第2回あいちトリエンナーレのありかた検証委員会で曽我部教授が大村知事の「憲法21条の検閲」という主張を否定しました。
ただ、法的な意味での表現の自由ではなく、そうではない素朴な意味での表現の自由は守られるべきであるという観点から今後の課題について指摘していました。
- トリエンナーレ検証委員会:自治体がメッセージを支持したことにはならない?
- 自律的判断の尊重と表現内容への評価と政治目的規制
- 政治プロパガンダは「一般人の印象」を狙っている
- 介入するか否かは公的機関の自律的判断に任されているのでは
- まとめ:「公的行為」の乗っ取りをどう防ぐか
トリエンナーレ検証委員会:自治体がメッセージを支持したことにはならない?
Q:展示を認めれれば、政治的主張を支持することになるのではないか。
A:アートの専門家の自律的判断を尊重するもので(キュレーションの自律性の尊重)、自治体が作品から読み取れる政治的メッセージを支持したことにはならない。
逆に、介入することで、特定の政治的メッセージを否定する立場を明示することになる。
議事概要(あいちトリエンナーレのあり方検証委員会 第2回会議) - 愛知県
これまでの調査からわかったこと 第2回あいちトリエンナーレのあり方検証委員会
曽我部教授は「自律的判断の尊重」と「表現内容の是認」というように分けた上でこのように評価するようです(何らかの法的な次元の話なのか素朴な評価の話なのか資料からは不明だが。検証委員会でも時間の都合上、詳細説明は省略されていた)。
さて、専門家の自律的判断を尊重するという自治体の意思があると、どんなときでも自治体は「介入」できなくなるのでしょうか?
たとえば青少年保護育成条例で禁止されるおそれが強い類の政治的表現物が専門家によっては展示しても問題ないと判断された場合、自治体は介入できないのだろうか?
いや、おそらく、そういう触法事例はこの議論の対象外なのでしょう。この場合は政治表現ではなく違法行為に対して介入しているということになるので。
では、触法事案でないなら自治体の側が介入することはできないのでしょうか?
少なくとも明示的なルールが存在している場合には介入可能でしょう。
自律的判断の尊重と表現内容への評価と政治目的規制
上記はトリエンナーレのパートナーシップ事業(本体ではない)の参加資格と、愛知県の文化活動事業への補助金の交付団体、トリエンナーレ舞台芸術公募プログラムの対象となるための要件です。
介入することで、特定の政治的メッセージを否定する立場を明示することになる。
明示的な政治目的規制ルールに基づく場合には、こう言うことはできないでしょう。
なぜなら、この場合には「何らかの」政治目的行為だから介入しているのであって「特定の」政治的メッセージだから介入しているのではないからです。
ただ、表現の不自由展の作品群は、国際現代美術展の話であり、(なぜか)そのような要件が存在していませんでした。
議論するべきなのは、「政治目的規制が存在しない場合」に、ある表現行為に対して介入したらどうなるか?という問題だと思います。
この辺りですでに何か食い違いが発生しているように思います。「政治目的規制を設けるべきではない」という方向にはならないハズです。
政治プロパガンダは「一般人の印象」を狙っている
見た目の印象論の話をしますが、「政治目的規制が存在しないから自律的判断の尊重に過ぎない」と評価されるのでしょうか?第一義的には、「政治目的規制が存在しないから、政治的な内容も自治体が是認している」と評価されるおそれの方が強いでしょう。
仮に「自律的判断尊重」が何らかの法的関係において認められるとしても、一般人が見た場合の評価はどうでしょうか?
『公的機関が慰安婦像を認めた!』
『日本の自治体で天皇否定が是認された!』
自治体側がいくら「表現を是認しているわけではない」と言い張っても、一般市民レベルではそう受け取る人が多いでしょう。事実、今回の事案で批判している人たちは、そう受け止めていました。抗議をしていない人でも、「自治体が表現内容を是認した」と受け止めている者は多かったです。
「自律的判断を尊重しているだけだ」という理屈が「表現内容の是認」とは別個のものであるという技巧的説明を理解し、且つ、それに納得する市民・国民は、そう多くはないでしょう。
政治プロパガンダは法的に熟練したものの見方をする人は相手にしておらず、大多数の一般人を狙っているというのは分かりきった話ですから、「自律的判断の尊重」と「表現内容の是認」を分けて考えることができるとしても、そのような捉え方による運営は、トリエンナーレのような場を乗っ取ろうとする者にとっては好都合な状況なんじゃないでしょうか?
介入するか否かは公的機関の自律的判断に任されているのでは
「専門家の自律的判断の尊重」と「表現行為の是認」と「表現内容の是認」
これらは別々のものではないでしょうか?
「介入可能かどうか」ということは、「表現内容を是認したか否か」ということとは連動せず論じることが可能なように思われます。
たとえ専門家の自律的判断を尊重した結果であるから公的機関が表現内容を是認したことにならないとしても、その公的機関が表現行為を是認しない、つまり介入できる場合というのは有り得ると思うのです。今回みたいな危機管理上の理由でなくとも。
トリエンナーレの事業主体はほぼ愛知県である実行委員会である以上、その主体としての判断の自律性は守られるべきだと思うのです。そうでなければ今回のような【芸術表現に仮託した政治プロパガンダ】に利用されることを防げません。
いくら作品選定のガバナンスを構築しようと、この課題は最後まで残ると思います。
まとめ:「公的行為」の乗っ取りをどう防ぐか
曽我部教授ら検証委員会の委員らは素朴な意味での(法的ではない)「表現の自由」をいかに確保するかという視点で論じています。
他方、多くの人は『政治プロパガンダのための「公的行為」の乗っ取り』への警戒という視点をも含めて本件を考察しています。
「政府言論」の法理もそうした事案でアメリカで採用されたものです。
既に国連の各種組織が特定国の政治プロパガンダに利用されていることから明らかなように、公的機関の行為においては政治的表現の自由を尊重することよりも政治プロパガンダ利用への警戒を強めるべきだと思います。
素朴な意味での表現の自由も確保するべきだというのなら、民間事業として取り組めば良い。公的機関にグダグダに頼らないと表現できないというなら、そんなものは自ら自由を放棄しているのと同じでしょう。大きな国家・社会主義的な政策を前提とした考え方になっているのではないでしょうか?
以上