事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

トリエンナーレ検証委員会:少女像=捏造慰安婦像の展示撤去は表現の自由ではなく契約違反

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8月16日に開催されたあいちトリエンナーレ検証委員会の議事要旨と資料が8月23日にUPされていました。

そこでは重要な契約内容が示されていましたので紹介します。

あいちトリエンナーレ検証委員会議事要旨と資料

あいちトリエンナーレのあり方検証委員会 - 愛知県

議事概要(あいちトリエンナーレのあり方検証委員会 第1回会議) - 愛知県魚拓はこちら

ここでは【12 契約書 [PDFファイル/386KB]】に絞って紹介します。

「展示義務」の(準)委任契約

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トリエンナーレ実行委員会と表現の不自由展(の各個人)との間で【業務委託契約】が結ばれていた事が分かりました。

契約内容を見ていくと、これは民法の典型契約に引き付けるならば(準)委任契約の性質のものです。

契約書の冒頭に「作品選定・制作・展示義務」とあるように、表現の不自由展側は契約上の義務として作品選定・展示等をしているのであって、表現の不自由展側を主体と考えるならば、これが表現の自由という憲法上の権利行使ではないということは明らかです。

民法上の委任契約は必ずしも代理権を伴う訳ではないですが、自己の名で取得した権利を委任者(本件の場合はトリエンナーレ実行委員会)に移転する義務があります。

民法 第六百四十六条 受任者は、委任事務を処理するに当たって受け取った金銭その他の物を委任者に引き渡さなければならない。その収取した果実についても、同様とする。
2 受任者は、委任者のために自己の名で取得した権利を委任者に移転しなければならない。

よって、作品の著作者から作品を「借用」した場合、その作品を利用する権利はトリエンナーレ実行委員会にある、ということになります。この契約において、そのような効果を排除する特約の存在は確認できません。

「借用」とはどういう意味か

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では「借用」とはどういう意味か?

通常の芸術作品の場合、民法上の典型契約であれば使用貸借と賃貸借があり得ますが、それに当てはまらない特別の契約が交わされている可能性もあり、今後の検証で明らかになることでしょう。

使用貸借と賃貸借であれば、作品の著作者らは表現の不自由展実行委員会(権利の帰属主体としては最終的にトリエンナーレ実行委員会)に対して作品を展示することを求めることはできません。そういう性質の契約ではないからです。

「借用」契約の本旨と展示の法的主体

そこで、特別の契約でそういった期待権はあるのかが問題になりますが、現時点で内容はほぼ確定されていると言え、そのような期待権は無いのではないでしょうか?

なぜなら、トリエンナーレ・表現の不自由展両実行委員会同士の契約書の1条3項(上図)を見ると、『乙等(不自由展側)は、出品作品の展示のため、所有者から借用した上での設置を…完了させるものとする』とあるからです。

これによれば、作品展示をする法的主体は著作者らではなく、あくまでも表現の不自由展側であるという「契約の本旨」が見て取れます。これと異なる内容の契約を表現の不自由展側と著作者らとで締結していた場合は不自由展側の債務不履行になります。

表現の不自由展はトリエンナーレ実行委員会の(準)委任契約を受けて作品を展示しているのですから、結局のところ、作品展示をしているのはトリエンナーレ実行委員会ということになるでしょう。

トリエンナーレ実行委員会はほぼ愛知県たる公的機関なので、作品展示は公的機関の行為であり、やはり「政府言論」と見る他ないと思われます。

表現の自由の問題ではなく【政府言論】トリエンナーレ表現の不自由展中止 

会社の営業マンが契約を取ってきても権利義務は会社に帰属するように、現実に動いている存在と法的な主体が異なるという事は、当然に発生していることです。

トリエンナーレ実行委員会・表現の不自由展実行委員会・著作者らの関係

  1. トリエンナーレ実行委員会
  2. 表現の不自由展実行委員会
  3. 作品の著作者

この三者の関係を考えていきます

作品の選考・制作・展示前段階での関係

以上みてきたように、どの作品を選考して展示するのか?という権限はトリエンナーレ実行委員会が有しており、表現の不自由展実行委員会は業務委託を受けたに過ぎません。

したがって、両者の関係において不自由展側の提案をトリエンナーレ側が拒否したとしても、それは表現の自由の侵害ではなく、論理必然的に検閲ではありません(広義の検閲ですらない)。あくまでも内部のルールに則って選定していれば問題は無いと言えます。

不自由展側と著作者らとの「借用」契約が特別なものであって作品展示の期待権があっても(トリエンナーレvs不自由展の関係では後者の債務不履行になる契約)、それはあくまでも両者の契約関係に基づいて発生している事柄なので、その場合に不自由展側が著作者らとの合意に反する行為をした場合には契約上の債務不履行の話にはなっても憲法上の表現の自由の侵害ではありません。

大村知事や津田大介の「検閲になるから」は完全に筋違い

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したがって、大村知事や津田大介の「検閲になるから」という論は完全に筋違いということになります。

これは本件が発生した当初から指摘していることですし、何より大村知事や津田大介の考える「検閲」概念では、既に彼らは「検閲」をしていることになり、矛盾しています。

また、トリエンナーレ「国際現代美術展」以外の展示や愛知県の補助金支給要件では「政治目的の事業」が禁止されている例が既にあるので、彼らの言い分ではこのルールの存在との整合性が取れません。

一度作品展示を承認しながら無断で撤回した場合=本件の場合

本件の特徴は、一度作品展示を承認しながら無断で撤回したということです。

著作者vs不自由展≒トリエンナーレ実行委員会≒愛知県らとの関係

不自由展≒トリエンナーレ実行委員会≒愛知県vs著作者らとの関係では、著作者らが展示の期待権を有していると認められる場合には実行委員会側が法的責任を問われることになるかもしれません。

日本国内の類似事案では図書館が購入した書籍が閲覧に供されたことによって、著作者らが著作物によって思想意見を公衆に伝達する利益が発生しているとしました。

その上で、図書館の規定のルールを破って書籍を無断廃棄したことについて、上記法的保護に値する利益が侵害されたとして損害賠償が認められました。

ただ、この判断は公立図書館が「公的な場」であると関係法規を参照して認定したことが前提にありますから、トリエンナーレの事情はかなり異なるために同様の判断になるかは分かりません。

不自由展vsトリエンナーレ実行委員会の関係

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トリエンナーレ実行委員会と不自由展実行委員会との契約書には、『出品作品の展示の撤去にあたっては協議をする』とあります。

これに対して、大村知事からは、今回はトリエンナーレ実行委員会の会長たる大村知事が、トリエンナーレ実行委員会規約の16条の「会長の専決処分」として独断で撤去を決定したと主張されています。

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しかし、専決処分はトリエンナーレ実行委員会における「運営会議」に関するものであって、対外組織である表現の不自由展実行委員会側に対してこれをもって対抗することはできないのではないかと思います。

よって、表現の不自由展側からトリエンナーレ実行委員会側に対して契約上の請求がなされた場合、後者は負けるのではないでしょうか。

まとめ:「公金支出をしてるから」は本質ではない

以上、法的な行為主体は誰か?に着目すると、トリエンナーレ事件の本質が見えてくると言えるでしょう。

それに対して「公金を支出しているから」というだけでは、この事件を捉えることはできません。

公金を支出していても、それが民間事業であれば、主体は民間です。

たとえ政府の方針に反する行為が行われていたとしても補助金の支出基準に準拠している限り違法でもなんでもないですし、基本的には政府がその行為を是認したと評価されるものでもありません。

今回の件で公金支出が問題視されているのは、公金が支出されている以上、支出の判断過程や審査基準が適切だったのかの事後的チェックを行うためであり、必要であれば新たな立法の検討をするためであるということに過ぎません。 

以上