事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

表現の自由の問題ではなく【政府言論】トリエンナーレ表現の不自由展中止

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ほぼ愛知県で構成される実行委員会によって運営されている「あいちトリエンナーレ」の一つのブースである表現の不自由展が、昭和天皇の御真影を焼却する動画といった侮蔑的表現や、捏造慰安婦像の設置など国家意思に反する政治的表現を行ったことで抗議を受け中止になった事件。

この話を「表現の自由」の問題だとする論調がメディアに出る大学教授や弁護士らによってさも当然のごとく喧伝されていますが、基本的に無理筋であるという点が誤魔化されています。

アメリカにおける同種事案の分析をした論文等から指摘します。

「表現の自由」は「国家に邪魔されない権利」が原則

憲法上の権利を大別すると、自由権は「国家からの自由」、参政権は「国家への自由」、社会権は「国家による自由」と言われます(請願権や裁判を受ける権利などの国務請求権もあるが)。

憲法21条の表現の自由は「自由権」です。国民が国家の不作為を要求することができる権利(邪魔するなと言う権利)です。

これに対して社会権は、国民が国家に対して作為を要求することができる権利です。

ただし、憲法学上は、こうした分類は相対的なものであって、固定的に厳密に分類する事は避け、柔軟に考えるべきとされています。憲法21条1項からの派生原理である知る権利は作為請求権的「側面」を有しているとされます(ただ、具体的な給付請求権ではない)。

それでも、やはり原則は表現の自由という権利は自由権であり、国家に対して表現をする場を提供するよう求めることができる権利ではないという認識が前提にあります。

ここまでの事は憲法の急所第2版 [ 木村草太 ]などでも書かれています。

では、表現の不自由展は誰がどういう行為をしていたのか?

トリエンナーレ表現の不自由展は公的機関が運営

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あいちトリエンナーレ実行委員会の構成は様々ですが、責任を問われる役職にあるのはことごとく愛知県の公的機関に属する者が名を連ねています。

これは個人名ではなく、公的機関の役職名での記載であることから、あいちトリエンナーレ実行委員会は実質的に公的機関とみなす他ないと言えます。

そして、津田大介は民間人ですが、芸術監督は実行委員会の内部の機関であり、公的機関の側の人間です。実際、津田は愛知県から委嘱状を受けています(公務員就任をともなっていたかは不明)。

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「民間事業に公金が支出されている」のではなく「公的機関が主催している」のです。

アメリカ連邦最高裁の類似事案

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政府の言論と人権理論 (3) 金澤, 誠 北大法学論集, 61(5), 144[65]-81[128] 

トリエンナーレと類似している事案において、アメリカ連邦最高裁が合衆国憲法修正1条(表現の自由等の権利について定めた条文。原則として「厳格な審査」を要すると解釈されてきた)に該当する話なのかを判断したものがあります。

市が管理する公園において、ある宗教団体がモニュメントの展示を求めたが、市が認めなかったことが表現の自由条項違反だとして争われました。

連邦地裁は表現の自由の話だとしましたが、連邦最高裁は公園の展示は「政府言論」(ガバメントスピーチ)であるとして、その場合は表現の自由条項の問題ではないと判断しました。

公園は「伝統的パブリックフォーラム」と言われ、そこでの国民の表現行為を規制するためには、内容中立的で、重大な政府利益に仕えるように限定的に作られており、かつ、他の選びうる伝達回路が十分に残されているときにのみ制限が認められる、とされていました。

上記事案では「国民の行為」ではないとされたことから、上記枠組みから完全に外れると判断されたということです。

アメリカは星条旗を焼く行為すら表現の自由として認めていたことを考えれば、国民の行為か政府言論かという違いは決定的だというのが分かります。

「行為」しているのは公的機関:政府言論・政府事業の領域

このように、公的機関が管理運営することで初めて表現行為が成り立つというような場合には、行為者は公的機関であり、民間人の行為であるとは見ないという見解が示されている例があるということです。

日本で最も近い事案は船橋市立西図書館蔵書廃棄事件ですが、著作者らが現実に動いていたわけではないので種類としては別個の話でしょう。そこでも直接的には表現の自由の話ではないと最高裁で判断されています。

会社の営業マンが契約を取ってきたとしても、一般的にはお金は営業マンに入るのではなく、権利義務は会社に帰属するのと同じことです。現実に動いている者と法的な主体は異なるということは、世の中に溢れています。

表現の自由の問題ではない=検閲の領域ではない

憲法上の検閲、つまり憲法21条2項で禁止されている検閲については税関検査事件で判例に拠る定義が示されましたが、範囲が狭すぎるというの批判があり、また、一般用語としての「検閲」には「事後検閲が含まれる」とか、「広義の検閲概念」なるものを持ち出してトリエンナーレの話を「検閲」だとする者が居ます。

しかし、検閲とは本来は民間が自由に表現・出版等ができたのに、それを公権力が禁止する行為です。民間が自由に表現をする場ではない場合には、検閲であるか否かを問疑する段階にすら入りません。

このことは何度も指摘してきました。

こういった素朴な評価を言語化・法理化したのがアメリカ連邦最高裁の「政府言論」と言えるでしょう。日本では同様の事案が争われていないので判断されていないので、好き勝手言ってる人が居るというに過ぎません。

トリエンナーレ実行委員会が表現内容を理由として排除できないのがおかしいもう一つの理由

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トリエンナーレ本体の展示作品にかんするルールではないですが、パートナーシップ事業の団体参加資格や、トリエンナーレに参加している団体も申請している(愛知県の)補助金の交付要件には「政治活動を目的とする事業でないこと」というルールが既にあります。

大村知事や津田大介が言うように、もしも本当に「実行委員会が内容に踏み込んで事前規制することは許されない」のであれば、これらのルールの存在は一体何なんでしょうか?

なぜ、トリエンナーレの他の場面では規定されているルールがトリエンナーレ本体では用意されていないのか?とてもチグハグな状況だと言えます。

政府言論=ガバメントスピーチの乗っ取り

さて、逆にトリエンナーレの表現の不自由展の展示について、公的機関側が拒否をすることができないと考えてみましょう。その場合、どういうことが起こるでしょうか?

『政府言論=ガバメントスピーチの乗っ取り』が可能になってしまいます。

この懸念は衆議院議員の和田政宗氏も指摘しています。

表現の不自由展の実行委員会のメンバーを見ると、公的機関の運営する場を乗っ取ることを目的にしていたのではないかと疑わしく思います。

公的機関が主催運営している場での展示は「政府が認めた」と客観的には見えるものなので、それを狙っていたとしか思えません。

単なる公金支出の問題と考えるとおかしなことに

なお、トリエンナーレ表現の不自由展を「公金が支出されているから・公的施設を使っているから、表現が規制されても仕方がない」という主張がありますが、これは政府言論とはまったく異なる論法です。

民間事業に公金が支出されていても、それは政府が展示された表現を是認したということをただちには意味しません。

ですから、「行為者は誰か?」という観点は決定的に重要なのです。

承認しておいて後から禁止したことが問題

トリエンナーレ表現の不自由展の事案の特徴は、一度公的機関側が展示を承認しておいて、後から禁止したということです。

アメリカ流の政府言論の考え方なら、この場合でも表現の自由の問題とはなりませんが、船橋市立西図書館蔵書廃棄事件では著作者の人格的利益が法的保護に値するとされたこととの関係上、そういった利益が認められる可能性はあります。

それも認められないとしても、契約上の債務不履行の話になり得ます。

あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium

「表現の不自由展・その後」は、2015年の冬に行われた「表現の不自由展」を企画した表現の不自由展実行委員会(以下「不自由展実行委」)の作品です。公立の美術館で検閲を受けた作品を展示する「表現の不自由展」のコンセプトはそのままに、2015年以降の事例も加えて、それらを公立の美術館で再展示する。表現の自由を巡る状況に思いを馳せ、議論のきっかけにしたいという趣旨の企画です。トリエンナーレが直接契約を結んだ参加作家はこの「表現の不自由展実行委員会」です。

過去開催された表現の不自由展の内容に加えてそれ以降の事例も加えて「再展示する」契約を両実行委員会が締結していたと津田大介は語っています。

そのような契約の中で一度承認しておいて中止したことが、憲法上の権利ではなく契約上の権利を根拠にして争いになることが考えられます。

まとめ

  1. 表現の自由は国家に邪魔されない権利なのが原則
  2. トリエンナーレ実行委員会は公的機関
  3. 表現の不自由展の展示は政府言論なので表現の自由の問題にはならない
  4. ただし、法的保護に値する人格的利益の侵害や契約上の債務不履行の話にはなり得る
  5. 単なる公金支出の問題だと考えると説明がつかない点がでてくる

憲法学界では政府による給付・助成・援助という文脈の中で、通常は表現の自由の範疇ではないものについて、表現の自由論によって憲法的統制ができないかと試行錯誤してきた経緯があります。

ですから、トリエンナーレの事案を表現の自由論で語ることが間違いだと言うつもりはありません。

しかし、原則的に表現の自由論となるかはかなり厳しい、というのがこれまでの議論であったわけで、それを無視してさも表現の自由の許されざる侵害であるという論調でメディアで話をする法律専門家は、甚だ不誠実だと思います。

以上