事実を整える

Nathan(ねーさん) ほぼオープンソースをベースに法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

憲法学者の曽我部真裕教授の記事がデタラメ:トリエンナーレ表現の不自由展に関する言論

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弁護士ドットコムで京都大学大学院法学研究科の曽我部真裕教授(憲法)があいちトリエンナーレの表現の不自由展に関する言論について語る記事があるのですが、内容がかなりおかしいので指摘します。

弁護士ドットコム「公金支出はおかしい」が明確に不適切?

少女像展示中止、市長や官房長官の発言は「憲法違反」なのか?京大・曽我部教授に聞く - 弁護士ドットコム

●「明確に不適切だ」と考えられる意見
今回の中止騒動をめぐっては、さまざまな意見があり、それぞれもっともだと思うものも多くありますが、他方で、明確に不適切だと考えられる意見が散見されますので、今後のための教訓として、確認しておきたい。代表的なものとして、次の(1)〜(5)があります。

(1)「今回の展示によって、自治体がその内容に賛成したことになる」「反日的な展示に公金を投入するのはおかしい」

あいちトリエンナーレは、県や市が入った実行委員会が主催し、公立美術館等で開催される芸術祭ですが、一般に、このような展覧会であっても、専門家が芸術的な観点から企画したものであれば、国・自治体はそれを尊重すべきだというのが、表現の自由論の一般的な理解です。公立図書館で、どのような書籍を購入するのかが、専門家である司書に委ねられるのと同じ理屈です。

これはおかしい。

司書の決定は公的機関たる図書館としてのもの。

それとパラレルに論じるのであれば、津田の決定も実行委員会のものです。
津田大介はトリエンナーレ実行委員会から職務の委嘱を受け、実行委員会に属している事を公言している

曽我部教授の論だと、表現の自由を行使してるのは津田大介になるが、それは実行委員会であり、実質的に公的機関たる愛知県になってしまうんですが。

それは表現の自由だから尊重されるのではなく、単に機関としての手続を踏んだ判断だから尊重されるのですが。

トリエンナーレ表現の不自由展は表現の自由論の話なのか?

曽我部教授が美術館ではなく「公立図書館」を例に出したのは、船橋市立西図書館蔵書廃棄事件を念頭においてると思われますが、当該事件の最高裁は以下指摘しています。

最高裁判判決平成17年7月14日 平成16(受)930

公立図書館が,上記のとおり,住民に図書館資料を提供するための公的な場であるということは,そこで閲覧に供された図書の著作者にとって,その思想,意見等を公衆に伝達する公的な場でもあるということができる。したがって公立図書館の図書館職員が閲覧に供されている図書を著作者の思想や信条を理由とするなど不公正な取扱いによって廃棄することは,当該著作者が著作物によってその思想,意見等を公衆に伝達する利益を不当に損なうものといわなければならない。そして,著作者の思想の自由,表現の自由が憲法により保障された基本的人権であることにもかんがみると,公立図書館において,その著作物が閲覧に供されている著作者が有する上記利益は,法的保護に値する人格的利益であると解するのが相当であり,【要旨】公立図書館の図書館職員である公務員が,図書の廃棄につい
て,基本的な職務上の義務に反し,著作者又は著作物に対する独断的な評価や個人的な好みによって不公正な取扱いをしたときは,当該図書の著作者の上記人格的利益を侵害するものとして国家賠償法上違法となるというべきである。

これは「表現の自由にかんがみると」と言っているに過ぎず、認められたのは「著作物によってその思想、意見等を公衆に伝達する利益」が法的保護に値する人格的利益だということであって、表現の自由によって図書館に作為を請求できるとしたものではありません。

もっとも、憲法学界では本来防御権(公権力から制限を受けないという意味において保護される)に過ぎないとされた表現の自由という権利を、政府による給付(援助)の撤回の場面でも保障する道としてパブリックフォーラム論等の理論を介して実現しようと試みてきた流れがあります。

憲法学者である曽我部教授がこれを表現の自由の問題として論じることには違和感はないですが、曽我部教授が念頭に置いていると思われる判例は表現の自由の問題として扱ってはいないということです。

政治家による表現の自由は許されない?

少女像展示中止、市長や官房長官の発言は「憲法違反」なのか?京大・曽我部教授に聞く - 弁護士ドットコム

2)「政治家が批判するのも『表現の自由』だ」

今回、政治家が展示を批判しましたが、その批判そのものを「表現の自由」であるとして正当化する議論が見られました。しかし、これは不適切です。

もちろん、純粋に一私人としての発言であれば自由ですが、政治家には法令上の権限や事実上の大きな影響力があり、展示に対して大きな圧力となります。一私人としての発言と政治家としての発言を区別することは困難です。

「政治家」という漠然とした括りでものを語ってるが、一番意味不明。

本当に曽我部教授はこんなことを言っていたのでしょうか?

たとえば北海道夕張市の市議がこの問題について批判したら、「圧力」なんですか?

そんなわけないでしょう。

政治家が批判すれば表現の自由に対する侵害だ、なんてことを言っている憲法学者なんて存在しないはずです。弁護士ドットコムの記事担当者が情報を削ぎ落し過ぎた可能性を疑うんですが。

「法令上の権限や事実上の大きな影響力があり」ということを考えれば、この話で唯一当てはまるのが大村知事と河村市長でしょう。

河村市長は名古屋市長としてトリエンナーレ実行委員会の会長代行であり、政治家であっても実行委員会の内部の人間として、組織判断を仰ぐことができなければおかしい。

なお、菅官房長官が文化庁の補助金について語ったことが「圧力」だと言う向きがありますが、この補助金は事業実施後に報告書が提出され、その審査後に最終的に交付されることになっているので、菅官房長官の「事実関係を精査して適切に対応」というのは当たり前のことを言ってるに過ぎません。

これを「圧力」とするのは認知が歪んでいます。

定義のある「検閲」は拡大解釈、不確定の「ヘイト」はそれを許さないダブルスタンダード

少女像展示中止、市長や官房長官の発言は「憲法違反」なのか?京大・曽我部教授に聞く - 弁護士ドットコム

4)「(展示は)日本人に対するヘイトスピーチだ」

これは、ヘイトスピーチの概念をあまりにも拡大するものです。ヘイトスピーチという用語が独り歩きする危険が、以前より懸念されていましたが、まさにそれにあたると言えるでしょう。

この点は「日本人に対する」という所は私も同意です(規制を前提とする法的な用語とするには対象があまりにも広いということ。素朴な言葉として「日本人への侮蔑である」と言うべきとは思う)

しかし、その前段にこのような事を言っています。

「検閲」は善意解釈の拡大解釈・ヘイトスピーチはダメ、という理屈

少女像展示中止、市長や官房長官の発言は「憲法違反」なのか?京大・曽我部教授に聞く - 弁護士ドットコム

(3)「市長や官房長官の発言は『憲法21条2項』で禁止されている検閲だ」

河村市長や官房長官は中止させる権限を持っているわけではなく、実際にも中止の理由は、市民の抗議が度を越した状態になったということなので、決定的な理由となったわけではなく、憲法でいうところの「検閲」にはあたりません。

ただし、不当な介入だという程度の意味で「検閲」だというのであれば差し支えはありません。

おかしいですよね。だったら「ヘイトスピーチ」も、「著しく憎悪的・悪罵的な表現だ」という程度の意味だというのであれば差し支えないハズなんですが。

憲法21条2項の「検閲」は、判例でその定義が明確に示されています

その定義では対象が狭すぎるという批判があるのは確かですが、とにかく固まった意味が存在しています。

対して、「ヘイトスピーチ」は未だ公的・法的な定義が示されたことがありません。

いわゆる「ヘイト規制法」と言われる「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」でも「ヘイト」や「ヘイトスピーチ」を定義しているわけではありません。

直訳すれば「憎悪表現」であり、そもそも対象が非常に広い用語です。

「検閲」は拡大解釈をし、「ヘイトスピーチ」は拡大解釈を認めない、そんな態度はダブルスタンダードでしょう。

検閲を拡大解釈する不都合

ちなみに、「検閲」を拡大解釈していくと、以下のような例も「検閲」と言われてしまいます。「チェックする主体が国家権力じゃない」とか言うんでしょうけど。

「表現の不自由」あいちトリエンナーレが「記事検閲」 — オルタナ: ソーシャル・イノベーション・マガジン!「オルタナ」1

「あいちトリエンナーレ」のウェブサイトで「プレス向け」ページには下記の記述がある。
「企画内容によってはご要望に沿えない場合もございますので、あらかじめご了承ください」
「誌面掲載、番組放送前に原稿を確認させていただいております。必ず校正段階での原稿・映像等を事前に広報専用メールへご提出ください」
こうしたメディア側への要請は、「検閲」と取られても仕方ない。

しかし、これは通常の対応だと言います。

「表現の不自由」あいちトリエンナーレが「記事検閲」 — オルタナ: ソーシャル・イノベーション・マガジン!「オルタナ」2

芸術新潮編集部によると、「こうした要望はよくある。クレジットなど事実関係で不備があるといけないので、それは見せるが、内容に注文をつけられても応じない。事実関係の理解でこちらが間違っていれば直す」という。

著作権者は誰か?という点は非常に重要なので、そこにミスがあったら作者の不利益になります。紙媒体の文書とは異なり、展示品については作者が誰なのかが分かりにくいですから、その部分のチェックがあるというのは双方のリスクを下げる行為でしょう。

市民の抗議を自粛するよう求める表現の自由戦士()

少女像展示中止、市長や官房長官の発言は「憲法違反」なのか?京大・曽我部教授に聞く - 弁護士ドットコム

●「市民に節度を求めるほかはない」

ただし、SNSによって情報が広まる今日では、かつてよりも容易に抗議活動の輪が広がりやすくなっています。1つ1つは穏当な態様・内容のものであっても、多数あつまると大きな圧力になります。この点は、市民に節度を求めるほかはありません。少なくとも、積極的に煽るような行為は控えるべきでしょう。

「表現の萎縮効果」をもたらす言論なんじゃないでしょうか?

憲法学の大学教授という権威がこんな事を言うんですよ?これこそ市民に対する圧力なんじゃないですか?なーんてね。

そもそも、1人1人の言論では力がなくとも、意見が世の中に流通することで力を生むのが表現の自由が保障されていることの意義であって、民主主義社会の基本ではないですか?

なぜそれと逆行することを言うのでしょうか?理解に苦しみます。

まとめ:曽我部教授は表現の自由を守ろうとしてるのか?

曽我部教授は表現の自由を守ろうとしてるのか?

弁護士ドットコムの記事内容からは、非常に疑わしいと言わざるを得ません。

以上