事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

「レズビアンの李琴峰はトランスジェンダー」はデマなのか?『女性自認の身体男性』は否定

彼女自身の言葉遣いの連立方程式を解くとそうなる

李琴峰「滝本太郎による『女性自認の身体男性』はデマ」

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芥川賞作家の台湾人である李琴峰 氏が「滝本太郎による『女性自認の身体男性』はデマ」という指摘をしています。滝本弁護士はこれを受けてXの投稿を削除しています。

これに関連して、「李琴峰はトランスジェンダー」という言説があり、これについても彼女が否定していることを見つけました。

ただ、彼女の発信を丹念に追っていくと、彼女自身の発言によって、「李琴峰はトランスジェンダー」と必然的に言えてしまうのではないか?という疑問が出てきました。

「レズビアンの李琴峰はトランスジェンダー」はデマなのか?

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考えれば、私は確かに色々な「真ん中」の属性を持っている。それは紛れもない事実である。日本語非母語話者、在日外国人、台湾人、規範的なジェンダーからの逸脱者

まず、李琴峰氏は自身を「規範的なジェンダーからの逸脱者」としており、各所でレズビアンを自称しています。

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「規範的なジェンダー≒ジェンダー規範」は、特定のジェンダー(社会的性別)に与えられる規範のことです。言い換えれば「特定のジェンダーの理想像」です。「女性であれば男性と結婚し、子供を生み育て、家事をこなすべきだ」といった「規範」こそが、「ジェンダー規範」なのです。言うまでもありませんが、私の人生はそんな古臭い規範をことごとく打ち破ってきました。そもそも異性愛者であることが当たり前だとされている社会の中で、法制度などにおいて同性愛者の存在がまったく想定されていない社会の中で、レズビアンであることそれ自体が「規範からの逸脱」だとされているわけです。したがって、レズビアンの私が自分自身をそのような語句で描写するのは何も間違っていないし、ましてや「自分はトランスだ」と「示唆」しているわけではありません。

ここまでが彼女が自身に関して明示した性向です。

では、「トランス」に関してはどう考えればよいでしょうか?

李琴峰紹介の「トランスジェンダー入門」が採用する国連の定義とその変遷

https://archive.md/S9jud https://archive.md/98CJF

李琴峰は、周司あきら・高井ゆと里の共著である【トランスジェンダー入門】を読んだ上で紹介し、刊行記念イベントに登壇するなど、その内容について賞賛する立場を取っています。

では、そこでは「トランスジェンダー」はどのような意味で使われているのか?

 アンブレラタームとしてのトランスジェンダー

 もう一つ、これまでとは違った角度からもトランスジェンダーという言葉を説明してみます。

 冒頭から繰り返し見てきた「割り当てられた性別」とジェンダーアイデンティティが異なる人」という定義は、自分自身をどう実感ないし経験しているかに焦点を当てた説明です。ようするに、個人の自己認識を重視した定義です。

この説明は一般的な「トランスジェンダー」の定義として行政含めた各所で見られるものです。しかし、次節以降では、これよりも広い意味内容があるということを明示しています。

 しかし、そうしたジェンダーアイデンティティの概念が誕生し、流通する以前から、「トランス的な」人たちは存在していました。例えば現代の私達にとって、「女装をしている男性」と「トランスジェンダーの女性」は別ものです。後者の人にはある、女性としてのジェンダーアイデンティティが、前者の人にはないからです。しかし、そうした概念や発想が一般的でなかった時代を生きていた当人たちにとって、その二つを厳密に区別することにはほとんど意味がないかもしれません。実際のところ、「女装」して日常生活を送れることで「男」としての生活を手放し、今でいう「トランス女性」的な境遇に置かれつつ生きてきた人たちが、日本にも多く居ます。

 結果としてそうした人たちは、ジェンダーアイデンティティ概念に基づく(現代的な定義の)トランスジェンダーの人たちと同様の状況に置かれ、「トランス差別」を受けることがあります。

 このとき、そのように同じ差別の雨に打たれている人々が集まる傘(アンブレラ)として、「トランスジェンダー」という言葉が使われることがあります。それが、アンブレラタームとしてのトランスジェンダーです。

アンブレラタームとしてのトランスジェンダーの中には、いわゆるクロスドレッサーと呼ばれる女装者・男装者も含まれる、ということを明示しています。同書ではさらに以下続きます。

このときトランスジェンダーとは、割り当てられた性別に期待される姿で生きることをしない人々を幅広く包摂する言葉になります。これは現在では国連などでも採用されている用法ですが、この用法に従えば、その人のジェンダーアイデンティティを問わず、振る舞い方や服装が(狭く期待される)典型的な女性・男性の枠からはみでている人たちが、広くトランスジェンダーと呼ばれることになります。

ここには「身体違和を有する」「心の性と身体の性が一致していない」といった前提がありません

割り当てられた性別(女)に期待される姿(振舞い方)が、典型的な女性の枠からはみ出ている人」の言葉上の意味として、規範的なジェンダーからの逸脱者としてのレズビアンはそこに含まれることになるということは自明です。

そのため、彼女もこの「定義」(固まったものではないが一応のものとして)を許容していると解される以上、「レズビアンの李琴峰はトランスジェンダー」という指摘は、彼女の言葉や態度を是認した上での当然の言及、ということになります。

彼女自身がトランスジェンダーの定義について言及する文はありますが、そこでは「定義をすることに意味はあるのか?」という態度であり、参考になりません。

なお、国連のHPにあるトランスジェンダーの定義は変遷しています。トランスジェンダー入門が依拠した定義は現在のものではなく2021年頃に確認できるものと考えられるので、当時の記載を引用した以下のページを置いておきます。*1

国連のトランスジェンダーの定義。クロスドレッサーの誤読に注意。 - Anno Job Log

「李琴峰はトランスジェンダー」は活動家界隈の曖昧な用語法に帰責される

【支援者募集】滝本太郎によるデマ・名誉毀損・セクハラを告発します|李琴峰

滝本太郎による前述のデマは、トランスヘイターどもが流布していた風説に依拠したものだと思われます。
 
 この「李琴峰トランス説」は、どうやら一部のヘイターどもによってかたく信じられているようです。ここまで読んだあなたも知りたがっているのかもしれません。「で、李琴峰は本当にトランスなの?」
 
 私はそんな興味本位の質問に答えるつもりは全くありません。そもそもセクシュアリティというのは個人のプライバシーの中核をなす機微な個人情報です。

 論理的に考えてみてください。私はこれまで、一度も自分のことをトランスジェンダーだと言ったことはありません(まあ、シスジェンダーだとも言っていないけれどね)。

結局のところ、「李琴峰はトランスジェンダー」という言説が生まれるのは、その言及の仕方如何によるが、LGBT活動家界隈の曖昧な用語法や彼女自身の用語法に帰責される面がある、ということになります。

しかも、彼女自身、「シスジェンダーだとも言っていない」などと自分から疑惑を生み出している。たとえば「私は童貞・処女じゃないとも言っていない」などと言っている人間に関して「あの人は童貞・処女だ」と言う事は、その下品さはともかくとして、赦されざる感情の侵襲だとは言わないでしょう。

そもそも、李琴峰のこの主張、おかしいですよね。彼女がトランスじゃないなら「李琴峰はトランスだ」と言ってる連中って「トランスヘイタ―」じゃないですよね?

この状況は真偽不明なので、原理的に「アウティング」は不可能ということになります。*2

「アウティング」という言葉の意味の外縁を無顧慮に広げ或いはぼやかそうとするのは、その意味内容を稀薄化させて意味を消失させます。無根拠な推知や推知する対象による話題の下劣さを指摘するのは別として、言葉の意味をインフレ或いは曖昧化させようとしている者が、その影響が自らに及ぼうとするとそこから逃れようとするのは見苦しいなと思います。

少なくとも、『女性自認の身体男性』『法的女性ではない』というのは本人が否定しているので、そこは認めてあげるべきですが。

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*1:「クロスドレッサー」の中に「オートガイネフィリア」が含まれるというのは誤りだ、とする論稿ですが、当時の国連の定義を見る限り明示的には排除されていない

*2:なお、一橋大学院の自〇者が出た事件は一方的に本人が曝け出しているので、アウティングの事案ではない