事実を整える

Nathan(ねーさん) ほぼオープンソースをベースに法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

朝日新聞川柳炎上を揶揄する圧縮マン福留庸友カメラマン

圧縮マン福留カメラマンによる朝日新聞川柳炎上揶揄

「圧縮マン」が朝日新聞成分を煮詰めたツイートを

朝日新聞川柳炎上を揶揄する圧縮マン福留庸友カメラマン

朝日新聞の「圧縮マン」福留庸友カメラマンが、朝日新聞2022年7月15,16日に掲載された川柳の炎上について揶揄するツイートをしていました。

このツイート、実に興味深いですね。

大手新聞紙に刷って全国に配布してWEBでも掲載されている時点で「言いたいことも言え」てるでしょう。

「言いたいことも言えないこんな世の中」って、たとえば記者が取材した内容を書いたけどデスクや編集長に「この記述は無しで」みたいに弾かれたりしたような場合や、そういうことが予想されるからあらかじめ自分の記事では「工夫」をしたけど、本当はこう書きたかった、っていうような場合でしょう?

「朝日新聞は自社が言いたいことを川柳の形で他人の口を借りて語らせています」という暴露

「記事と違って…皮肉を込めたり毒を吐くのが川柳の良さ」

「伝統的にある程度反権力にもなる」

これらの発言からは【朝日新聞は自社が言いたいことを川柳の形で他人の口を借りて語らせています】ということの暴露でしかないですよね。
(本当にそうなのかは措いておくとしても)

加えて、福留氏のツイートでは「いち個人目線で」と限定しているが、問題視されている朝日川柳の選者である西木空人=栗田亘は朝日新聞プロパー(退職して20年経ってるけど)で、選出された川柳は紙面掲載前にデスク・編集長も目を通してるわけです。

したがって、新聞紙に掲載された時点で純粋な「個人目線」ではない。

投稿者個人の目線であると同時に、朝日新聞の目線が入り込んでいるということ。

「伝統的にある程度反権力にもなる」って、朝日新聞が掲載することを前提に論じてるにもかかわらず、1つのツイート内で矛盾が生じている。

個人の川柳を新聞紙に掲載することは、その新聞社が川柳の内容の通りの思想・意見を持っている、ということではないにせよ、少なくとも「そういう見解を是としている」或いは「否定はしない」ということにはなりますよね。

圧縮マン福留氏のツイートは、そこから踏み込んで「朝日自身の意見だ」と言っているわけです。

朝日新聞は「他人に語らせる」を常套手段としてますので、記事だったら別に驚きではないですが、川柳までそうだったんですか。そうですか。

補論:「表現の自由・言論の自由」だが批判は免れない、について

「たとえ〇〇と言っても表現の自由・言論の自由だ」

この発言はしばしば誤解を受け、不毛な言い合いになることが多い。
朝日川柳に関する話でも「表現の自由」が取りざたされているし、なんならSNSではあらゆる事象に対してずっとこの話題が持ち上がっている。

たとえば法的文脈では「差別的言動も表現の自由としての保護を受ける」と言っても、それは差別的言動が常に許されるべきという意味では無い(保護を与えるべきか否かという議論は存在する)。

「保護/保障を受ける」=保護範囲、とも言ったりしますが、憲法21条の表現の自由の話として扱うかどうか、というもの。その上で、そのような表現の規制=侵害は正当化されるべきか、という話になる。

※この場合の「規制=侵害」の主体は公権力であって、民間・私人において批判したり表現をやめろと言うこと自体は規制ではなく、そう言うことも表現の自由。ただし、名誉毀損や侮辱、業務妨害等の違法行為になるかは別問題。
※また、社会からある表現を消し去れと言い実際に種々の要請をしたことである表現が消える危険が生じるという意味では表現の自由が脅かされているという話にはなる。「理念としての表現の自由を脅かす具体的な行動としての表現の自由」という場合がある。
※公権力側からある表現を批判をすること自体がただちに「規制=侵害」でもなく、ただ、この場合には背後にある表現の自由に配慮せよという形で再反論が為されることがあり得る。

憲法21条の表現の自由という憲法上の権利の話になると規制正当化のためのハードルが上がりやすいため、この違いが重要になってくる。

表現内容単体だけを見て、ある表現は21条の話ではないから規制正当化の基準が緩く、別の表現は21条だから厳格、となるのは振り幅が大き過ぎる。
なお、結果的に表現が制限されるが規制目的が表現内容とは関係の無いものであった場合(表現内容中立規制)には規制正当化のハードルは下がる。

より本質を言うと、表現内容によって表現の自由の保障の枠内か否かを判定する(この時点では規制が正当化されるかは別問題)となると基準の設定が困難だし、権力が恣意的に権利・自由の枠の内外を決めることになりかねない、多数派が常に少数派にとって不利な認定をすることになりかねないという懸念がある。また、例えば差別的言動や侮蔑的表現でも(一応は)表現の自由/言論の自由だと言わなければならないのは、そうでなければ本来差別・侮蔑ではない言論も安易に規制される危険が生じるため。

もちろん、21条の話の内部において、表現の内容によって扱いが変わる事もあり得るのですが、一定の枠内の基準から外れないわけです。ある基準の中においてその表現内容だと規制も許されるよね、という話をした方が公平性は高く説得力もある。

ただし、昭和30年代くらいまでの古い裁判所の判決だと(言語による意思伝達を指して)、「表現の自由も絶対ではなく…公共の福祉による制約を受ける…ので、このようなものは表現の自由として保護されない」からアウト、みたいな記述もある。

この場合は「表現の自由の枠内だが、保護される=表現が何ら問題なく許される、ということではなく規制が正当化される」という意味だが、「表現の自由の枠内=保護範囲内だが、表現が何ら問題なく許される、ということではなく、規制が正当化される」ということと意味は同じ。しかし、表面的な言葉だけ見た用語法とはズレがある。

なので、ここで述べた用語法は、実はそんなに自明ではなく、実際には文脈が重要になってくる。

このように、「たとえ〇〇と言っても表現の自由・言論の自由だ」という言葉の意味内容の受け取り方は、法的な文脈でも注意が必要なわけで、一般人にとっては区別できないのは当たり前のジャーゴン。

なのに、法曹関係者が一般人に対して上メセで口上垂れてる場合がSNSでは稀にみられるので、そういうものには警戒しておきたい。

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