事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

ハンセン病の反省と癩病患者と犯罪者の隔離政策1

第7回国会 衆議院 厚生委員会 第5号 昭和25年2月15日から抜粋。

ハンセン病=癩病の歴史

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○光田説明員 癩の現状についてお話せよとおつしやいますので申し上げます。日本に癩患者がたくさんございます。世界の総数が三百万と言つておるので、それで文明国にはほとんどないというこり癩が、日本に昔からあるのです。これはイデオロギーが非常に違つておりまして、癩は遺伝であるということ、また宗教的に見て前世に悪いことをしたその天罰によつて、現世において癩病になるのだというような迷信があります。そういうようなことで、癩患者の生活というものは、癩になつた人は一生、浮かばれないというような生活をいたしておりましたので、彼らは遂に家を出る。家人の迷惑になるのを恐れてみずから遍路をいたしまして、神社、仏閣というようなところに浮浪徘徊を続けたのであります。昔は物を惠むというような方もありますし、また忍性師というような鎌倉時代の大徳がありまして、癩患者を救済したといううるわしい事跡もございます。またザビエルが四百年前に入つてから外国の文物が次第に入りまして、日本の各所にも癩病院ができるようになつたことでありまして、これを続けて行きましたら、四百年以後においては癩病は根絶するのでありましたけれども、不幸にしてこれは天主教の弾圧がありまして、遂に隔離することができなかつた。これがために日本における癩患者が、徳川時代から今日に至るまで根絶しないのであります。西洋ではもう十世紀から十三世紀までの間に、隔離法によつて癩患者が絶滅いたしましたので、ザビエルが来ましたときも、西洋にはほとんどなくなつておりまして、日本に来て目についたのは、浮浪徘徊の徒が各所にこじきをしておる哀れなる姿であります。明治時代になりまして皆さん御記憶もないことと思いますが、明治初年に非常に悲惨なことがありました。高橋お傳と申します女が、自分の亭主が癩病であるために、いろいろの罪惡を犯しまして、遂にこれが絞首刑になりましたというお傳地獄というような本も出ておりますが、これが日本でいろは歌にも歌われて、非常に有名な事実であります。ところが明治の世の中で、日本で癩病のことについて真先に注意いたしましたのは、大学におるドクトル・ベルツという人が、日本に癩病が十万もあるというようなことを申し、非常に警告を與えました。しかしみんなはこれは遺伝病であるというので、依然として患者は四国の遍路だとか、熊本の本妙寺の清正公だとか、あるいは高野山、または大都会の神社仏閣の地に、浮浪徘徊をいたしておりました。これについては国際間にも非常なできことがございましたので、たとえば日本からカリフォルニアに行つたところの者に癩病があつたというので、遂に移民制限、あるいは移民追放というような事態になつたことは御承知のことと思います。それで明治三十年にヨーロツパに唯一の癩病王国としてあつたところのノルウエーに、当時癩が隔離によつて漸減したという時代において、ドイツのメルネルという西の方の郡内に、癩患者が十二人ばかり現われたのであります。これについてドイツの学者たちはこれはたいへんなことである。癩は伝染であるから、この十二人を放つておくと、遂にはヨーロッパの中世における大流行したような事態になるというので、ただちに世界の学者、癩病がある国の学者をベルリンに呼びまして、第一回癩会議というものを開いた。その結論は癩は黴菌によるところの伝染病である、これを根絶せしめるのには隔離法による以外にないという結論に達しました。それによつて日本からも代表者が出まして、その当時土肥慶三博士という人が参加いたしました。また論文を提出したのは伝研の北里博士であります。こういうようなことから自然に国民が注意をいたすようになりまして、埼玉県の医者である代議士の齋藤壽雄という人が、明治三十六年に議会に癩予防法に関するところの建議案を出した。それから山根正次氏という人も毎議会に癩の問題を提出いたしました。民間におきましても明治二十二年に御殿場に復生病院というものができましたり、熊本には明治二十七年に回春病院というものができました。東京の目黒にも慰發園という病院ができまして、また身延山には五、六十人から百人余の患者を外国人及び内国の資力によつて養つておるというような状態であります。その当時三十二年から四十一年の十年間に政府も気をつけまして、数回の調査をいたしましたところが、三万人ないし三万六千人という数を発見いたしました。その当時に癩としてその各地方死亡診断書が――毎年二千人、多い年にに三千人というような癩患者が死亡いたしました。むろん癩でありますから、死亡診断書は正確ではないから、それに数倍あるところの数が死んでおるということがわかるのであります。そいうような有様で、政府なり民間の有力者も、これは外国人にだけまかすべきものでないというので、明治四十年に癩予防に関する法律というものを議会で取上げられました。それによつてまずさしあたり日本の三万六千人の者も、一度に隔離するということはずいぶん困難なことであるということで、そのうちでも一番目について病毒を散漫せしめるところの俘浪徘徊の徒だけでも、ひとつ何とかして地方費によつてこれを隔離しようという案ができまして、その実行が明治四十年、今からちようど四十一年になるのでありますが、その当時この浮浪徘徊の徒はどのくらいあつたかというと、千二百人ばかりありまして、これを全国の五箇所の療養所に入れた。これは長くなりますから省略いたしますが、その五箇所というものは青森と東京、大阪、四国、熊本、この五箇所に千二百人の患者を隔離いたしました。

朝鮮人とハンセン病・癩病に関する迷信と人肉犯罪

 そういうようなことでありましたが、これをますます議会の問題にするについては、御記憶でもありますかもしれませんが、明治三十九年に野口寧齋という詩人がありまして、その詩人が癩病なるがために、その一族に非常な悲劇が起つて、遂にこれが殺人をいたすようなことになり、寧齋がしたのではないので、その婿にあたる人が金に困つたり、あるいは野口寧齋の病気をなおすためにした。どういうことをしたかと申しますると、その当時臀肉切取り事件というのがありました。というのはある小僧が番町の土手で、臀肉を切取られて死んでおつたという事件が起りまして、これはだれがやつたかというて捜査の結果、こういうような残虐なる犯罪を犯すというのは、何か、天刑病のような人がやつたのであろうというて、麹町中探しましたところが、野口寧齋が病気になつておつた。それからまた娘さんに恋着する者があつて、その恋をかなえるためにこういうような残虐行為をしたということがわかりました。この臀肉切取り事件というものをもう少し深く探つて行きますと、支那の本の中、また朝鮮の本の中に、癩病は人の肉なり人の生肝を食わすとなおるという一つの伝説がございます。これによつてこういうような凶行が起つたものでございまして、そういうようなことは、日本ではそのような本によつてようようわかつたのでありますが、朝鮮では人の生肝を食えば癩病はなおるという伝説がございまして、朝鮮では殺人というものを調べてみると、たいがいそのうしろに癩病があるということがわかつたのであります。そういうようなことで、朝鮮人の殺人犯罪は年々多数に上つております。この癩病は朝鮮の南部には非常にたくさんあるということがわかりました。しかしながら日韓併合のときには、内地に渡航するものが非常に少かつた。ただ内地だけの癩病を收容しておつたのであります。しかし自暴自棄になつておつたところの患者の中には、療養所の安定した生活によりまして非常に打つてかわつた人間になつた者もあります。しかしその千二百人の病歴を探つてみますと彼らはかつて浮浪する前には、首をくくつて死に切れず、あるいは海に入水して死に切れないという経歴を持つていない者は一人もなかつた。さように癩患者というものは恵まれない、悲惨な生活を送つて来たということは、御承知のことだと思います。しかし大部分の患者は生活の安定を得て、療養所を一つの楽天地としようとする者がある反面において、浮浪徘徊者の常習であつた賭博がはやりまして、そしてこの賭博で金銭のやりとりをしてまつ裸になるまでも取上げるというわけで、逃走患者が絶えなかつたのであります。それが外部に出てまた浮浪徘徊するという状態になつたのであります。またそのうちには、実に神妙な人間が大部分を占めておりまして、身を殺して仁をなすというような患者さんたちもたくさんありました。しかし自暴自棄のために人の迷惑を一つもかまわないで、蹴込みとか、窃盗あるいは強盗というようないろいろの犯罪をする者が、これは少数でありますけれども、そういうような犯罪者ができました。これはもちろん初期の療養所というものは、今日のごとく明るくなかつたのであります。そこで秩序を保ち、これを救う方法について、政府でもまた療養所当局も困り抜いて、遂に大正五年に懲戒検束の規定というものができまして、警察署程度の治安維持、悪いことをしたら一時そこに入れるということになつたのであります。これでよほど賭博等の犯罪は少くなりました。また院内の秩序もやや回復いたしましたけれども、これくらいのことではなかなか承知しない患者が数人はあつたのであります。私どもの配慮でも松原健三郎あるいは山田徳一というような非常に凶悪な患者がおりまして、それが日本全国を荒しまわつたというようなことがございます。しかし何とかして秩序を保たせたいというのが私どもの気持でありまして、生活、治療等も改善されて今日に至りました。そのうちに政府も、日本中に三万からあるものをわずか千二百人くらいな收容ではとうていだめであるというので、数回の拡張が行われたのであります。そうこうするうちに日韓併合ということになりまして、朝鮮人も人づて参ることになりました。当時日本には三万おりましたが、朝鮮人にもそのくらいな程度の患者がおりました。その後次第々々に移動して参りました。その朝鮮の患者は、朝鮮独特と申しますか、殺人を平気でやるような凶暴な者が出て来たのであります。それでただ内地の患者だけではなく、朝鮮の癩患者も引受けなければならぬということで、一視同仁的に今日まで続けて来たわでございます。療養所の拡張に伴いまして遂には五千人八千人とふえ、私どもは一万人を目標にして進んで参りまして、今は十箇所の国立療養所が八千三百人くらいを收容しておるわけであります。今日ではいろいろの御配慮によりまして、患者の生活は昔のようではなく、また浮浪徘徊の徒ばかりではなく、りつぱな人もたくさん入つておるのであります。しかしまだ自暴自棄的の精神がありまして、院内において少数の惡い患者が、院内の安寧秩序を乱すというようなことがまつたくないではありません。これに対して私どもは四十年にわたつて、何とかしてこの矯正策を政府も考えてくださいますようにお願いいたして参りました。しかしながらなかなかそれの実行ができませんので、一時刑務所に送るというような場合もございましたけれども、そういうようなものは不必要である。かえつて窃盗、強盗あるいは殺人までも犯した者を刑務所に長く置くことはできぬというようなことで、こういうような者が執行猶予になつて、病人であるから当然療養所でこれを治療してやれというような要求がありまして、それにはほとほと困つたのであります。癩患者なるがゆえにということで執行猶予になりました者で、入つた者はまたいろいろな悪事をいたします。それをやる場所がないようになつて来ました。憲法発布になりましてから、懲戒検束の規定も取消しになつたので、今はほとんど制裁することができないような状態にあります。御承知でもありましようが、先日――一月十六日でありまするか草津において凶暴な患者がおりまして、これを朝鮮の多数の患者が撲殺したというような前代未聞の犯行がありましたことは、まことに遺憾なことでありますけれども、今かような凶暴な者を取締るところの方法がないのであります。院の者もやはりまる腰でありますし、またこれを警察の方に伝えましてもどうすることもしないので、そのためにかような凶行が起つたことはまことに遺憾なことでありまするが、今後においてかような者は何とかして制裁をしていただかなければならぬ。癩患者は病人とは申しますけれども、手足はまだきくような者が多いのでありまして、院内においてもいろいろの相当な作業もいたしまするし、労働能力も相当ある者が多いのであります。それでこれを療養所に入れておきますと、多数の、八千三百人の安寧秩序を害するというような結果になりまして、また彼らが数人団結して院内の治安を撹乱するという場合において、前から申しましたように、職員はまる腰でありまするから、何ともこれを懲戒することもできなければ、実に危險な状態になつております。それで近年、ことに朝鮮人の内地に移動する者が多くなりまして、これはあたりまえに査証を受けて入る者もございますが、密航する者も多数にある。これが山口県とか福岡などの炭鉱とか製造工場に人りまして、そして軽いうちは労働に従事しておりますが、次第々々に重くなつておる者がたくさんございます。こういうような朝鮮から密航した者が今どのくらいあるかと申しますと、全国の療養所に五百人ほど入つております。また外部で朝鮮人の癩が自由に行動をいたして、あるいは酒を密造するとか、あるいはやみをやる者が、さような患者の中にも五百人ぐらいはあるのであります。今日は日本内地における一万二千人の者については、八千人だけは療養生活をすることができるのでありますが、朝鮮の安寧、秩序が維持できないために、せつかく日本人が向うに行つて、宇垣総督時代にこしらえたところの六千人を收容できる世界第一を誇る療養所が、終戰のときに日本人の管理者はみな追い出されまして、ほうほうの体でまる裸で帰つたというような状態でありまして、院内の秩序が乱れて来まして、逃走が相次いでおります。そのために内地にたくさんの朝鮮人の患者が入つて来るので、日本は朝鮮の癩患者まで今日はおせわしなければならない。これは人道上でありまするから当然ではあるようなことではありまするけれども、こういうような荷やつかいなものが中に入るために、またこの院内の安寧秩序を維持のできないような状態に今日はなつて参りましたことは、まことに遺憾なことであります。

朝鮮の小鹿島

 ちよつと朝鮮の小鹿島のことを申し上げますが、これは宇垣総督時代にできたところの療養所でありまして、明治天皇の御存命中に御下賜金として三十万円というものが朝鮮の癩のためにくだされたのであります。これで小鹿島という所に囲いをいたしまして、約百人くらいおりましたけれども、朝鮮ではますます癩患者はふえるいうような傾向になりました。ちようど昭和十年ごろの調査によりますと、一万三千七百人ほどおるということになつて参りました。近来はますますふえて、私どもの推定によりますと朝鮮の全羅南、北道及び慶尚南、北道には、一万八千人の癩患者がいる。全朝鮮には二万人の患者がいるということに推定数が出て参ります。この内地の患者に対する方策はいろいろの配慮によりまして、本年は約一万人ばかりの收容力を持つ。それで元三万人あつた癩患者は、今日は一万人に減つたという非常にけつこうなことでありますけれども、また朝鮮の癩の新勢力が内地にどんどん浸潤して来るということはまことに遺憾なことでありまして、皆さんにこういうような点についてもお考えおきを願いたいと思います。そうしてこれらの朝鮮人は、いずれも貧困にして朝鮮においては食つて行けないような人たちが多いのでありまして、内地の労働力の足りない虚に乗じて内地に潜入いたします。かようなわけで、今後この対策は皆さんに御熟考をお願いしなければならないのであります。今回の草津事件は、たくさんの朝鮮人が、手に手に物を持つて三人の者を撲殺したというようなことでありまして、私どもはまだその裁判とか、法律のことについてはよく承知いたしませんが、刑務所に入れても、病人なるがゆえにただちに執行猶予にするというようなことになつておりまして、内地の患者に対しても困る上に、朝鮮人の犯罪行為を取締る方法がない状態になつておりますので、このことは皆さんのお耳に入れておいて、今後これでよろしいかということについてお考えおきを願いたいと思うのであります。近来療養所の八千三百人の日本人は、おかげさまでおちついてはおりまするが、人を殺すことを何とも考えないような朝鮮の癩患者を引受けなければならぬという危険千万な状態にありまして、患者の安寧秩序が乱され、また戰員も毎日戰々兢々としてこれらの対策に悩んでおるような状態でございます。今日は草津に現に園長としておられる方がおいでになつておりまして、何かお話をしてくださることと思いますから、私はこのくらいで終ります。

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草津の撲殺事件の詳細

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○丸山委員 先般の革津の撲殺事件は、医務局の方から一応御報告がありましたけれども、園長からもう少し当事者としてのそのときの御感想など承ることができたら、なおいいと思います。

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○矢島説明員 草津楽泉園園長の矢島であります。今回荘園患者の間に不詳事件を惹起いたしましたことは、まことに申訳なく思つております。今回の事件の概略をここに御報告申し上げます。
 近年楽泉園に送られて来る患者の中には、犯罪に関係のある者の数が目立つて多くなつたのであります。ことに昨年の夏以来は、刑務所で刑の執行を停止されたり、あるいは刑の執行を猶予されたような患者が、どんどん送られて参りまして、千有余名の在園患者は非常にこれを恐れております。われわれの入つておるところは療養所であつて刑務所ではない。当然受刑さるべき者が刑を終らずに執行を猶予され、あるいは停止されて送られて来ることは、私どもの安寧秩序を不安たものに陥れて非常に困る。園で何とかしてこういう犯罪者を入園させないでもらいたいという願出がしばしばございました。しかし私のところは、全国十箇処の官立療養所の中で、まだ満床になつておりませんで、ただいま千五十名の定員に対しまして約千二十五名ほど入つております。それで満床でないゆえに受刑者であつても何ら断る理由がなかつた。従いまして、そういつた犯罪者が送られて参りまして、たまたま昨年の十一月十七日に、東京都の不良癩患者でありました朝鮮人の親子、もう一人は沖縄の者でありますが、これを当時知らないで入れたのであります。これは関西で相当の親分として鳴らし、いろいろの犯罪を犯して東京へ逃げて来て、浅草におつてたかりとか、押売りとか、相当悪いことをして、遂に東京都の手によつて楽泉園に送られて来たのであります。さらに十二月の二十七日に大阪府が送つた患者の中に、やはり関西を非常に荒し、同じ国立癩療養所を数箇所荒しまわつた名ふだのついた患者がおりました。この三人が期せずして関西で同じやくざの仲間であつたそうであります。それが楽泉園の中で顔を合せて、ここに親分子分の片割れが園の中でまた再び結ばれて、昨年の末から本年の初めにかけて、いろいあ悪い事件をひき起したのであります。暴行をする、あるいは脅迫をする。そのうちに凶器を持つて在園者を脅迫するというようなことが起きまして、昨年の暮から園当局よいたしましては、この不良癩患者に再三いろいろ言うて聞かせ、あるいは手をとつて善導に努めたのでありますが、いずれもすでに社会を荒しまわつたやくざ者でありまして、なかなか園当局の善導に従わないのであります。そして昨年末に遂に在園患者の数名に暴行をして、これに傷害を與えた事件が起きたのであります。ただいま光田園長からお話がありましたように、私どもは懲戒検束権というものを持つておらぬので、この患者を監禁することはできません。従いまして、これは当然警察に連絡をし、警察の力でもつて凶器も取上げてもらわなければならぬ。またそういう凶暴な患者は適当に成敗して、在園患者を保護してもらわなければならないと思いましたので、そういうふうに警察に手を打つたのでありますが、いかんせん警察では、患者が癩であるということを非常に恐れておりまして、この問題を取上げてもらえない。そうしますうちに、年を越えまして正月の初めに再度同じような不詳事件があつたので、今度は私自身厚生省に参りまして、この善後策を相談いたしました。そうして厚生省の了解のもとに、千名の患者の安寧秩序を保つためと、もう一つそういつたやくざの連中がたまたまあそこで三人一緒になつて、しかも次第に子分を中でつくつて行くという環境が悪いから、これはひとつ親分の環境をかえて、ほかの療養所に移して、そこでは初めからこういう不良の患者であるということを園当局に申し上げて、再びそこで根を張ることのできないようにして、不良の癩患者を善導しようと努めたのであります。これは熊本の菊池惠楓園長と厚生省と私が話合いまして、幸いに惠楓園長の了解のもとに、たらいまわしというような形でなく、環境をかえて、向うで不良の親分に勢力を張らせないようにという考えのもとに手を打つたのであります。そうして輸送等の関係がありましたので、一月の十九日に長野原という駅を送り出して、この療養所へ転送することになつておりました。これには職員も輸送の手配はすつかり済んでおりまして、患者にもそのことを言つて聞かせて、納得しておつたのであります。ところがたまたま一月十三日の上毛新聞の地方版に、「狂暴な癩患者、手を焼く楽泉園」という見出しのもとに、療養所の中に非常に凶悪な癩患者が出て、千名の患者を脅かしておるというような記事が載つたのでありました。この記事を見ましたやくざの親分子分が、また開き直りまして、こういう記事が出る以上は、おれたちは死んでもこの園を動かない、さらにこの中の患者の代表者たちは、片つぱしからやつつけてやるというような暴言をはきまして、再び園内を非常に恐怖のどん底に陥れたのであります。しかしながら私といたしましては、さらに熱誠をこめまして、決してこれは患者の団体が新聞社へ報告したものでもなく、園当局が出したものでもない。ころいう記事が出ても、これはまつたく新聞社がかつてに県なり警察から入手した記事であつて、お前たちをそういうふうにじやま物扱いして転送するものではないということを言い聞かせまして、今度は楽泉園において治療の再出発をしてもらいたい、人生の再出発をしてもらいたいということを懇々と言つて聞かせましたところが、幸いにも親分がこれを承諾して、それでは参りましにうと言つて、話はきちんとついたのが一月十六日でありました。
 ところがたまたまあの地方では、一月の十六日はお正月とか何とかいいまして、あの辺の一般の社会でも休む日でありますが、その日に、草津の町へ園を脱出しまして酒を買つて来て、これを飲んだ。そうしてこのときは子分が大分ふえまして、六名になつておりますが、このやくざの親分子分の六名が酒を飲みまして、さらに朝鮮人の団体である協親会という文化団体でありますが、そこの事務所へなぐり込みをやつた。短刀を抜いて、いきなりその部屋へ脅迫に入つておる。そうしていくらか酒手か何かをゆするうとした。そこで先ほどから申しました通り、すでに昨年末から乱暴しないように、どこまでも温順に指導して行くのであるということを私から言つてあつたので、がまんにがまんをしておつた患者でおりますが、短刀を抜いて脅迫に入つたために、朝鮮人の団体が起ち上りまして、遂にはスコップあるいはまきというような凶器をもつて、そのやくざの親分子分を撲殺する事件が起きたのであります。この事件が起きますと同時に、私どもは全職員非常呼集でこれの鎮圧にあたり、なお警察に電話をもつて、まさに殺人の惨事が起きんとしているからという急を伝えて、七回ほど応援を求めたのでありますが、なかなか草津の警察の來援が得られません。九時から警察に連絡しておつたのに、十一時半にやつと警察官が、しかも武装もせずにまる腰でやつて来た。その来たときにはすでに殺人が行われたあとであつたという始末でありまして、こういつた癩患者の凶行に対しては、警察に手を下してもらえない。それからなお五名惨殺されたうちの三名は、警察官が現場に到着して、私どもから保護を願つたその面前で、朝鮮人の患者の一団がなぐり殺しておるという次第であります。
 以上が今回の不祥事件の大体でありますが、私ども今回特に痛切に感じましたのは、もしも癩の刑務所というようなものがありまして、園からこの不良の癩患者を何とかしてもらいたいという申出と同時に処置してもらえれば、この事件は起きなかつたろう。また今回起きました事件の最後も、ただいま捜査が終りまして、十三名の下手人があがつておりますが、との下手人の処置に関しましても、ぜひとも癩の刑務所というものがありまして、癩患者といえども悪いことをした者は適当にさばかれるという点をはつきりしてもらわないと、将来あるいは同じような惨事が繰返されないとも限らないのであります。さらに癩患者なるがゆえに、警察当局も療養所に何でもまかせておけばいいという態度で、取上げてもらえないということは、まことに遺憾に存じます。ぜひ皆さんに特にこの点をお考えおき願いたいと思う次第であります。

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