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皇祖皇宗の遺訓の意味
- 大御心の意味の見解の相違
- 大御心とは:皇祖皇宗の遺訓の中身
- 「国民道徳協会」の教育勅語の意味内容
- 天皇の玉体から発せられた言葉のみが大御心か?
- 天皇の意向に臣民が介入するのは不敬か?
- 保守主義からの「天皇陛下の意志絶対視」説の危惧
- 大御心の判断プロセス図:国民と今上陛下・歴代天皇の関係
- 小林よしのり氏らの疑問への回答:特定方法と正しさの保証は?
- 「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」の前提を踏まえる
- まとめ:現世の国民たる我々が受け入れるべきこと、歴史の物語を共有すること
大御心の意味の見解の相違
「大御心」という言葉は、現代では大きく2通りの理解が流通しています。
おそらく多くの方は
今上陛下の御意向=大御心という理解だと思います。
しかし、八木秀次、新田均、竹田恒泰先生らの理解は異なります。
彼らの大御心についての認識は、竹田先生の示した以下の見解の通りです。
よく「大御心(おおみごころ/天皇の意思)」という言葉が間違って使われているが、大御心とは皇祖皇宗の遺訓に他ならず、今上天皇の個人的な意思のことではない。
葦津珍彦先生は
「天皇の地位が世襲的なものである以上、天皇の意思と云ふのも世襲的なものでなければ意味をなさない」
と仰った。また先生によると、大御心は天皇の個人の意思よりも、遥かに高い所にあり、また大御心とはすなわち日本民族の一般意思であって、時代によって変化する民衆の多数意思よりも貴いという。
したがって、もし天皇がそのような大御心に反する事を仰せになったなら、これは「聞いてはいけない」ということになる。
幕末に孝明天皇から第二次征長戦争の勅許が降りた時、大久保利通が西郷隆盛に宛てた書簡には「非義の勅命は勅命に非ず」と書かれていたことはよく知られている。本来勅命は天下万民が承知してこそ勅命なのであり、この勅命には大義が無いから勅命とは言えないので、自分はこれに従わないというのだ。
この考え方によれば、もし天皇の個人的な御意思と大御心が食い違った場合には、当然大御心を優先させなくてはならないのである。
したがって、大御心とは今上天皇の個人的な意思とは直接関係がないため、必ずしも玉体から発せられる必要はない。よって、皇位継承の問題について大御心を知りたければ、陛下から御言葉を頂戴するまでもなく、日本書紀から続く我が国の正史を読み込めばよい。そこに先人たちが繰り返してきた皇位継承の不変の原理が記されている。そして、その原理こそが大御心なのである。
ここでは
今上天皇陛下の御意向 ≠ 大御心
今上天皇陛下の御意向 ≒ 大御心
このような捉え方もありうるということを示しています。
大御心とは:皇祖皇宗の遺訓の中身
天使の梯子(星峠)© Koichi-Hayakawa Creative Commons — Attribution 4.0 International — CC BY 4.0
それでは、「皇祖皇宗の遺訓」とは何でしょうか?
竹田先生が支持する葦津珍彦先生の見解によれば、
「日本民族の一般意思」
ということですが、その中身は何でしょうか?
天皇の御先祖、つまり歴代天皇の全ての言動に顕れてきた精神
これが含まれていることは間違いありません。
しかし、これだけでしょうか?
この点で非常に参考になるのが教育勅語です。
教育勅語の標準的な訳語とされているのが「国民道徳協会」の訳語です。
こちらの訳語を見てみましょう
「国民道徳協会」の教育勅語の意味内容
明治神宮のHPに掲載されている教育勅語の訳語は国民道徳協会のものを採用しています。
私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
※追記:HPリニューアルにともない口語訳も変更されていますが文意は同じです。
教育勅語において、天皇と臣民は日本国における祖先を持つ存在として、共通の目標をもって行動を共にする存在であるという前提で理解されています。
そして、ここで言う「祖先」は、明治天皇にとっての祖先と、当時の一般日本国民にとっての祖先=一般国民を含むものです。
つまり、天皇も一般国民も、歴代天皇並びに一般国民たる祖先の遺訓を大切にしていきましょう、ということが書いてあるということです。
こうした国家観、天皇と国民の関係ということを前提に、皇祖皇宗の遺訓というものも考えるべきなのではないでしょうか?
こうしてみると、「皇祖皇宗の遺訓」の意味には、歴代天皇の言動のみならず、天皇と共に在った日本国民の言動も含まれていると解されます。
※この点、「それは建前だ」とか、「そもそも訳語がおかしい」という見解もあります。しかし、後述する例からも推し量れるように、私は、両者がいわば共通の土台に立つ存在であるという理解が正当だと思います。
天皇の玉体から発せられた言葉のみが大御心か?
白谷雲水峡・苔むす森 (© 鹿児島県 (Licenced under 4.0)を改変して作成
これに対して、天皇陛下という玉体から発せられた言葉が、すなわち大御心であるという理解があり、次のような指摘がなされています。
今上陛下のお気持ちに従わないで、
「歴代天皇の大御心」に従うとは一体、どういうことか。陛下こそ、紛れもなく「歴代天皇の大御心」を体されて、
この度のお言葉をお示しになったのではないか。それなのに、陛下のお気持ちと歴代天皇の大御心を、
ことさら二項対立的に位置付けようとするとは。極めて悪質かつ危険な「反逆」的思考と言う他ない。
そもそも、軽々しく「歴代天皇の大御心」と言うが、
その具体的な中身は?誰がその中身を“特定”するのか。
その特定の“正しさ”は、何処の誰が保証するのか。
結局、陛下のお気持ちから隔たった、自分らの狭く低く頑な考えを、
あろうことか「歴代天皇の大御心」と言い張るという、とてつもない
不遜に陥るだけ。
ここで、確認しておきたいのは
大御心の意味内容についての判断の出発点が、今上天皇陛下のご意志、ご発言であることは、両者の見解においても間違いないだろう、ということです。
今上天皇陛下のご意向 ≒ 大御心である
取り敢えずはこのような意味であると言う前提で理解をするべきということは、大御心とは皇祖皇宗の遺訓であるとする者においても、大御心とは今上天皇陛下のご意志であるという表現をする者においても、同様であると思われます。
問題は以下の2つの対立であるということです。
- 今上陛下の発言が100%歴代天皇の大御心を体現されているとして絶対視するか
- それとも、今上陛下でさえ、大御心を十分に体現できていない可能性を排除せず、国民が叡智を探る努力をするのか否か
これについては、皇室についての専門家が集まって討論した、下記の番組での各々の発言から検討していきます。
天皇の意向に臣民が介入するのは不敬か?
チャンネル桜の番組内で、新田均教授が以下指摘していたことがあります。
(動画は削除されたので日時不明になりました)
神話的なお話をさせて頂くと、天皇陛下が仰ったからと言って、「はいそうですか」と国民が従ってきませんでした。
例えば、天照大御神が天岩屋戸(あまのいわやと)に隠れたいとおっしゃったときに、「はいそうですか」ってみなさんいいましたか
出て来ていただかなければいけないといって、お祭りして、つまり、天照大神の意志を無視して引っ張り出したのが神話のお祭りの始まりですから
そういうのを考えて頂くと、天照大神の意志も無視しましたねと
それから、今の神宮は、同床共殿の神勅からは相いれないので、
でもそれは事実として続いているということを考えると
よりよい国の形とはいかなるものであるかということを臣下と天皇陛下が共に考えたのが我々の国であるということを確認したい
「しかし、これは「神話」の話ではないか?」と言う疑問が出てくるかもしれません。
しかし、国士舘大学の藤森馨先生の発言の、かつての政治体制についての言及として以下発言がありました。
昔の詔(みことのり)だったら、はっきり言って 太政官の会議で、戻されちゃって、ダメですよと言われたらもう出せないですよ。
全員の署名をもらわないとダメ。
かつてはこのようにして太政官制が敷かれていた時期があり、天皇の権力が制限されていたということです。
太政官制というのは、主に天皇の執政を補佐するために設置された機関です。
このこと自体は、何も天皇が傀儡政権だったということを意味するものではなく、天皇と国民が一体となって国の政を行ってきたということです。
まぁ、これはケースバイケースで、傀儡だろうということはあったかもしれませんね。
天皇を他国の皇帝とその家来のような関係でとらえようとすると、上記の場合に傀儡である、という評価になってしまいますが、日本の場合は異なります。
もちろん、太政官制を敷かずに天皇が執政を行っていた時期もあり、何か特定の「正しい」制度が存在しているということではないのです。
保守主義からの「天皇陛下の意志絶対視」説の危惧
エラそうに「保守主義」とか書いてますが要は
人間の不完全性を認識していますか?ということです。
どのような人間であっても、一人の人間が持ちうる能力は不完全であり、限界があります。
その限界の認識によって、我々が他人の知識を最大限利用して発展してきたという事実があります。
皇統の問題を考えるにあたっても、一世代の個人が考えることは限界があります。
そのような「理性」による奢りを戒めるためには、幾世代もの人間が積み重ねてきた「伝統」を守ることを基軸に考えなければならない。
これが保守主義であることに他なりません。
これは、今上陛下が信用できないということではありません。
もう一度確認すると
「今上陛下のご意志 ≒ 皇祖皇宗の遺訓を汲み取ったものである」
一応はこのような前提で陛下の言葉を受けとめるという姿勢は、変わりありません。
ただし、「≒」が「=」であると即断するのは、今一度慎重になるべきということです。
大御心の判断プロセス図:国民と今上陛下・歴代天皇の関係
かなり観念的で、大雑把な図ですが、竹田先生らの理解は以下と思われます。
矢印の太さは、 判断の重点をどこに置くのか、という意味を込めました。
全ての矢印が双方向であるべきかはわかりませんが
少なくとも国民と今上天皇陛下の間は双方向の矢印をあてるのが適切と思います。
- 今上天皇陛下の大御心βを介して、間接的に大御心αを探る
- 直接大御心αを探る
国民は これらの作業をこの順番で行うことになります。
ここには、天皇と国民の間に信頼関係があるということになります。
一方、今上天皇陛下の意志 = 即、「大御心」=皇祖皇宗の遺訓とする見解は以下です。
国民は、今上天皇陛下を介してのみ、「大御心」を知覚します。
ここでは、今上天皇陛下の「大御心」と、皇祖皇宗の「大御心」が食い違うということは(ほぼ)あり得ないという前提に立っています。
さてどちらの図の方が、教育勅語と世界観が近いでしょうか?
この問い自体にも批判はありえると思いますが
もちろん、答えはこれだ!と断定する気は毛頭ありません。
小林よしのり氏らの疑問への回答:特定方法と正しさの保証は?
小林よしのりらの疑問は、それ自体はもっともなものであり、真摯に対応しなければなりません。
1:誰がその中身を“特定”するのか。
2:その特定の“正しさ”は、何処の誰が保証するのか。
1:誰が大御心の中身を「特定」するのか・その時代に生きる者の客観的判断か?
彼らの見解によれば、今上陛下の「心の内」が大御心であるという理解ですから、他人である国民がそれを「特定」できないはずである、という危惧を持つことは当然です。
しかし、これまでに示したように、我々は一個人の心の内を問題にしているのではありません。
歴史的事実に顕れている皇祖皇宗の遺訓=大御心が何かを判断しているのであり、それは客観的な事実から求められるものですから、「特定」が不可能ということはありません。
ただし、一人の人間が「特定」するわけではありません。
例えば、直近で議論された譲位の制度についても、「有識者会議」と、「両議院の与野党協議」という2つのチャンネルからの意見集約を行いました。
そして、それぞれの議論において、参考人として様々な学者を呼び、意見を伺ってきました。
このような形で、多数の国民が大御心を「特定」してきたのです。
そこには、特定の主体たる「誰か」など存在しません。
敢えて言うとすれば
「現代に生きる者であって、皇祖皇宗の遺訓を真摯に参照してきた多数の国民」
このように言えます。
2:「特定」の正しさは誰が保証するのか?
では、そうやって決めたことが正しいのかは誰がわかるのか?
はっきり言います
正しいかは誰にもわかりません。
私達は全知全能ではないのです。それは今上陛下も同様です。
誰かが「正しい」と保証してくれるものでなければ行動できないのであれば、そもそも国会は不要ですし、議会制民主主義という制度そのものも無意味になります。
私達がやっていることは、「これならおそらく間違いの可能性は低いであろう」という性質のものなのです。
何か「明確な正解」がどこかにあって、それを採用する、というような類の営為ではないのです。この種の議論において正解があるという前提で行動する者は、 歴史の発展段階を観念し、あらかじめ想定された未来に向かって思考する共産主義者、設計主義者と全く同じ行動形式であるということに気づかなければなりません。
そして、2の問いについては、そっくりそのまま、小林氏の見解を持つ者に対しても投げかけられるものです。
「一体誰が、どうやって今上陛下の「大御心」が正しいのかを保証するのか?」
「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」の前提を踏まえる
日本最大の高層湿原性浮島のある乙和池(佐渡島) © Yoshiyuki_Ito Licenced under CC BY 4.0
この部分は、上述の検討を踏まえた、純然たる私の論評です。
さて、今上陛下(現:上皇陛下)が平成28年にお示しになった譲位の意向(象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば)について、どう考えるべきでしょうか。
陛下は「個人として」という枕詞をつけました。
このことの意味が何なのか、はっきりいって断定することはできません。
しかし、これまでに示してきたことから察すれば、「おことば」をどのように受け止めればいいかということは、おのずと明らかになるのではないでしょうか?
これが私の見解です。
明確なことをここで言及することは避けます。
が、おそらく設計主義者ではない方は、なんとなく、私と全く同じものではないにしろ、少なくとも大枠において同じ方向性の見解を持つことになるのではないかと思います。
設計主義者や共産主義者、全体主義者には到底理解し得ないものがそこにはあります。
まとめ:現世の国民たる我々が受け入れるべきこと、歴史の物語を共有すること
ここまで偉そうなことを書いてきましたが
私自身には、大御心を探ることのできる能力はあまりないと思います。
その代わりに、八木秀次、新田均、竹田恒泰先生らの知見を参考にしています。
彼らにおいては、大御心が何かを探る能力が一定程度あるはずです。
ただし、彼ら自身、断定することには慎重な姿勢でいるということにも注意しなければなりません。
彼らの発言には頼りたくない、という場合でも、何より教育勅語(とその訳語)などの皇室にまつわる教えや伝統そのものが判断材料になりうると思います。
最終的には、国民と天皇・皇室の関係という世界観に依拠するのだと思います。
難しい理論を学ぶことは、私は、必須ではないと思います。
私達が依拠するべき物語は何であるべきなのか。
その物語を探し、共有すればいいのだろうと、私は思います。
以上