あいちトリエンナーレ検証委員会で芸術監督の業務内容の定めが判明しました。
津田大介は芸術監督の業務契約に違反しているのではないでしょうか?
- トリエンナーレ芸術監督の業務内容
- 津田大介は芸術監督の契約違反?
- 「少女像」に言い換えた平和の碑
- 昭和天皇の御尊影を燃やしたのではないという詭弁
- 他のルールでは政治活動目的が禁止されている
- まとめ:自己矛盾行為の強制となる政治的メッセージは「普遍的」なのか?
トリエンナーレ芸術監督の業務内容
議事概要(あいちトリエンナーレのあり方検証委員会 第1回会議) - 愛知県:魚拓はこちら
【6 あいちトリエンナーレ2019芸術監督の業務内容等について】
平成29~31年度のものまで載っています。
津田大介は芸術監督の契約違反?
あいちトリエンナーレが複数分野(現代美術、舞台芸術、普及・教育)の芸術祭であることから、各分野を包含して普遍的な意義や理念をメッセージとして分かりやすく国内外へ発信する。
この文言にどれだけの意味があるのかは正直よく分かりませんが、素朴な印象では、津田大介は表現の不自由展を認めたことで、この芸術監督の職務に反していると思うんですよね。
トリエンナーレ検証委員会の第一回の資料では芸術監督への委嘱状や契約書は添付されていなかったので、具体的な契約内容がどうだったのかは今後の検証になるんでしょうけれども。
「少女像」に言い換えた平和の碑
少女像と称する捏造慰安婦像も、作者は「正式名称は平和の碑であり、日本を非難する意図では無い」などと言っていますが、ならばなぜトリエンナーレへの出展に際して「平和の少女像」などと、「少女」という歴史的実態と異なる名称にしたのか?
歴史的事実と異なる実態を印象付けることが「普遍的な意義や理念」なんですかね?
そりゃあ一部にはそういう不幸な例もあったんだろうと思いますが、基本的には一定の年齢以上の者が募集されていたのが事実。当然、歴史的に見て「強制」の主体に日本軍は含まれない。
もうこの時点で、「韓国政府や韓国人団体が政治利用しているためにイメージが付いているが、それは関係ない」などと言うのは詭弁でしかない訳です。完全にそのイメージを利用してるでしょう。
昭和天皇の御尊影を燃やしたのではないという詭弁
昭和天皇の顔写真をコラージュした図版が、最後に昭和天皇の御尊顔が残る形でガスバーナーで焼却され、灰になった後に靴で踏みつぶされる映像。
これについて映像の作者は「過去に富山美術館で自分の作品の図録が焼却処分されたことを表現しているだけであり、昭和天皇の写真を燃やしたというのは誤解だ」などと言っています。
これって「普遍的な意義や理念をメッセージとして分かりやすく」伝えていますかね?
そもそもそういった経緯を知らない人がほとんどでしょう。
さらに、富山美術館で焼却処分されたのは作品本体ではありません。図録です。
その上で、今回、あらためて生々しい映像を新たに制作したことは、「過去に展示拒否された作品を再展示する」という当初の予定とも逸脱しています。
他のルールでは政治活動目的が禁止されている
まず、トリエンナーレの全体像は上図のようになっています。
が、それぞれの展示において個別にルールが設けられている例があります。
- トリエンナーレ本体では無いパートナーシップ事業の団体参加要件
- トリエンナーレとは別の愛知県の補助金支出要件
- トリエンナーレの舞台芸術公募プログラムの要件(表現の不自由展は国際現代美術展)
上記には「政治活動目的」が禁止されています。
あいちトリエンナーレの連携事業のうち、パートナーシップ事業の上図のページを見てみると、「宗教活動や政治活動を目的とする事業でないこと。」という制限があります。
パートナーシップ事業はトリエンナーレ本体とは別個の展示やパフォーマンス等なので、表現の不自由展はこの除外ルールとは直接的には関係ありません。
愛知県文化活動事業費補助金 募集案内(上図)を見ると「政治的又は宗教的意図を有する事業」については補助対象事業から除外されています。
過去の補助対象事業を見ると、トリエンナーレに参加する団体の一つに対して交付されている事例が見つかりますが、トリエンナーレ全体に対して交付されるようなものではありません。
検索結果一覧 - 愛知県(愛知県芸術文化選奨選考委員会開催規程)のワードファイルを見ると、舞台芸術公募プログラム募集要項では「政治的宣伝意図を有するもの」が禁止されています。
こういった個別のルールを見ると、やはり政治的な要素があるものはトリエンナーレにはふさわしくないという認識が愛知県側には存在していたと言えるでしょう。
まとめ:自己矛盾行為の強制となる政治的メッセージは「普遍的」なのか?
政治的なメッセージのある何らかの表現が、すべて悪いなどとは思いません。
見ている側が勝手に風刺だと思い込む例もありますし、そういった要素から完全に抜け出せる・抜け出さなければならない、などということはありません。
問題は公的機関が主催する場において、公的機関の立場とは相いれない政治的な表現が行われようとしている際に拒むことができないとすれば、それは【自己矛盾行為の強制】であるということです。国家間合意に反する含意のある像の展示や国家元首を貶める映像の展示を行政機関が行うことは自己の存在否定でしょう。
強制執行でもないのに自己矛盾行為の強制を受けるというのはおかしい。
そういう感覚こそが「普遍的な意義や理念」ではないでしょうか?
以上