートを募っているので、フォーマットに入力或いは記載して送付すると良いのではないでしょうか?

以上