あいちトリエンナーレで表現の不自由展が中止になったことについて。大村知事が8月13日の定例記者会見において自ら「検閲」をしていたことを暴露しました。
- あいちトリエンナーレ大村知事、自ら「検閲」していたと暴露する
- 先週の記者会見との違い
- 大村知事の説明の通りだと憲法21条の検閲の話になる訳がない
- そもそも検閲のフィールドにならない
- 「政治的表現等」を禁止しているトリエンナーレの関連ルール
- 文化芸術基本法は介入を絶対的に禁止する根拠にならない
- 文化芸術基本法上の「文化芸術」は誰がどう決めるのか?
- まとめ:自己矛盾行為を強制することは出来ない
あいちトリエンナーレ大村知事、自ら「検閲」していたと暴露する
- 6月中旬に事務方から表現の不自由展の内容を聞いた
- 津田監督を通して「これについて本当にやるのか」「この点についてはやめてもらえないか」「実物ではなくパネルにしたらどうか」「写真を撮ることは禁止してはどうか」などの強い要望希望は伝えた
- その一線を超えると憲法21条の話になってしまうおそれがある。ましてや事前なので
- 「それだったらこの企画を止める」などと言われることもあったが、そうなるとまさに憲法21条そのものの話になる
内容に踏み込んでの話ではない、というように言っています。
しかし、「実物ではなくパネルにしたらどうか」というのは内容に踏み込んでいます。
美術館等に展示される芸術作品はその作品単体だけではなく、その空間内での配置や他作品群との関係・作品を観る側との関係において表現されるものが多いです。
たとえば「イタリアのアカデミア美術館にあるダビデ像の写真」を展示したところで、その芸術的価値は「ダビデ像の実物」と同じものではないでしょう。平面360度+αから観れるものが、そうではなくなるわけですから。
大村知事自身が「検閲」をしていたことを暴露したということです。
(もちろん検閲の話には成りえない)
先週の記者会見との違い
過去にはこう言っていました。
- 展示について、強い希望要望はお伝えした
- 写真撮影やSNSで拡散するのはやめたほうがいいのではないかなど
- (それ以上の)希望要望の具体的な中身については途中段階の内部のことだから申し上げることは控えたい、ご想像の通りにおまかせします
- (作品の内容を知事が確認した上で承認したというプロセスがあったのか?という質問に対して)それはありません。
大村知事が作品内容の最終判断権者という組織体制ではなく、芸術監督が決定したものについて助言・要望を伝える立場だったということが言いたかったのでしょう。
13日では「この点についてはやめてもらえないか」「実物ではなくパネルにしたらどうか」という「希望要望」を伝えていたということが新たに分かったということです。
大村知事の説明の通りだと憲法21条の検閲の話になる訳がない
大村知事は『(津田大介から)「それだったらこの企画を止める」などと言われることもあったが、そうなるとまさに憲法21条そのものの話になる』と言っていました。
一体、どういうことを言ったためにそのような事を言われたのかは大村知事が敢えて言わないので分かりませんが、これで本当に「この企画=表現の不自由展」を止めたとしても、それは検閲などではありません。
単なる自主的な展示中止です。
なぜなら、内容に踏み込んでいないのであれば検閲ではないのだから。
内容に踏み込んでいたとしても、問題視された作品以外のものについてまで展示中止するというのは勝手な判断だから。
そもそも検閲のフィールドにならない
『憲法21条2項の「検閲」の定義は判例によれば「行政権が主体となって…」』という話をする以前に、今回の事件は検閲であるかどうかを問疑するまでも無い状況だということが理解されていません。
大村知事は「芸術監督との役割分担」を強調していますが、そんなものに意味はありません。津田大介は民間人ですが、実行委員会から職務の委嘱を受けている「公的機関側」の人間だからです。
トリエンナーレ実行委員会と愛知県等の公的機関との関係は以下。
実質的に愛知県の組織であると言えます。
あいちトリエンナーレは「民間事業に公金が支出されている」のではなく「公的機関が主催・企画・運営している事業であり、公金も支出されている」が現実です。
本当に「展示内容に踏み込んで選別してはいけない」のであれば、津田大介が作品・企画を選考している時点でダメでしょう。津田大介は公的機関の人間として振る舞っているのですから。
「政治的表現等」を禁止しているトリエンナーレの関連ルール
トリエンナーレ本体の展示作品にかんするルールではないですが、パートナーシップ事業の団体参加資格や、トリエンナーレに参加している団体も申請している補助金の交付要件には「政治活動を目的とする事業でないこと」というルールが既にあります。
大村知事が言うように、もしも本当に「内容に踏み込んで事前規制することは許されない」のであれば、これらのルールの存在は一体何なんでしょうか?
なぜ、トリエンナーレの他の場面では規定されているルールがトリエンナーレ本体では用意されていないのか?とてもチグハグな状況だと言えます。
文化芸術基本法は介入を絶対的に禁止する根拠にならない
ここで、文化芸術基本法(法律名称の改正前は文化芸術振興基本法)を持ち出して「行政不介入原則があるのだから、大村知事が口出しはできないというのは当然だ」という主張があります。
文化芸術基本法は行政不「介入」の原則
文化芸術基本法は法文上、「文化芸術に関する施策の推進に当たっては」「自主性を尊重する」としか書いていません。
たしかに立法過程で立法者議員が「行政不介入原則」を念頭に立案したことを答弁しています。
しかし、それは行政の「介入」についての話であって、公的機関が主催・企画・運営している場面では妥当しません。
さらに、民間事業の話だとしても『行政不介入の「原則」』なのであって、絶対的に介入を禁止しているわけではありません。
不当な干渉が無いようにという附帯決議
実際、文化芸術振興基本法の立法時の附帯決議には
五 文化芸術の振興に関する施策を講ずるに当たっては、文化芸術活動を行う者の自主性及び創造性を十分に尊重し、その活動内容に不当に干渉することのないようにすること。
「不当に」という文言があります。
本則では「文化芸術に関する施策の推進に当たっては」「自主性を尊重する」としか書いおらず、行政不介入の原則を明確化するために、附帯決議にこの文言を忍ばせたと言えるでしょう。
(附帯決議には法的拘束力はないが議員、政府らに事実上の拘束力を持たせるという運用になっている)
不当でなければ、活動内容について問題があれば何らかのアクションをするのは当たり前の話です。この「不当」という文言を無視して絶対的禁止であるかのように主張している者が居ますが、甚だ不誠実でしょう。
違法ではない作品に対する「介入」の話だとしても、例外的な場合には介入が許されていると考えるのが当然です。
文化芸術基本法があるからといって表現の自由に給付請求権は無い
表現の自由を定めた憲法21条1項は「国家からの自由」とも言われる「自由権」であり、国家から邪魔されない権利です。国家に対して自分の表現の場を設けるように請求することができる権利ではないというのが原則です。
(憲法21条1項の派生原理である「知る権利」は国家に請求する機能があると言われますが、それでも給付請求権そのものではない)
文化芸術基本法が立法されたとしても、文化芸術の展示に関する表現の自由に給付請求権的機能を付与したものとは解されません。
国家の側に対して文化芸術を振興する際の義務について規定しているだけです。
大村知事は文化芸術基本法2条9項を無視していた?
第二条 文化芸術に関する施策の推進に当たっては,文化芸術活動を行う者の自主性が十分に尊重されなければならない。
中略
9 文化芸術に関する施策の推進に当たっては,文化芸術活動を行う者その他広く国民の意見が反映されるよう十分配慮されなければならない
文化芸術基本法を根拠として内容に着目した規制が許されないと主張する人たちは、同時に2条9項で「その他広く国民の意見が反映されるよう十分配慮されなければならない」と定められていることをどう考えているのか?
こちらは行政不介入の原則を表した附帯決議とは違って、本則の条文に書かれていることです。
「国民の意見」として大反対が展開されている内容について公金を支出するのはどうなのか?ということです。ましてや今回は単なる公金支出ではなく官製イベントなのですから。
文化芸術基本法上の「文化芸術」は誰がどう決めるのか?
ここから素朴な価値判断を多く含みますが必要なので言及します。
文化芸術基本法は「文化芸術」に対するものです。
何がここで言うところの「文化芸術」なのか、誰がそれを決めるのかについて何も触れていません。書くべきではないと思います。それを決めるのは政府や民間という一時点の特定主体ではなく、人類の営為が醸成されて決まるものだからです。
問題は文化芸術でもあり政治的でもある(そんなような気がする)作品です。
この場合に「文化芸術だから政治的でも絶対に介入は許されない」とするのか?
しかし、誰かが勝手に「これは文化芸術だ」と言えば絶対に行政が介入できなくなるということになるのは「特権」を作ることになるのでそれこそ許されません。他の表現形態では許されないのに、文化芸術だと自称したとたんに許されるというのはおかしい。
政府は「何が文化芸術か」を判断する能力は無いですが、「何が政治的か」を判断する能力はありますから、政府事業において自らが「これは政治目的の活動だ」と判断したなら展示を許さないとする裁量は当然にして持っているハズです。
まとめ:自己矛盾行為を強制することは出来ない
トリエンナーレは民間事業に公金が支出されているのではなく、公的機関の事業だということを指摘しました。
「表現の自由だから」という理由で公的機関に対して国家戦略に反する政治的表現が許されるなら、それは公的機関に自己矛盾を強いることに他なりません。
「自己矛盾行為を強制する」というのは、あらゆる場面において容認されない考え方ではないでしょうか。表現の自由にそのような機能があるとは考えられません。
以上