事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。リンク切れに備えて魚拓を活用しています。

津田大介の長文の言い訳の疑問点:トリエンナーレ表現の不自由展

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あいちトリエンナーレ実行委員会の芸術監督である津田大介が「お詫びと報告」と題した長文の言い訳を私的な媒体に掲載しました。

その内容を見ると、判断がめちゃくちゃだったということが改めて分かりました。

表現の不自由展は「再展示」が契約内容だった?

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium 魚拓はこちら・削除部分あり

「表現の不自由展・その後」は、2015年の冬に行われた「表現の不自由展」を企画した表現の不自由展実行委員会(以下「不自由展実行委」)の作品です。公立の美術館で検閲を受けた作品を展示する「表現の不自由展」のコンセプトはそのままに、2015年以降の事例も加えて、それらを公立の美術館で再展示する。表現の自由を巡る状況に思いを馳せ、議論のきっかけにしたいという趣旨の企画です。トリエンナーレが直接契約を結んだ参加作家はこの「表現の不自由展実行委員会」です。

両実行委員会が契約を結んだのは、過去に開催した表現の不自由展の作品を(それ以降の事例も加えて)再展示するという趣旨でした。

であるならば、再展示以外のもの、つまり2015年以前に問題視された作品に関して新たに作品を作るということは、基本的に契約違反のハズです。

大浦信行の天皇コラージュは新たに焼却映像が

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium 魚拓はこちら・削除部分あり

本来「表現の不自由展・その後」は、公立の美術館で検閲を受けた作品を展示するというコンセプトであり、新作の出展はコンセプトになじまないというお話は大浦さんにはさせていただいたのですが、展示の準備段階で《遠近を抱えて》と《遠近を抱えてPartII》は一続きの作品で、《遠近を抱えてPartII》を展示できないのならば《遠近を抱えて》の出品も取り下げるという連絡が大浦さんからありました。2015年の「表現の不自由展」にも出品された同作を出展できないのは、「その後」の趣旨ともずれてきてしまうため、不自由展実行委と協議のうえ、出展が決まりました。これが《遠近を抱えてPartII》が出展された経緯です。

これは相手方の契約違反であるとして要求を跳ね除けなくてはならなかった話です。

なぜ契約違反行為があるので展示を許さないことが憲法違反なのか?

トリエンナーレの展示は政府言論:原則的に表現の自由の問題ではない

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 政府の言論と人権理論 (3) 金澤, 誠 北大法学論集, 61(5), 144[65]-81[128] 

アメリカの事案ですが、市が管理する公園において、ある宗教団体がモニュメントの展示を求めたが、市が認めなかったことが表現の自由条項違反だとして争われました。

連邦地裁は表現の自由の話だとしましたが、連邦最高裁は公園の展示は「政府言論」(ガバメントスピーチ)であるとして、その場合は表現の自由条項の問題ではないと判断しました。

トリエンナーレ実行委員会は実質的に愛知県が運営し、津田大介も愛知県から職務を委嘱されているので、津田大介も公的機関の側です。それは本人の記述からもそういう認識だったということがわかります。

この場合に展示作品を選考するのは検閲でも何でもなく、裁量の範囲であるということを津田大介に説明する者が居なかったのが大きな問題でしょう。大村知事も本件を検閲の話だと言っていたことから、周りにまともな憲法知識・判断能力のある者が居なかったのでしょう。

「政府言論」の詳細は以下参照。

津田大介の憲法観では芸術祭の「乗っ取り」が可能になる

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium 魚拓はこちら・削除部分あり

2019年2月28日(木)と3月18日(月)の打ち合わせの段階では、僕から不自由展実行委に《平和の少女像》については様々な懸念が予想されるため、実現が難しくなるだろうと伝えていました。しかし《平和の少女像》は2015年の「表現の不自由展」でも展示された作品であり、展示の根幹に関わるという理由で「少女像を展示できないのならば、その状況こそが検閲であり、この企画はやる意味がない」と断固拒否されました。
キュレーターチームや実行委員会事務局にその旨を報告すると、アーティストの参加辞退というのは前代未聞で、行政としても前例がないと言われました。

中略

「表現の不自由展・その後」にどの作品を展示し、どの作品を展示しないかは、最終的に「表現の不自由展・その後」の出展者である不自由展実行委が決定権を持っていました。

中略

とはいえ、事情は複雑で、そもそもの企画が「公立の美術館で検閲を受けた作品を展示する」という趣旨である以上、不自由展実行委が推薦する作品を僕が拒絶してしまうと、まさに「公的なイベントで事前“検閲”が発生」したことになってしまいます。後述するキム・ソギョン/キム・ウンソン夫妻の《平和の少女像》、及び、大浦信行さんの《遠近を抱えて》の関連映像についても、不自由展実行委の判断を優先しました。もちろん、この2作品を展示作品に加えた場合、強い抗議運動に晒されるリスクがあることは理解していましたが、自分の判断で出展を取りやめにしてしまうと同様の事前“検閲”が発生したことになります。芸術監督として現場のリスクを減らす判断をするか、“作家(不自由展実行委)”の表現の自由を守るかという難しい二択を迫られた自分は、不自由展実行委と議論する過程で後者を判断しました。8月3日の記者会見で今回の企画を通したことを「自分のジャーナリストとしてのエゴだったのではないか」と述べたのは、これらの判断のことを指しています。いずれにせよ、最終的に僕は出展者である不自由展実行委の判断を尊重しました。

「最終的に表現の不自由展実行委員会が作品展示の決定権があると言っておきながら最終的に津田大介が判断を尊重しました」って、支離滅裂ですね。

作品展示の最終決定権は公的機関たる津田大介ないし大村知事にあります。

それを「検閲になるから」という妄想によって出展者の言いなりになるというのは、おかしいことだとは思わなかったのでしょうか?

これでは乗っ取りが可能になってしまいます。

だいたい、トリエンナーレのパートナーシップ事業の団体参加資格や愛知県の補助金交付要件には「政治活動目的の事業ではないこと」という内容規制が既にあります。
(トリエンナーレの国際現代美術展にはそのようなルールが不思議と存在しない)

なぜ表現の不自由展だけが規制が許されない扱いになっているのか意味不明です。

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文化芸術基本法は介入を絶対的に禁止する根拠にならない

ここで、文化芸術基本法(法律名称の改正前は文化芸術振興基本法)を持ち出して「行政不介入原則があるのだから、大村知事が口出しはできないというのは当然だ」という主張がありますが、以下の点が無視されています。

  1. 文化芸術基本法は行政不介入の原則を示しているに過ぎず、絶対的に介入を禁止しているわけでは
  2. 文化芸術基本法があるからといって表現の自由に給付請求権は無い
  3. 文化芸術基本法2条9項には「文化芸術に関する施策の推進に当たっては,文化芸術活動を行う者その他広く国民の意見が反映されるよう十分配慮されなければならない」とある
  4. 誰が文化芸術であると決めるのか?

詳しくは以下で論じていますが、公的機関に自己矛盾を強いることになる理解はおかしいと思わないのでしょうか?

まとめ:本当に津田大介は展示を拒否するつもりだったのか?

津田大介の「お詫び・報告」と題する文章にはツッコみ所が満載なのですが、やはり本質的な問題は、誤った憲法理解によって津田大介が表現の不自由展の出展を拒否できなかったということでしょう。

また、津田大介と東浩紀がトリエンナーレについて語る対談動画がUPされていますが、その語り口を見ると、津田大介自身が積極的に表現の不自由展の展示内容をプッシュしていたようにも感じます。本当に津田大介が展示を拒否するつもりだったのか疑問です。

こうした点も含め、トリエンナーレは徹底的に調査されてしかるべきだと思います。

以上