新潮45の十月号では小川榮太郎氏の記事が大炎上しました。
その理由の一つは、彼の文章が「多義的に解釈できる余地がある」からだと思います。
ここでは私の身に実際に多義的な解釈ができる文章(ツイート)による喜劇が起こったので、その紹介をしつつ、多義的な文章について考えていきます。
- 新潮45における小川榮太郎氏のSMAGとLGBTの対比
- 多義的なツイートがもたらした誤解
- 多義的でもなんとかなった
- 意図的に構築する多義的な文章
- "They're evil"は褒め言葉か?
- 多義的な文章は悪なのか?
- 小説・物語の世界における多義的な文章
- 読者との対話
新潮45における小川榮太郎氏のSMAGとLGBTの対比
小川氏は「SMAGとは何か。サドとマゾとお尻フェチ(Ass fetish)と痴漢(groper)を指す。私の造語だ」とした上で、LGBTが制御不能な属性であるがゆえに社会が保障するべきであると言うのならば「満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。……彼らの触る権利を社会は保障すべきでないのか」と書いています。
この部分が大炎上していますが、小川氏はSMAGのうちのG=痴漢行為とLGBTを「犯罪性のあるもの」として対比しているのではなく、政策判断においては『主観的主題に過ぎず、概念規定が無意味なもの』として対比しています。
しかし、一見すると「犯罪性のあるもの」として対比しているかのようにも読めてしまう余地があるので、好意的に見ても痴漢を持ち出した点は良くなかったのでは?と思います。
より詳しい説明は以下で書いています。
ただ、本人が意図的に多義的に捉えられるように書いている可能性もあります。
そういう多義的な文章は基本的に良くないよね、ということと、常によくないのか?ということについて書いていきます。
多義的なツイートがもたらした誤解
奇しくも小川氏を話題にしたツイートで、それは起きてしまいました。
新潮45を実際に読んでみると、こういうアカウントが如何に曲解した内容を伝播しているのかに気づきますね。小川榮太郎さんの記事は、こういう読解力の無い輩を炙り出してくれる。 https://t.co/BAmbyZLWvh
— Nathan(ねーさん) (@Nathankirinoha) September 20, 2018
「AI vs教科書が読めない子供たち」はすなわち、読解力の無いまま大人なった人たちも多数ってことですね。国語力の低下が国を壊すよ。誰がこんな教育レベルにしたんか?
— ううささ (@UuuSasa) September 20, 2018
教育の問題だったら、私もこの人と同じようなこと書いてますよ。
— Nathan(ねーさん) (@Nathankirinoha) September 20, 2018
さて、3つ目の私のツイートは、どういう意味だと思いますか?
- 教育の問題についての記事なら、私も過去にこの人と同じ内容のことをブログに書いていますよ
- 読解力の無さが教育の問題に起因したものであると仮定すると、私も同じような教育を受けてきたことになるので、この人と同じようなことを書いていたハズですね(教育の問題ではないのではないか)
他の理解もあるかもしれませんが、ひとまずはこの2つを提示します。
多義的でもなんとかなった
続き
読みたいので、リンク教えていただけますか?
— ううささ (@UuuSasa) September 20, 2018
この辺で私は違和感を覚えました。
「ん?新潮45をネットで読むのかな?いやぁ、無料公開していないから、たぶん購入したいという意味だろう。でも、アマゾンとか楽天で検索すれば出てくるよなぁ?なんでリンクを求めるんだろ?」
取りあえず以下の返信をしました。
私が見たのは紙媒体です。デジタルで無料公開はしていないようです。購入等ならこちらですhttps://t.co/dMXCTlobiF
— Nathan(ねーさん) (@Nathankirinoha) September 20, 2018
しかし
!教育の問題について、あなたが書かれたものの方ですw
— ううささ (@UuuSasa) September 20, 2018
ごめんなさい。
— Nathan(ねーさん) (@Nathankirinoha) September 20, 2018
このツイートの意味は、過去形ではなくて仮定形です。
私が何か書いたのではなく、仮に教育の問題なら私がそういう教育を受けて、彼と同じようなツイートを書いていたであろう、という話でした。誤解招いてすみません。https://t.co/zhvANwYC3w
いや、本当に申し訳なかったです(笑)
ということで、私が意図したのは2番目の意味でした!
だからこそリンクを貼ってしまったのです。許して。
しかし、ううさささんにとっては1番目の意味に解釈したということです。
- 教育の問題についての記事なら、私も過去にこの人と同じ内容のことをブログに書いていますよ
- 読解力の無さが教育の問題に起因したものであると仮定すると、私も同じような教育を受けてきたことになるので、この人と同じようなことを書いていたハズですね(教育の問題ではないのではないか)
明らかに2番目は多くの事項を補足しているということが分かります。1番目は、元のツイートの文言からそんなに離れていません。
おそらく、多くの方は1番目の理解をするのかな、と思いました。
こういう文章は、説明する文章、会話文としてはダメダメな文章ですね。
意図的に構築する多義的な文章
他方、小説などを読むとしばしば目にするように、重層的な意味を含める文章というのは存在していますが、意図的に行うには書き手の力量がなければできません。多義的な文章というのは、文脈によって評価が変わるということは補足しておきます。
「住民の苦難あるところ共産党あり」
— Nathan(ねーさん) (@Nathankirinoha) September 18, 2018
魚拓:https://t.co/0GQQxXsRGQhttps://t.co/IDfT78YuKM
このツイートは、意図的に多義的に書いてます(笑)
"They're evil"は褒め言葉か?
さっきは私が誤解させた例でしたが、次は自分が誤解した例。
Japanese snack technology is out of control. This is a hard chocolate plate perfectly surrounded by ice cream coated in more chocolate, then embedded in a spongy WAFFLE. How do you even. I can't. pic.twitter.com/QJ6qj4BFXX
— Bear Conditioning (@aphyr) September 15, 2018
このツイートは日本のモナカを神のように崇めて絶賛しています(笑)
それに対する返信
Just get an It’s-It ice cream sandwich. They are so good, they’re evil. pic.twitter.com/zsVN2WUB1T
— Lea Conner (@leaconner) September 15, 2018
"They are so good, they’re evil. "
"evil"は「悪魔の」という意味ですが、文脈からしてたぶん、褒める意味で使ってるのかなと思いました。
I'm from San Francisco and I agree they're great
— Bear Conditioning (@aphyr) September 15, 2018
ただ、Bear Conditioningさんがすんなり理解したとは思えず、たぶん英語圏で一般的に通用している言葉の遣い方ではないのだろうと思いました。
「やば過ぎ」みたいな意味なのかな?"evil"って。 https://t.co/bZn4Y7VRli
— Nathan(ねーさん) (@Nathankirinoha) September 18, 2018
神ってるの逆バージョンですかね
— 柳原 直一 (@parfaitetou) September 18, 2018
「やばい」はもともと「悪い意味」で使われてきましたが、10年くらい前から「凄い」という賞賛の意味で使われる例も出てくるようになりました。「適当」と「テキトー」も似たような感じですよね。
柳原さんのツイートに対して 「良い意味」なのか「悪い意味」なのかという意味合いで、「逆バージョン」と言っているのだろうか?と少し思ってしまったので、以下ツイートしました。
これ、文章がthey're goodの後に付け加えられてるんで、良い意味合いで使ってるんじゃないかと思うんですよね。
— Nathan(ねーさん) (@Nathankirinoha) September 19, 2018
でも、一般的にそういう使われた方がなされてるかというとよく分かりませんね。
あごめんなさい、私としてもそういう意味ですw
— 柳原 直一 (@parfaitetou) September 19, 2018
だから逆バージョンじゃないすね、神ってるの悪魔バージョン的な
なるほどなぁと思いました。
英語の理解を考察しているツイートに対する日本語の理解を私がミスるという(笑)
多義的な文章は悪なのか?
日常的な文章ですらこうして小さいながらも誤解が生じるのですから、文章を書くというのは難しいですね。
ましてや論述の文章であれば、誤解する者が出てくるのもなおさら。
それを「読者の読解力」のせいにしてはいけないと思うのです。
ただ、意図的に多義的な意味を持たせたり、意図的に読解を誤らせる「仕掛け」を文章に施しながらも、しかし客観的に見れば一つの意味に捉えるのが妥当であるという構成にしているというのならば、その文章構成自体については文句は言いません。
そのような文章によって誤解されることによる危険性は書き手が引き受け、そのような誤解を「おもちゃ」にしてもてあそぶのもいいでしょう。
いつから
一体いつから、一義的に解釈が決まる文章のみが正しいと錯覚していた?
確かに私たちがビジネスの世界で見る文章は、一義的に解釈が決まるように書かれます。そうでないと、お互いの意思疎通ができないからです。契約書の文言の解釈に齟齬があると、最悪の場合は訴訟になります。ですから、一つの文章の意味は一つであるべき、というドグマ(教条)の中で、私たちは生活しています。
ビジネスに限らず、何らかの論評を行う文章のほとんども、一つの文章の意味が一つになるようにできています。ハウツー本やエッセイのほとんどは、多義的な意味を含めるという手法が採られていることはありません。伝えたいことは明確で、それを伝える際に誤解があってはならないからです。
小説・物語の世界における多義的な文章
しかし、小説など物語の世界に行くと、たちまちそのような価値判断の基準は消え去ります。一つのセリフまわしに複数の意味を込めるということは、むしろ味わい深い文章として評価が高くなることさえあります。
裏に秘められた意味を発見したときに脳汁が出た経験がある人は、多いと思います。
少しマニアックな話に入りますが、「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」第一話冒頭で少佐=草薙素子(設定ではバイセクシャル)がテロ未遂犯に対して拳銃を突きつけながら有名な以下のセリフを言います。
「世の中に不満があるなら自分を変えろ。
それが嫌なら耳と目を閉じ、 口をつぐんで孤独に暮らせ。
それも嫌なら・・・」
拳銃を突きつけながらなので、「それも嫌なら…」のあとは「終焉」のイメージがまず湧き起ります。
しかし、物語が進むと、本作品の核心的な人物である「笑い男」は 「耳と目を閉じ、口をつぐもうとした」と言いながら、ある事件を起こします。社会を変える方向に行動したということです。
そして、冒頭のセリフは後に草薙や彼女が属する公安9課自身にも突きつけられます。
作品中では、「笑い男」の心理を描写するためにJ・D・サリンジャーの"The Catcher in the Rye"の一節を登場させます。青春小説の古典的名作ですが、一番有名な邦題は「ライ麦畑でつかまえて」です。
これも、多義的な要素が含まれている邦題です。他の邦題は「ライ麦畑の捕手」とかもありますが、今見ると「センスねぇな」と思ってしまいます(「ライ麦畑でつかまえて」がセンスの塊なので、どうしてもそう思ってしまう)。
個人的には"Rye"も似た音の別単語を想起させているのではないかと思っています。作中では主人公のホールデンが「インチキなもの」に対する嫌悪感を語っているので。それは攻殻機動隊の「笑い男」も同様です。
冒頭の少佐のセリフが完結していたら、味気ないシーンで終わっていたと思います。
読者との対話
先ほどの部分は作品を知ってる人じゃなければまったく意味不明だとは思いますが、一部でもいいので伝わればいいと思います。
この記事自体、途中から明確に伝える文章から「わかりみ」を汲み取ってもらう文章に切り替わっています。
小川榮太郎氏は文学が畑のようですので、新潮45の記事においても多義的な文章を意図的に組み込んだ可能性はあります。そのような文章は一方的な「伝える」ではなく、「読者との対話」を生み出すのだろうと思います。
そうした読み方に切り替えてみると、あの大炎上した記事も、もしかしたら味わい深いものとして捉えられるかもしれません。そのためにはやはり、ネット上で出回っている「切り取った一節」に脊髄反射するのではなく、記事全体を読むべきなんだろうと思います。
「いや、社会問題についての論評なんだから多義的な文章であってはならない」というのであれば別でしょうが。