予想の範囲内
植村恒一郎教授「呉座は謝罪したから細かい事実はどうでもいい」
私は賛同者ですが、オープンレターは呉座氏の批判に主眼があるのではなく、呉座氏がそこで「活躍」したホモソーシャルな文化、すなわち「中傷や差別的発言を、「お決まりの遊び」として仲間うちで楽しむ文化」を批判しています。だから賛同には、呉座氏の言動の詳細を正確に知る必要はありません。 https://t.co/bL87bGKccH
— 植村恒一郎 (@charis1756) 2022年2月7日
私自身は、呉座氏のツイートが問題になった時点からフォローしていましたから、ある程度は知っています。しかし、オープンレターに賛同するためには、賛同者は、「呉座氏が謝罪したこと」を知るだけで十分です。彼は「悪いこと」をしたことを自分で認めたのだから。
— 植村恒一郎 (@charis1756) 2022年2月7日
https://archive.is/artrd https://archive.is/dzsti
群馬県立女子大学名誉教授の植村恒一郎 氏が「オープンレター」に賛同するには呉座氏の言動の詳細を正確に知る必要は無いと明言。
後続のツイートからは、「悪い事をした奴は無限に叩いて良い。事実誤認も悪い奴に対しては許される」と言っているのと同じことです。
同時に、「オープンレターに賛同するためには、賛同者は、「呉座氏が謝罪したこと」を知るだけで十分です」という部分からは、呉座氏を念頭に置いた声明だということも暴露しているのですよね。
オープンレターの言う「文化」に対する批判がまったく的外れだと思ったら、署名しないハズですから。つまり直前のツイートの「呉座氏の批判に主眼があるのではなく」を自分で否定しているということです。
「そういう意味ではない」と言われても、『そうなってますよ』としか言えません。
最初のツイートにあった「呉座氏の言動の詳細を正確に知る必要はありません」と同じで呉座氏の発言内容の詳細を知るべきか否かという論点内での発言と理解すれば良いのですが、現時点ではそれはかなり善意解釈に寄った理解でしょう。
現実にその後、以下のツイートをしています。
私のツイートにたくさん反論がありましたが、オープンレターは「呉座氏」を批判しているのではなく、「呉座氏の悪い仲間たち」を批判していることが理解されていないようです。オープンレターそのものが、どのくらい読まれているのでしょうね。 https://t.co/bL87bGKccH
— 植村恒一郎 (@charis1756) 2022年2月7日
『「呉座氏の悪い仲間たち」を批判していることが理解されていないようです』
呉座氏本人ではないが「呉座氏の悪い仲間」を批判している時点で、呉座氏の周辺事情しか拾っていないということの心の裡の暴露です。
「オープンレター」文面上の表向きのキレイな目的から推察されるはずの批判対象の「文化」とは、そこから離れた、より一般化抽象化された広い言論時空間における言説の様式であったはずでしょう。
オープンレターの論理そのまま:「文化」批判だから呉座排除ではないという暴論
オープンレター「女性差別的な文化を脱するために」の問題点|Nathan(ねーさん)|note
「オープンレター」は呉座氏排除の要請文書と解すべき理由|Nathan(ねーさん)|note
「オープンレター」の性質については上掲記事等で散々指摘していますが、呉座氏による「女性差別」や「歴史修正主義に同調」の実例を示さずに(誹謗中傷があったということは論を待たない)なんとなくそういう事をしていたのだという前提で論が進められており、検証可能性が担保されていません。
「文化批判だから呉座排除ではない」ため、それを確認する必要は無い、という暴論ですが、そもそも『「文化」の背景の仕組みを考える』としているのに呉座氏の周辺の事情しか拾っておらず、それを無理やり「文化である」と言ってるだけでした。
その事の傍証として、後に以下のようなツイート(リツイート)もあります。
植村教授のツイートに何の驚きもありません。
それはまさにあの「オープンレター」そのものを体現してらっしゃるのだから。
呼びかけ人すら本人の意図に反して(単なる署名者だと思っていた者が一人)記載されていたことが発覚している「オープンレター」ですが、内容とは別個にその管理の杜撰さも特筆すべき様相を呈しています。
キラキラ・ダイバーシティの終焉:オープンレター「炎上」異聞 | アゴラ 言論プラットフォーム
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