異常な判決
NHKの受信料制度合憲判決を上回る判決が出てしまいました。
※高裁判決の具体的評価について下記記事を書きました。
広島高裁の伊方原発差止め判決
『広島高等裁判所は「阿蘇山が噴火した場合の火砕流が原発に到達する可能性が小さいとは言えない」と指摘』
「火山の危険性について、伊方原発が新規制基準に適合するとした原子力規制委員会の判断は不合理で、住民の生命、身体に対する具体的な危険が存在する」
!?
阿蘇山の火砕流についての事実
これに対し四国電力は「阿蘇カルデラの過去の最大規模の噴火でも火砕流は敷地に到達しておらず、運用期間中に影響を及ぼす可能性は十分小さい」としています。
阿蘇のカルデラ噴火とはどのようなものだったのでしょうか。
阿蘇4噴火では、火砕流が九州のほぼ全域を襲い、一部は海を越え、山口県にまで到達したこと(100km以上火砕流が走ったことになる)が分かっています
愛媛の伊方の半島へはまったく到達してませんね。
「阿蘇山が噴火した場合の火砕流が原発に到達する可能性が小さいとは言えない」
「住民の生命、身体に対する具体的な危険が存在する」
!?!?!?
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阿蘇山の火砕流を考慮する愚
おわかりいただけただろうか……
この判決がどれくらいおかしなものか。
つまり
過去に起きた阿蘇山の噴火で、最大級の被害が生じた阿蘇4によっても到達しなかった火砕流が原発に到達する可能性が、ほんのちょっとあるから、原発稼働はやめろ。
こう言ってるのです。
東日本大震災なんか比べものにならない、西日本滅亡クラスのカタストロフィーが起こる可能性を考えてたら、もはや何も経済活動なんかできない。
愛媛 伊方原発3号機の運転停止命じる 広島高裁
— Nathan(ねーさん) (@Nathankirinoha) 2017年12月13日
『広島高等裁判所は「阿蘇山が噴火した場合の火砕流が原発に到達する可能性が小さいとは言えない」と指摘』
およそ理論と呼べないゼロリスク論を言い出すのは「回復の困難な心身の故障」で分限処分の対象になるべき。https://t.co/xX7J5w9Orm
ゼロリスク論という新興宗教
原発から放出される放射線被害という影響が甚大であるということ
これを論理のブーストとして機能させ、根拠にしているということはわかる。
しかし、そうであるならば、である。
北の独裁者が間違って核ミサイルのボタンを押して日本に飛来する可能性だって否定できない
日本に打ち込む方角に配備されている支那のミサイルが、間違って独裁者の手によって発射ボタンが押されて日本に飛来する可能性だって否定できない
2017年12月現在、支那の観測衛星が制御不能らしいが、落下予測位置の範囲には日本が含まれており、原発に落ちる可能性は小さくないから原発は稼働してはいけない
こんな理論は成立するのだろうか?
いわゆる「ゼロリスク論」であるが、このような理論を認めてしまったら、世の中で成立しているあらゆる論理や経験則、社会知といったものが通用しなくなってくる。そして、そういうものに裁判実務は一定程度依存しているし、その恩恵があるからこそ法体系は成り立っている。
それを否定するということか。それはもはや新興宗教でしかない。
そして、もしも宗教心によってこの見解を為したのではないとするならば、その裁判官の精神状態を疑う。
裁判官分限法
第1条 裁判官は、回復の困難な心身の故障のために職務を執ることができないと裁判された場合及び本人か免官を願い出た場合には、日本国憲法の定めるところによりその官の任命を行う権限を有するものにおいてこれを免ずることができる。
地形から分かる判断の異常さ
先ほどの図で火砕流が到達した地点をみると、概ね山の谷に沿って進んでいる。上図で示した赤いラインは、伊方原発方面に火砕流が進む場合に予想される経路とその範囲である。伊方原発は右上の半島の根本にある。
伊方原発の位置は☆マークの場所である。
たとえ海を渡って火砕流が来たとしても、更に半島の山を超えなければならない。阿蘇4の火砕流をもってしても伊方に到達しなかった規模のディザスターを考慮するというのは、もはや人智を超えている。このような判断を人間に求めるものではない。
司法テロ
広島高裁の判断は司法テロだと思います。
野々上友之裁判長は今年の12月に退官予定だという。
NHKの受信料制度合憲判決を出した寺田逸夫裁判長も退官間近だから、と言われてるが、15人中の1人なので与しないが
退官前の裁判官がトンでも判決を出すというのは、その界隈でも一定の傾向が認識されている。
我が国の社会が長年をかけて構築してきた秩序に反する「ゼロリスク論」という新興宗教を用いて判決を為すことは、司法テロといってしまっていいと思います。
安易に「司法の汚染が―」という者にはくみしないが、こういう判決を擁護しようとは思わないし、その解釈を勉強しようなどとは思わない。これは、その域を超えている。
なぜなら、今回の判決は、法律がおかしいからではないから。ただただ司法の側の解釈が歪んでいることが明らかだから。
こういう判決こそ、そのおかしさを一般国民が立法府や行政府に知らせていくべきだろう。
なお、裁判所には 複数の「裁判体」があり、どの裁判体に事件が配点されるかはその裁判所の職権事項であるため、原告が選べるものではない。
地裁における例外があるらしいが、いずれにしてもこれは高裁の話なので無関係か
以上
※高裁判決の具体的評価について下記記事を書きました