事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

実写版アラジン感想・考察:願いは一人では叶えられない、意思の力とその限界

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アニメ版からの変更点の分析で見えてくるものがあります。

実写版アラジンの概要とアニメ版との違い

  1. ジーニーの願いが「自由になる」から「人間になる」に
  2. ジャスミンの願いが「自分の好きな人と結婚する」から「王になる」に
  3. ジャスミンの侍女としてダリルが追加
  4. 王の側近としてハキームが追加
  5. ジャファーとイアーゴの主従関係がより強調される

大きな変更点はこのようになります。

その他、細かい展開がアニメ版と異なりますが、それらは実写版で伝えたいテーマに沿った良改変だと思います。

アラジンという作品の本質的テーマ「願い」

アラジンという作品の本質的テーマは

「願い」

だと思います。実写版アラジンは、願いというものの性質をより鮮明に描き出そうとしたのだろうと見受けられます。

対して、アニメ版アラジンのテーマは「自由」という側面が強かったように思います。

そのためにジーニーやジャスミンの願いが修正されたと言えるでしょう。

アニメ版のジャスミンは王宮の環境から逃れたいという願いを持っていましたが、実写版のジャスミンは「この国の王になる」という信念のある存在になりました。

こうした修正が物語全体、他のキャラクターの行動様式にも変更が加わり、大きな修正点になったと言えます。

「アラジン」という作品が持つ「願い」という中核的なテーマに加え、それと相互連関しているものとして、「実写版アラジン」における重要テーマがあるように思います。

実写版アラジンにおける「意思の力」

実写版アラジンにおいては「意思の力」がより強固に描かれることとなりました。

それを最も体現しているのがマーワン・ケンザリ扮するジャファーでしょう。

マーワン・ケンザリ版ジャファーの意思の力

実写版とアニメ版とで、最も変わったのがジャファーのキャラクター造形でしょう。

それを良く表しているのがイアーゴとの関係だと思います。

アニメ版ジャファーはイアーゴに翻弄されるシーンも目立ち、半ば対等のパートナーのような関係でした。

しかし、実写版ではジャファーが完全にイアーゴを支配する関係にあります。

これにより「誰かを自分の意思の支配下に置く者」の立ち位置が強固になりました。

そして、「元盗賊」という設定が強調され、下克上をして国を乗っ取ってやる、という信念のもとに長年行動してきた人物として生まれ変わっています。

従来の「陰湿であくどい大臣キャラ」という性質ではなく、飽くなき渇きを潤すかのような上昇志向を持つ野心家となっています。

ジャファーは物語中の立ち位置としてアラジンやジャスミンの対となる存在でもあり、彼に注目することで作品の本質が見えてくると思います。

そして「意思の力」というサブテーマにおいてジャファーが特別なのは、彼が「人の心を操る魔力を持った杖」の持ち主であるという所も大きいでしょう。

この点は「願い」に関する記述で触れます。

ナオミ・スコット版ジャスミンの意思の力

ナオミ・スコットが演じるジャスミンもアニメ版から大幅変更された人物です。

アニメ版では「好みの王子様を待つお姫様」のお約束要素で構成されていました。

或る意味受け身だったアニメ版ジャスミンですが、実写版では「王になる」という目標を持った自立心のある存在として生まれ変わっています。これは欧米のポリコレがどうの、という要素よりは、本作のテーマをより強調するための変更であると思われます。

これを明確にしたのが劇中歌の"Speechless"です。

「意見は言わないようにと教えられてきたが、それはもうやめよう」

これは、「自立した女性として生きる」という要素以上に「王として国を治めていく者としての覚悟」を示したものと言えるでしょう。

歌唱後、「王の側近」であるハキームに命令し、ハキームがそれに応えるシーンが象徴的ではないでしょうか。

この辺りが、近年のアメリカエンタメ作品にみられる「お為ごかしの女性の自立・社会進出への賛同のフリ」とは一線を画したメッセージであると言えるでしょう。

王としてアグラバーを統治する者として変わるために避けては通れない儀式。

それがSpeechlessのシーンだと理解できます。

メナ・マスードのアラジンやその他の意思の力

上記2名の造形変更が強烈だったからかあまり印象に残りませんが、「意思の力」がサブテーマとして描かれていることを暗示するシーンはたくさんあります。

たとえばメナ・マスード扮するアラジンとジャスミンの最初のキスシーン。

アニメ版は魔法のじゅうたんがアラジンを押したことで偶然キスする格好になったのですが、実写版はしっかりと自分の意思でキスをしていました。

王様もアニメ版は小太りの間抜けなジジイという描写だったものが、威厳を備えるようになっています。だからこそジャスミンを王にすることに対する意思決定に重みが出るようになりました。
(アニメはめちゃくちゃ軽いノリで、「こいつあんまり考えてねぇなこれ…」と思わざるを得ない何とも言えない感じでした。もっとも、そうなるのは絵柄的に不可避だったと思います。)

さて、「ジャジャコンビ」が存在感を増していい味を出してるのが実写版アラジンの魅力ですが、そろそろ本質に迫ります。

ウィルスミス版ジーニーが示す「願い」のルール

願い事をつかさどるのはウィルスミスが演じるランプの魔人、ジーニー。

それでも、願い事にはルールがあり、以下の行為は禁止されています。

  1. 生き物を殺すこと
  2. 死者を生き返らせること
  3. 誰かの心を操作すること⇒恋愛を成就させるなどが典型例
  4. 叶えられる願いの数の増減⇒必ず「3つ」
  5. 1度お願いした内容の変更やお願いをキャンセルすること

ランプの魔人の能力を使ったとしても、個人的なサービスやジーニーが勝手に行った事はカウントされないという抜け穴もあります(洞窟からの脱出はこれを使った)。

願いには限界がある

絶大な力を持つランプの魔人ですが、それでも上掲のような制約があります。

「願い事には限界」がある、ということが物語の序盤に示されるわけです。

その限界、世の理を超えて、自己の意思により願いをかなえようとしているのがジャファーであり、それと対極にある思想がアラジンやジーニーによって示される構造。

対して、アグラバーの王様は法律を変えることができます。

実写版の終盤、王子じゃないと結婚できないという法律も変えられることを王様がジャスミンに示し、その後のラストのアラジンとの会話でもその事に触れられています。

これは「願い事」ではなく、その正統性を周囲に認められた者が持つ力だからですが、そこには純粋な個人的な意思の力とは異なる「承認された意思」があると言えます。

「願いは一人では叶えられない」

「アラジン」には願い事がたくさん出てきます。

しかし、本当にかなえたい願いは、実は、一人では叶えられることができていません

  1. ジーニー「人間になりたい」(自由になりたい)⇒自分ではできない
  2. アラジン「この生活から這い上がる、(そのために)ジャスミンと結婚したい」⇒相手の承諾がないといけない
  3. ジャスミン「王になりたい」「アラジンと結婚したい」⇒王になるためには現在の王様の許しが必要。アラジンの承諾がないと結婚できない。

作中、アラジンが魔法のランプの力でジーニーに対して願い事をしますが

1回目「王子様になりたい」⇒王子の恰好をするだけならそれで完結したが、アグラバーにおいては周りが王子だと認識しているから王子として扱われていた。

2回目「海に沈んだアラジン(自分)を助けて欲しい」※ジーニーによる願いの代理行使⇒自力ではおぼれた状態から助からない。また、ジーニーはアラジンに助かって欲しかったが、自分の願いとしては実行できないからアラジンの願いとして実行した。

こうしてみると本当に大事な願い事ほど一人では叶えられないことに気づきます。

単にお金がほしい、力が欲しい、というだけならそう願えば手に入るわけです。ジャファーが強力な魔力を手に入れたように。

他方、3回目「ジーニーを人間にして(自由にして)」についてはどうでしょうか。

確かに願い事の形式的な性質だけ見ると、アラジンがそう願うだけで勝手に実行されることではあります。

ただ、アラジンは事前にジーニーが人間になりたい(自由になりたい)という願いを持っていたことを知っていました。ここに意思の合致が存在したと言えるでしょう。

なお、0回目の願いとして「洞窟からの脱出」がありますが(ジーニーが「アラジンはランプをこすりながら願い事をした」と錯誤に陥るようにアラジンが仕組んだ)、洞窟からの脱出はジーニーや魔法の絨毯(アブーもそうだろう)の願いでもあったのであり、運命共同体としての合意が形成されていたと言えます。

独りで願望を成就させようとするジャファー

これに対して、ジャファーの「願い」は、すべて自分のためにあります。

そこに「意思の合致」は存在せず、蛇の形をした杖で王様の心を操ったりと、相手の意思を無視し或いは無理やり捻じ曲げて自己の支配下に置く行為をしています。

しかし、そうした願いは悉く成就しません。

象徴的なのはジャファーがハキームに対し、自己を王様として認め、ジャスミンらを排除せよと命ずるが拒否されるシーン。

王様という立場は本来、専制的な力でもって君臨するのではなく、周囲からの承認があってはじめてその座に就く資格が得られるということが示されています。

それは、たとえランプの魔人の魔力によっても得られることがなかったということ。

最終的には私利私欲を満たすための願いとして「ジーニーになること」で絶大な魔力を得ようとしたが故に、ランプに封印されるという自滅を演じることになりました。

もっとも、そうなることは「アラジンとジーニーの願い」だったわけですが。

実写版アラジン感想・考察:願いが叶う=周囲からの承認

思うに「願いが叶う」とは【相手方や周囲からの承認・意思の合致】にその本質があるのではないでしょうか。

そのためには「強い意思の力」が必要であるとは言え、独りでは無しえないものがあるのだと、また、その限界があり乗り越えてはいけない則があるのだということがジャファーの言動やその顛末を中心に作中で示されているのだと思います。

このことがポジティブな形で現れるのが、「①王様になり②ルールを変更して③アラジンも婿にする」という、最も強欲な願いをかなえたジャスミン

王様という国を預かり政をしていく立場になることを先代から承認され、王様という国民や側近の支持を得た立場だからこそ「付与されている」法律改正という権限を行使し、アラジンからの求婚に応じる/求婚する。

実写版アラジンは、こうした要素を本能的に理解できるようになっており、そのためにアラジン・ジーニー・ジャスミン・ジャファーの振る舞いがバランスよく作用するように再構成された、リメイク作品として稀に見る成功をおさめたと言えるでしょう。

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