事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

砂川事件最高裁判決の調査官メモと統治行為論に関する誤解

 

砂川事件最高裁判決の調査官メモが発見されたという報道がありますが、統治行為論に関する誤解(安易な理解)が幅を利かせているようなのでここで整理します。

砂川事件最高裁判決の調査官メモが発見と朝日報道

砂川事件、判決原案を批判する「調査官メモ」見つかる:朝日新聞デジタル魚拓

 極めて政治性の高い国家行為は、裁判所が是非を論じる対象にならない――。この「統治行為論」を採用した先例と言われる砂川事件の最高裁判決で、言い渡しの直前に、裁判官たちを補佐する調査官名で判決の原案を批判するメモが書かれていたことがわかった。メモは「相対立する意見を無理に包容させたものとしか考えられない」とし、統治行為論が最高裁の「多数意見」と言えるのかと疑問を呈している。

統治行為論はその後、政治判断を丸のみするよう裁判所に求める理屈として国側が使ってきたが、その正当性が問い直されそうだ。

省略

メモが生まれた経緯などは不明だが、判決の構成という核心部分について、最高裁内部でも異論があったことがわかる。最終的な判決をみる限り、メモが受け入れられることはなかった。(編集委員・豊秀一)

朝日新聞は、砂川事件最高裁判決の調査官メモが発見され、その内容は新事実であり、いわゆる統治行為論の正当性が問われる、と書いてます。

さて、ここで疑問が生じます

  1. 砂川事件の最高裁判決(多数意見)は統治行為論を採用したのか
  2. 「多数の裁判官」が統治行為論を採用していたのか

ここでは話がごちゃごちゃにならないように、かなり簡略化して記述していきます。

憲法学界隈では、「砂川事件最高裁判決が統治行為論を採用した(のでは?)」と言われてきましたが、それは本当なのか?

それにしても、「判決にかかわった河村又介判事の親族宅で、朝日新聞記者が遺品の中から見つけた」とあることから記者が最高裁判事と懇意にしていたという事情が見て取れます。 

統治行為論とは

統治行為論】とは、司法権の限界(裁判所が判断するべきではない事項)に関する憲法理論です。

その内容は『一般に「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為」であり、法律上の争訟として裁判所による法律的な判断が理論的には可能であるのに、事柄の性質上、司法審査の対象から除外される行為』と言われるのが標準的な説明です。*1

つまり、統治行為に該当すれば、その事象は一切、裁判所が司法審をしないことになるということです。

しかし、憲法の規定上に書いてあるものでもなく、学説上も統治行為論の確立した見解はありません。日本の文脈では「いわゆる統治行為論」と言った方がいいかもしれません。アメリカの「政治問題」"Political Question"等を参考にして論じられています。(フランスの統治行為論、イギリスの国王大権など、司法権を限界づける理論があるが、現在日本の憲法学会で論じられている統治行為論に近いのはアメリカ型)

これは、司法権の優越はあっても司法権の絶対ではなく、司法がむやみに判断してはいけない事項=憲法判断を回避すべき事項があるのではないか?という問題意識から来ている理論です。

他にも司法審査になじまない場合があるとする憲法レベルの理論として「国会や各議院の自律権」「政治部門の自由裁量行為」「団体の内部事項」などが論じられ、実際に判例上認められているものがあります。

とりあえず、そういう「メニュー」があるということは後述することと関係します。

砂川事件最高裁判決は統治行為論を採用したのか

結論を先に書きますが、現在では砂川事件最高裁判決は憲法判断を回避したものではない、という見方が有力です。厳密な認識はここでは捨象します。 

昭和34年12月16日 最高裁判所大法廷判決 昭和34(あ)710  日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定に伴う刑事特別法違反

関連する部分は以下です。

ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする。そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となつている場合であると否とにかかわらないのである。

「統治行為」の語が無い多数意見=判決文

最高裁判決では、判決文の事を「多数意見」と言います。

それは、最高裁が小法廷なら5人、大法廷なら15人の裁判官の合議体によって判断を下すからです。

そして、最高裁判決に限って、判決に対して個々の裁判官が自己の主張を述べた文章を判決文に付属させることができます(必須ではない)。

それらは結論も論理も賛成だがなお言及したい「補足意見」、結論に賛成だが論理に一定の見解の相違がある「意見」、結論に反対の「反対意見」と分類されています。

個々の意見がどれに分類されるかの判断は誰がやってるのか?

これは個々の裁判官が判断しています

補足意見なのに判決文の論理と異なっている(つまり本来は「意見」に分類されるべきもの)と思われるものもあります。

さて、判決文には「統治行為」「国家統治」という語はあるでしょうか?

ないですよね。

「政治的ないし自由裁量的判断」からは、先述の「政治部門の自由裁量行為」の方を言っているようにも見えます。

砂川事件は、判例解説集などでは「統治行為」の問題としてよりは「条約の違憲審査」という項目の問題として論じられることが多いです。

そして、憲法判断を回避したわけでもないのです。

補足意見、意見で「統治行為論」を明言したのは2名だけ

判決文では「この判決は、裁判官田中耕太郎、同島保、同藤田八郎、同入江俊郎、同垂水克己、同河村大助、同石坂修一の補足意見および裁判官小谷勝重、同奥野健一、同高橋潔の意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。」とあります。

この中で、多数意見が「いわゆる統治行為論」を是認していると明言しているのは藤田八郎・入江俊郎裁判官の2名の補足意見だけです。

当時の最高裁長官は田中耕太郎ですが、彼や他の補足意見を書いている裁判官は文言からは「自由裁量論」を述べているようであり、必ずしもいわゆる統治行為論を是認しているかは判然としません(むしろ採用していないという方向に傾く)

つまり、砂川事件判決当時の最高裁の裁判官において、統治行為論を是認しているのが明確だった人数は少数だったということは、判決当時に分かっていたのです。

したがって、「調査官メモ」から何か「新事実」が発覚したかというと、些末な事情が分かったと言うだけです。

統治行為論真正面の苫米地事件最高裁判例で引用されていない砂川事件判決

昭和35年6月8日 最高裁判所大法廷 昭和30(オ)96  衆議院議員資格並びに歳費請求

衆議院の解散が違憲無効だという苫米地義三一議員の主張が行われた事件で最高裁判決は以下述べています。

 しかし、わが憲法の三権分立の制度の下においても、司法権の行使についておのずからある限度の制約は免れないのであつて、あらゆる国家行為が無制限に司法審査の対象となるものと即断すべきでない。直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であつても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられているものと解すべきである。この司法権に対する制約は、結局、三権分立の原理に由来し、当該国家行為の高度の政治性、裁判所の司法機関としての性格、裁判に必然的に随伴する手続上の制約等にかんがみ、特定の明文による規定はないけれども、司法権の憲法上の本質に内在する制約と理解すべきものである。

省略

すなわち衆議院の解散は、極めて政治性の高い国家統治の基本に関する行為であつて、かくのごとき行為について、その法律上の有効無効を審査することは司法裁判所の権限の外にありと解すべきことは既に前段説示するところによつてあきらかである。そして、この理は、本件のごとく、当該衆議院の解散が訴訟の前提問題として主張されている場合においても同様であつて、ひとしく裁判所の審査権の外にありといわなければならない。

国家統治」 という言葉を使い、さらには一切の例外もなく司法審査の埒外に置く論理は、まさにこれまで憲法学会が「統治行為論」と呼んでいたものである……と言われています。

砂川事件ではなく、苫米地事件の方が「統治行為論」の先例として紹介されている解説書が多いです。この判例も議院の自立権や政治部門の自由裁量論であるとする学説もある。

さて、苫米地事件では砂川事件の最高裁判決の引用がありません。

「いわゆる統治行為論」という枠組みがあって、それにあたれば一律に憲法判断を回避するのだというような理論を砂川事件において最高裁が採用していたというのならば、 苫米地事件で引用されていなければおかしいのです。

そのため、少なくとも両事件は別の論拠に立っているということは主張可能です。

「いわゆる統治行為論」はあったのか?

最初に「統治行為」の意味内容は不確定だということを書きました。

結局、砂川・苫米地事件の最高裁の論理に「統治行為論」という名称を冠するどうかは、統治行為論の概念定義によるのであって、少なくとも最高裁はそのような概念を確定的なものとして存在することを認めておらず、より柔軟に判断できる思考方法を採っていると言えるのではないでしょうか。

その論理は実質的には「いわゆる統治行為論」と同じような機能(憲法判断回避の可能性を認める)を有しているので、それを統治行為論と呼ぶかどうかは、どうでもいい。

「何が政治問題であり、国家統治に関する高度な問題であるか」という色分けが重要なのではなく、「何が司法判断に服するべきか」が重要。そのために何らかの法理を設けた方がいいのか、統治行為論を法理化すると一貫した判断が難しく弊害が大きいのか、という考慮。

「高度な政治性」は、法理ではなく、理由付けのレベルで機能している、という見方をするのが良いのではないかと思うのです。「高度な政治性」があっても憲法判断をする場合もしない場合もあり得ると。

一つの最高裁判決での個々の裁判官の思惑が、何か規範性を持つことはなく、朝日新聞の記事はゴシップ或いは政治論議的には価値があるのかもしれませんが、憲法論議には何ら影響は与えないことは確かです。

以上

*1:憲法第七版 芦部信喜 高橋和之補訂