朝鮮騒擾(三・一運動)に関連している平安南道の孟山の憲兵分遣所内での「殺傷事件」について調べました。韓国側の主張には矛盾が多すぎます。
<三・一運動記念式の文大統領演説全文>(聯合ニュース) - Yahoo!ニュース
当時、朝鮮半島の人口の10%にもなる約202万人が万歳デモに参加しました。
約7500人の朝鮮人が殺害され、約1万6000人が負傷しました。
逮捕・拘禁された人は実に4万6000人ほどに達しました。
最大の惨劇は平安南道の孟山で起きました。
3月10日、逮捕・拘禁された教師の釈放を要求しに行った住民54人を日帝は憲兵分遣所内で虐殺しました。
京畿道・華城の提岩里でも教会に住民を閉じ込めて火を放ち、幼い子どもも含めて29人を虐殺するという蛮行が起きました。
- 平安南道孟山の憲兵分遣所
- 閉じ込めて一斉射撃・銃剣で刺殺というストーリー
- 「無抵抗の人を騙しておびき寄せた」という雑な推論
- 生存者の人数についても疑問な朝鮮側の証言と評価
- 朴殷植と姜徳相の朝鮮騒擾(三・一運動)への影響
- 韓国側の三・一節の研究:死者934人
平安南道孟山の憲兵分遣所
【現代史資料26 姜徳相 編 みすず書房】(1刷)から抜粋します。
※私の手で現代語の文として読みやすいように漢字をひらがなにしたり送り仮名を調整したり句読点を挿入したりしています。
朝鮮騒擾事件に於ける死傷数の件報告 (現代史資料26 321頁~)
大正八年九月二十九日 朝鮮軍司令官 宇都宮太郎三月十日平安南道孟山に於ける騒擾鎮圧状況
一、三月十日、平安南道孟山に騒擾起こりしを以て、歩兵第七十七連隊長は井上中尉以下十名を孟山に派遣す。該部隊は三月十日午前九時二十分、孟山に到着せり。然るに孟山に於いては同日約百名の暴民衆合し、午後三時を期し運動を開始するの計画なるに依り、行動開始に先だち憲兵分遣所長は市場に集合をなせば部民中彼等に誘引せらるるをおそれ、首謀者を検挙せんとせり。よって、午後二時、井尻憲兵伍長以下をして天道教徒約百名を孟山公立普通学校門前に集合せしめ解散を命じ、首謀者四名を憲兵分遣所に引致せんとせしめ、彼等の一同は飽くまで頑強に抵抗し、憲兵伍長以下五名を包囲し拳を以て殴打し或いは投石する等の暴行を演出しつつ分遣所に打ち寄り、窓硝子を破壊し盛んに投石を為し留置せんとしつつある首謀者四名を奪還せんとして暴徒一同分遣所事務室内に闖入(ちんにゅう:突然無断で入ること)す。憲兵一同は之を制止せんとするも更に暴行を敢えてせしにより井上中尉は時機猶予すべからざるを察知し、下士以下及び憲兵を指揮し裏庭より事務室にある暴徒に対し射撃を命じたり。然るに憲兵上等兵一名、及び補助員監督一名不在なるを知り、一時射撃を中止せしに、佐藤憲兵上等兵戦死、補助員監督負傷しありしを以て之を裏庭に出せり。然れども暴徒は尚暴行を行うに依り再び射撃を行い之を解散せしむ。而して射撃時間約三分にして射撃停止後は歩兵は分遣所内外の警戒に任し憲兵は死体の検査を為す。
このように、約100名が分遣所内に兇器を使用しながら侵入してきたというのですから、武器の使用は当然でしょう。「虐殺」という言葉の定義問題は不毛ですが、いかにも不当な評価でしょう。
閉じ込めて一斉射撃・銃剣で刺殺というストーリー
ところが、現代史資料475頁から始まる「朝鮮人側記録の一例」の中で「孟山の虐殺」として『日本兵は群衆を分遣所の内庭に入れて門を閉め、一斉射撃によって一気に六十四人を射殺した。なかには、気息奄々ながらまだ命ある者を銃剣でとどめを刺すものであった。この中三人が辛うじて脱出した。』と書いています。
編者の姜徳相氏も資料解説のxxi頁にて以下記述しています。
デモ参加者が「突入」したか、憲兵が「内庭に入れ」たかの差は議論の余地があるにせよ、惨劇が憲兵分遣所の構内で行われた事は前記日本側の記録と一致しているし、確度の高い命中率から考えても、門を閉めるか包囲するかの手段がとられ、退路を遮断したとみても過言ではないだろう。
として、「憲兵がさしたる困難なしに全員逮捕できたはずである」「威嚇射撃がなかったのは殺意むきだしだ」などと評しています。
100名もの暴徒を「さしたる困難なしに」と言っている時点で正気を疑います。
このような「閉じ込め・一斉射撃をし・生き残った者を銃剣で刺殺」というストーリーは、提岩里の教会の事案でも喧伝されており、以下で朝鮮側の矛盾点を指摘しています。
「無抵抗の人を騙しておびき寄せた」という雑な推論
「おびき寄せて一斉射撃説」はありえません。
おびき寄せておいて、味方が巻き込まれるでしょうか?
朝鮮騒擾事件に於ける死傷数の件報告 (現代史資料26 321頁~)
大正八年九月二十九日 朝鮮軍司令官 宇都宮太郎三月十日平安南道孟山に於ける騒擾鎮圧状況
二、佐藤憲兵上等兵の戦死及び補助員監督の負傷原因は、両名にて主謀者を留置場に拘束せんとせし際暴徒より抵抗を受け、佐藤憲兵上等兵は之を防衛せんとし格闘中、暴徒の手にせる石を以て前頭部を強打せられその場に気絶したるを補助員監督これを認め同上等兵を抱き起こし之を助け出さんとする時、多衆の暴徒に押し倒されその下敷きとなりたる為、遂に身体の自由を失いたると同時に時機猶予すべからざる程度に切迫せるを以て勿論憲兵は全員室外に出てたるものと信じ発射したるに依り佐藤上等兵は胸部に銃創を受け、補助員監督は腎部に同銃創を受くるに至れり。
味方の銃撃によって一人が死亡し、1人が受傷しているのです。
姜徳相は「命中率が高い」ことから意図的におびき寄せたことを推認していますが、命中率を構成する要素は多岐に渡るのであり、このような推論はかなり雑でしょう。
また、使用された兵器は「三十八式歩兵銃」「二十六年式拳銃」です。
報告書では、兵器使用全76発中、即死51名、負傷後逃走中に死亡したのが3名、他、逃走した負傷者13名とされています。三十八式歩兵銃は48発発射されています。
※確認できた逃走者が13名であって、それ以外の者が居た可能性はあったでしょう。
三十八式歩兵銃の威力は8mmの鉄板、22センチのレンガを貫通するほどとwikiで書かれています。映像からも、それくらいの威力をうかがわせます。
つまり、1発で複数の人間を仕留めた可能性もあるということです。
分遣所の構造や暴徒らの動きがどうだったのかは不明ですが、たとえば一つしかない出入口をめがけて暴徒がなだれ込んだ、というような動きであった場合には目標は集中しますから、容易に命中させることができるでしょう。
実際、報告書も事務室にある暴徒に対しとしているので、狭い範囲に暴徒が固まっていた結果、命中率が上がったということに過ぎないのではないか。
命中率が高いことから即座におびき寄せたと理解するのは無理がありますし、そうだとしても、それは攻撃に出てる暴徒らに対処する戦術として許容範囲でしょう。
「無抵抗の人々を騙しておびきよせて…」というストーリーは、成り立ちません。
生存者の人数についても疑問な朝鮮側の証言と評価
そして、証言には生存者の人数にもおかしなところがあります。
報告書では、兵器使用全76発中、即死51名、負傷後逃走中に死亡したのが3名、他、逃走した負傷者13名とされています。
現代史資料26の475頁から始まる「朝鮮人側記録の一例」を再掲します。
孟山の虐殺
日本兵は群衆を分遣所の内庭に入れて門を閉め、一斉射撃によって一気に六十四人を射殺した。なかには、気息奄々ながらまだ命ある者を銃剣でとどめを刺すものであった。この中三人が辛うじて脱出した。
人数に日本の報告書とずれがあります。
集まった人数が約百名なら、朝鮮側の証言では67名となっており、足りません。
日本には67名を約100名と概算するような慣行はありませんし、死体を検分しているのですから、分遣所内での死亡者の数を日本側が間違えるはずがありません。
日本側の記録は「13名が逃げた」とある一方、朝鮮側は「3名」ですが、日本側の「負傷して逃げ出したが途中で死亡した3名」と混同しているのではないでしょうか。
姜徳相は、どうもこの朝鮮側の証言をベースに別の論稿を書いているようです。
朴殷植と姜徳相の朝鮮騒擾(三・一運動)への影響
姜徳相氏は日本側の報告書の信憑性の検証をまったくしていません。
その上、信憑性に疑義がある朝鮮側の証言なるものを無批判に採用しています。
これはおよそ学術的な態度ではありません。
ひたすらに煽動・プロパガンダをしているだけです。
「現代史資料25・26」には朝鮮騒擾(三・一運動)に関連する史料がまとまっていますが、たとえば朝鮮側の証言には「上衣を引き裂かれた」と叙述した直後に「私に襲いかかり、胸元をつかんで激しく殴りつけました」と言っているものもあります(現代史資料26・373頁)。
こういった違和感のある朝鮮側の「証言」には枚挙にいとまがありません。
このような認識が現在の韓国の常識になっていると思われると末恐ろしい思いがしますし、日本の近代史界隈では姜徳相氏の「評価」が通説になっているという現状があります。
韓国側の三・一節の研究:死者934人
今回の発表によると、当時のデモは日帝による統計はもちろん、歴史家の朴殷植(パク・ウンシク)氏が1920年にまとめた「韓国独立運動之血史」に記載がある1542件よりも多かった。資料を検討した高麗大のチョン・ビョンウク教授は「日帝の三・一運動関連統計には縮小傾向があり、歴史学界では朴殷植氏の記録を『最大値』としてしばしば引用してきた」とし、今回国史編さん委が集計したデモ件数は、これまで誇張だとされてきた朴氏の数値と最も近いという点でも意味があると指摘した。
このように、韓国側でもアカデミックな世界では検証が加えられています。
これは日本側の報告である「死傷者1500人程度」とあまり変わりありません。
一つだけ、「デモの件数」が朴殷植の「韓国独立運動之血史」よりも多いとされていますが、これは文末を見ると郡部の山上で行われた例を入れていることから、憲兵が認知していなかった・対処することを諦めたものが含まれているのではないかと思います。
ですから日本側の報告よりも多いのは当然であり、また、デモの件数が多いとしても、何ら問題はないでしょう。
自国民の研究実績をムンジェインは無視しているのですから、困ったものです。
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