事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

愛知県共産党、大村知事のリコールに反対「表現の自由を否定」と誤解

愛知県共産党、大村知事のリコールに反対する声明を出しましたが、相変わらず表現の自由、検閲、などと吹聴しているので改めてその主張の誤りを指摘します。

過去に語りつくした話ですので、深く知りたい方は以下を読んで頂ければと思います。

あいちトリエンナーレ・表現の不自由展 カテゴリーの記事一覧 - 事実を整える

愛知県共産党、大村知事のリコールに反対

愛知県共産党、大村知事のリコールに反対する声明を出しました。

誤解があるので指摘します。

高須院長や河村市長は「表現の自由を否定」と誤解

共産党愛知県委員会

共産党の声明は相変わらず「表現の自由を否定」「検閲」などと言ってますが、本件は以下のように整理できます。

  1. 表現の自由は政府に表現の場を求める権利ではなく、邪魔するなと言う権利に過ぎない
  2. トリエンナーレは公的機関運営に民間が乗っかってるだけ
  3. 民間活動に公金支出するような事案とは異なる
  4. よって憲法上の表現の自由の話ではない
  5. したがって検閲の話になり得ない

上記の内、2番の「トリエンナーレは公的機関運営に民間が乗っかってるだけ」という認識をすっとばしてるからおかしな話になります。

公金支出の問題」なのは確かですが、それは上記の前提を踏まえた上でないと、「表現の自由は尊重されるべきだから補助金出せ」みたいな「反論」が可能だと勘違いする輩が出てきます。

あいちトリエンナーレ問題・展示前と展示後の問題は別

また、展示前と展示後の問題は別に考えることになります。

「一度展示の場を提供しておきながら一方的に撤回した問題」は、トリエンナーレ実行委員会≒ほぼ愛知県と表現の不自由展実行委員会や参加クリエイターらとの契約関係や不法行為の問題です。

それは事後処理の問題であって、昭和天皇の御尊影を燃やし、残り灰を踏みつける映像の展示を許した問題は、展示前の話です(撤回後に再度展示許可した点も糾弾されるべき)。

「憲法上の表現の自由・検閲」は愛知県の検証委員会も否定

あいちトリエンナーレ表現の不自由展の問題を「憲法上の表現の自由・検閲」と捉えることは、愛知県の検証委員会の法律論を担当した曽我部教授も否定しています。

あいちトリエンナーレのあり方検証委員会 第2回会議 議事録

(曽我部委員) 省略

まず一点目、本件は公金を使って県立美術館で表現の場を提供する、しない、というケースですので、憲法上の表現の自由がストレートに問題となる事案ではないということで、これが今回の大前提となるものです。「憲法上の表現の自由がストレートに」と書いていますけれども、今回その表現の自由、あるいは、芸術の自由が問題に、もちろんなるわけですけれども、「法的な意味での表現の自由」ということでいうと、ストレートに問題となるということではないということになります。もちろん、表現の自由というのは非常に重要でありまして、最大限尊重が必要なわけですけれども、法的な議論をする場面でいうと、今のようなことになるということです。法的に言うと、基本的には、契約ですとか、あるいは、その不法行為ですとか、民法上の話がメインになるかな、ということでございます。

したがって、表現の自由のフィールドの話である「検閲」においても以下指摘しています。大村知事の事を言ってますね。

第3回会議議事録

(曽我部委員) 省略

最後に 1 点だけ、法律的なことでいうと、今回非常に印象に残ったのは、検閲という言葉が非常に様々な意味で用いられて、混乱を招いたということです。何か自分の気に入らないことに検閲というレッテルを張って批判するということ、そういう局面も見られたわけですが、そういう意味では検閲という言葉が、極めて多義的に用いられて混乱を呼んだというのは大変残念なことだったと思います。以上です。

法律関係の図などは議事概要(あいちトリエンナーレのあり方検証委員会 第3回会議) - 愛知県 の資料に掲載されています。

トリエンナーレ表現の不自由展問題は、公的機関の裁量・自律的態度を放棄した大村知事の問題

公的機関の裁量としてどの作品を展示するかは選択可能なのに、その自律的態度を放棄した大村知事の主体性を欠いた無責任な行政運営の問題

あいちトリエンナーレ表現の不自由展問題は、このように言えます。

誰でも自分の裁量の範囲であれば、自分に決定権があり、他人がその者の意思に反する事柄を強制することはできない。

この当たり前の、普遍的な価値観の話であると言えます。

文化芸術基本法違反だとする主張も誤り

これもあいちトリエンナーレ大村知事、自ら「検閲」していたと暴露する - 事実を整えるで既に指摘していることですが簡単に。

共産党は文化芸術基本法の第二条 「文化芸術に関する施策の推進に当たっては,文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない。」を持ち出しています。

「自主性」と書いていますが、既述の通り、あいちトリエンナーレは公的機関が運営主体の場であり、表現の不自由展がそこに乗っかっているだけですから、それだけで行政の介入を全否定するような効力はありません。

  1. 文化芸術基本法は行政不介入の原則を示しているに過ぎず、絶対的に介入を禁止しているわけではない⇒トリエンナーレの他の展示領域の要件には「政治的主張を目的とする表現でないこと」という項目がある(なぜか表現の不自由展が属する国際現代美術展にはこの項目が存在しない)
  2. 文化芸術基本法があるからといって表現の自由に給付請求権は無い
  3. 文化芸術基本法2条9項には「文化芸術に関する施策の推進に当たっては,文化芸術活動を行う者その他広く国民の意見が反映されるよう十分配慮されなければならない」とある⇒今回問題視された作品に関しては国民の意見が反映されるようになっていたか?
  4. 誰が文化芸術であると決めるのか?⇒文化芸術だと言ってしまえば展示が強制されるのか?それは「特権」ではないのか?

行政は何が文化芸術であるかは判断する能力がありませんが、何が政治的であるかを判断する能力はあります。芸術であるからといって政治的表現が「治癒」されるという特権を与えるのは憲法14条違反ですので、それこそ公的機関としては許されるものではありません。

大村知事のリコール問題と表現の不自由展の問題

大村知事のリコール問題と表現の不自由展の問題についてはあいちトリエンナーレの問題点・争点をわかりやすくまとめ - 事実を整えるでまとめています。

事案の中心から外れた、外縁に属する付随的な問題が取り上げられる傾向にありますが、中心的な問題は昭和天皇の御尊影を燃やして残り灰を踏みつける映像の展示を大村知事が容認したことにあります。これは判断ミスの問題。

そして、それに関する発言が法的主体としての自律性を放棄したものであり、誤解を拡散した点が、行政の長としての資質の問題として関連してくるでしょう。

以上