無駄なリソースの消耗はもうやめよう。
教育勅語の原文・解釈文・行政上の運用・政府見解を整理した上で、意味のある言論の方向性を示していきます。
- 教育勅語原文の内容と所謂「(12の)徳目」
- 教育勅語の意味:明治天皇と国民の共有価値観
- 井上哲次郎の勅語衍義等を教育勅語原文と誤認させる動き
- 教育勅語等排除に関する決議・教育勅語等の失効確認決議
- 「日本国憲法と教育基本法によって失効」は事実上の意味
- 「日本国憲法98条1項の憲法の条規に反する詔勅だから」ではない
- 教育勅語の内容と扱いの政府見解:天皇の神格化など解釈運用の問題
- 教育勅語の中身は新教育基本法・道徳の学習指導要領で踏襲されてるのでは?
- 山県有朋、芳川顕正、元田永孚、井上毅らが起草、文部大臣に下賜、文部省訓令として公示
- まとめ:無駄なリソースの消耗はもうやめて意味のある建設的な議論へ
教育勅語原文の内容と所謂「(12の)徳目」
朕惟フニ我力皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我力臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我力國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨り朕力忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我力皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
教育勅語原文の内容は文科省のHP上でUPされています。
いわゆる「12の徳目」として箇条書きされてる画像が有名ですが、そこで触れられている内容はこの中に含まれているのが分かります。
現代的な読み下し文としては以下のものが分かりやすいので載せます。
教育勅語の原文や交付謄本としての文書は国立国会図書館が公開しています。
教育勅語の意味:明治天皇と国民の共有価値観
明治天皇の言葉として発出された教育勅語の意味内容について本来的には勝手に解説するのは畏れ多くて憚られるものですが、歴史化した今では問題ないでしょう。
また、後述するような詳細な解説とは異なり、書かれている文面からの一般的な穏当な理解を論じることは可能です。
朕爾臣民と倶に拳々服膺して咸其徳を一にせんことを庶幾ふ
最後の一文は「私も国民と共に、この徳を肝に銘じて常に忘れないようにして共有していきたい」という旨の明治天皇の決意です。
そして、この徳は「我が臣民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世々厥の美を済せるは此れ我が國體の精華にして教育の淵源亦實に此に存す」「是の如きは獨り朕が忠良の臣民たるのみならず又以て爾祖先遺風を顯彰するに足らん」としていることから国民の祖先が醸成してきたものであることが示されています。
また、「斯の道は實に我が皇祖皇宗の遺訓にして」とあることからは、それは歴代天皇の大御心でもある、つまりは国民の祖先と教訓・価値観を共有しているのだということが書かれています。君民共治の物語が語られていると言えるかもしれません。
※天皇と国民全般が必ず共通の祖先をもっているということではない。皇室の系統に連ならない神々の系譜があることは古事記・日本書紀でも記述されている。それでもなお共通の価値観があるとしていることに意義がある
これは文面と文章構造による理解なので、次項で取り上げる解説とは関係ありません。
井上哲次郎の勅語衍義等を教育勅語原文と誤認させる動き
さて、教育勅語には井上哲次郎らが書いた解説である【勅語衍義(ちょくごえんぎ)】があります。「官定解釈」と研究者には呼ばれているものです。他にも教育勅語の解釈本はありますがこれが有名です。
これらの解説文を教育勅語の原文と誤認させる動きがあります。
教育勅語? そんな過去の亡霊は、もういらないね|信州戦争資料センター #note https://t.co/bbB6MlcYyd 教育勅語を切り取って勝手な解説している人が多いので、改めて全文と、戦前の教育勅語解説本からの解説です。
— 信州戦争資料センター(まだ施設は無い…) (@himakane1) 2024年2月18日
https://t.co/5i0wrpJ06R
— 荻上チキ (@torakare) 2024年2月18日
教育勅語原文を読まず、歴史的背景や文脈も無視して、「戦後に受けそうなアレンジに歪曲された、居酒屋トイレに貼ってそうな説教もどき」が、何度目かのバズをしていますね。
基本的に、「12の徳目」と言い出した時点で、はい解散、案件だというのは、覚えておくと良いかと。
特に「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」の部分の解釈文が現代の価値観からは苛烈なものが含まれているので、反対者からはよく取り上げられています。
いわゆる「12の徳目」として箇条書きされてるものは、教育勅語の原文に書かれている内容を抜粋しただけであり、徳目の数を「12」にすることが適当か、それらを「徳目」と呼ぶべきかはともかく、書いてある内容の文面上の意味には外れがありません。
それは「戦後の価値観に沿って再解釈された意味内容が書かれているもの」ではなく、単なる一般的な意味の記述に過ぎません(出回ってるモノの中には解釈された記述が含まれているものがあるが)
対して、「勅語衍義」の内容は、まさに『明治の価値観に沿って解釈されたモノ』であって、それ自体は教育勅語本体ではありません。ただし、いくらかはその解説に基づいて教育行政に使われていた、という関係はあります。
このあたりの認識にズレを生じさせる言説は、不毛なリソースの消耗を導くだけです。
なぜこうした雑な主張が大手を振って歩いてるかというと、「教育勅語の復活を!」と叫んでる人らが彼らの主張の意味が理解できず、事実確定すら満足にできず、主張の当否を的確に論じることができない…と高を括られているからなんだろうと感じます。
教育勅語等排除に関する決議・教育勅語等の失効確認決議
第2回国会 衆議院 本会議 第67号 昭和23年6月19日
教育勅語等排除に関する決議
民主平和國家として世界史的建設途上にあるわが國の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となつている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜りたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、今日もなお國民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、從來の行政上の措置が不十分であつたがためである。
思うに、これらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的國体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる。よつて憲法第九十八條の本旨に從い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
右決議する
教育勅語等の失効確認に関する決議(第2回国会):資料集:参議院
昭和23年6月19日
参議院本会議教育勅語等の失効確認に関する決議
われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失つている。
しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。
われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすべきことを期する。
右決議する。
衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」、参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」があります。
誤解がありますが、「これらの決議によってはじめて教育勅語が失効した」ということではありません。参議院の名称に「失効確認」とあるのはそういう意味です。
そもそも、もともと教育勅語それ自体は法的拘束力の無いものであって、国務大臣の副署も無かったので帝国憲法55条2項の「国務ニ関ル詔勅」ではありませんでした。
教育勅語の扱いに関する整理として【国立教育政策研究所紀要 第143集 平成26年3月教育勅語から教育基本法へ From the Imperial Rescript on Education to the Fundamental Law of Education 安嶋 彌 YASUJIMA Hisashi】が詳しい。
「日本国憲法と教育基本法によって失効」は事実上の意味
「教育勅語は新憲法の公布と教育基本法によって失効した」と言われます。
松野博一文科大臣の平成29年当時の答弁でもそのように言及されています。*1
それは法的効果ではなく事実上の影響の説明としては正しい。
参議院での決議案の提案者である田中耕太郎は「教育勅語等の、教育の最高指導原理としての性格を明瞭に否定いたしましたのは、申すまでもなく新憲法及びその精神に則りましたところの、昭和二十二年三月三十一日、法律第二十五号の教育基本法であります」と説明しています。
それでもなお衆参両院で決議が為されたのは、未だに学校において教育勅語が教育の指針となっている学校があるという影響が残っている問題が認識されていたからです。
「日本国憲法98条1項の憲法の条規に反する詔勅だから」ではない
ただし、日本国憲法98条1項の「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」に反するから教育勅語は無効だ、ということではありません。
それは田中耕太郎も明確に否定しています。*2
第2回国会 参議院 本会議 第51号 昭和23年6月19日
田中耕太郎
尚ここにご注意をお願いいたしたい点がございます。それは本決議案が教育勅語等の失効を確認する性質のもので、教育勅語等が今始めて廃止せられたり、或いは排除せられたりするものでないという法理上の問題でございまして、我々の考えによりますると、教育勅語等は新憲法第九十八條第一項の中に規定していますところの憲法の條規違反の詔勅として無効となるものではございません。憲法の右の條項、即ち「この憲法は、國の最高法規であつてその條規に反する法律、命令、詔勅及び國務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」これが問題になつて参るのであります。憲法のこの條項は法規相互の関係を規律しておるのでございまして、それは今尚形式的に効力を持つていまする法令詔勅について適用されるのであります。教育勅語等につきまして、前に申し上げました通り、教育勅語を援用し、その他皇國の道に則る教育理念を示しておりました諸学校令がすでに廃止せられておりますから、教育勅語等は道徳訓に関する過去の文献に過ぎないものとなり、法規や國務に関する行爲ではなく、從つて憲法の右條項とは全く関係がなくなつてしまつておるのであります。勅語と新憲法との間の関係が存し得ないようにすでになつておりますことは、教育基本法や学校教育法は新憲法実施前に、即ち昭和二十二年三月三十一日から施行せられておりまして、その結果として、前に申上げましたように、それらの施行と同時に、勅語又はその精神を援用しておりました諸学校令中の規定は廃止せられ、それらの規定の中身になつておりましたところの勅語は法の内容ではなくなりまして、單に道徳訓になつてしまつたということが明瞭でございます。若し今日道徳訓である勅語の憲法上の効力を論ずるとしまするならば、それは論語やバイブルが憲法違反で無効であるかどうかということを云々すると同じく意味を成さないことになるのであります。かような理由からいたしまして、本決議案は勅語と憲法第九十八條第一項との関係に言及しなかつたのでございます。
教育勅語を参照・援用していた文部大臣訓令・文部省令等がありました。
それが教育勅語が公教育上の指導原理として機能していた実態です。
それらが廃止されたことでもはや教育勅語が規範性を失った。と説明されます。
ただし、それは教育勅語自体が法的拘束力を有していたという事ではありません。
その意味で「教育勅語が失効」という事の意味は、そうした行政規則の廃止を通じた事実上の効果を指しているにすぎません。
教育勅語の内容と扱いの政府見解:天皇の神格化など解釈運用の問題
「教育勅語本体の一部内容それ自体には現代でも通ずるものがある」という認識は政府側の人間からも度々発せられてきました。平成30年の柴山昌彦文科大臣の発言もそういう趣旨でした。
また、現在の政府見解も「教育勅語そのものの内容については今日でも人間の行いとして、道として通用する部分もありますけれども、教育勅語の成り立ち及び性格、そういう観点からいって、現在の憲法、教育基本法のもとでは不適切である」という昭和58年5月11日の瀬戸山三男文部大臣の見解*3を踏襲した上で、「学校において、教育勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切であるが、憲法や教育基本法等に反しないような形で教育勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」というものです。*4
教育勅語が現憲法下の教育として相応しくないとして排除されたのは、そこにおける記述の各部分を問題視していたのではなく、その全体が行政によって天皇の神格化・国家主義的な解釈運用が為されていた実態があったからでした。田中耕太郎も「各個の徳目の内容は別」と指摘していました。
第2回国会 参議院 本会議 第51号 昭和23年6月19日
田中耕太郎 ~省略~ 教育勅語は申すまでもなく、久しきに亘りまして、わが國の教育の唯一最高の指導原理としての國民の教育上最も重要なる役割をつとめて参りました。それは各個の徳目の内容は別といたしまして、主催者の訓示の形式を取つております結果といたしまして、天皇の神格化と相俟つて、往々極端な國家主義的に解釈されていたのであります。併し宗教と良心の自由が完全に保障せられました新憲法の下におきまして、教育勅語がその他の詔勅と共に、かような指導者原理としての性格を維持してならないことは当然の事理といわなければなりません。
要するに、教育勅語の記述のどの部分が悪いという問題ではなく、その教育行政における解釈運用の在り方が天皇の神格化・極端な国家主義に傾いてしまっていたことが、日本国憲法にそぐわないとされた、ということです。
教育勅語の中身は新教育基本法・道徳の学習指導要領で踏襲されてるのでは?
教育基本法(平成十八年法律第百二十号)
(教育の目標)
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
現行の教育基本法の2条には、「教育の目標」としてこのような書きぶりになっています。旧教育基本法と現行法の対照表を見ると、新法の方にはまるで教育勅語の内容が再移植されたかのような内容が追加されているのが分かります。
例えば、2条5号には「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」が追加されました。これは教育勅語の「進んで公益を広め」「博愛衆に及ぼし」に通ずるところがあります。
また、道徳の学習指導要領に目を通してみると、たとえば「親孝行」については、「父母,祖父母を敬愛し」といった言葉が相当するように見えます。*5
要するに、教育勅語の中身にあった徳目については、現行の教育基本法の条文や道徳の学習指導要領において既に踏襲されてるのではないか?
振り返ってみれば当たり前で、教育勅語は普遍的な道徳を説いたものなのだから、それと共通する内容が現代の学習指導要領に存在していても違和感はありません。
その中で敢えて「教育勅語の復活を!」とすることの意義は、あるんでしょうか?
山県有朋、芳川顕正、元田永孚、井上毅らが起草、文部大臣に下賜、文部省訓令として公示
教育勅語には、なに一つおかしなことは書かれていません。
— 杉田 水脈 (@miosugita) 2024年2月18日
児童虐待やDV、いじめをなくす為には、教育勅語を家庭や学校教育でしっかり教えることが一番の近道だと思います。その為にも学校の先生にこそ、知ってほしい内容です。 https://t.co/ZUK7WuwIB4 pic.twitter.com/iJDz5PwDKE
教育勅語は「明治天皇の言葉として発出された」扱いのものですが、実際には教育行政のために山県有朋、芳川顕正、元田永孚、井上毅らが起草したものです。文部大臣に下賜され、文部省訓令の一内容として公示されたという、他の勅語とも異なる異例の形式でした。
このような教育勅語の存在形式なので、戦前であっても問題視する見方があったということに向き合わなければならない。
教育勅語が「不磨の大典化」してしまい、「改訂する」ということが困難になった。なので「戊申詔書」や「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」を新たに発出したり、教育勅語の再解釈という手法を採るしかなかったなど、教育行政においての使い勝手が必ずしも良くなかったということが当時も認識されていました。
これは政府側の運用の問題であって、天皇による勅語という形式のせいというのは言い訳に過ぎません。「勅語」という形式が悪いのではなく、政治家と官僚による扱いが悪いという話。
本気で教育勅語の内容を大切にするなら、現行の教育行政、特に学習指導要領との平仄を考えることになるはずで、勅語衍義等の解説文との関係など、きちんとその存在形式や位置づけを論じるべきです。
※「勅語という形式の問題⇒新憲法での理念に反するから悪」という図式で語る者に要注意
まとめ:無駄なリソースの消耗はもうやめて意味のある建設的な議論へ
「教育勅語」にまつわる言論空間にはお決まりのパターンがあります。
「左翼側」「革新側」からは『憲法の理念に反する内容!人権無視!教育に用いるなどゆるされない!』『こんな危険なものを教育に使っていたとは戦前はおかしい!』といった事実誤認を含めた反応。
「右翼側」「保守側」からは『教育勅語の復活を!』という標語だけが口走るが、具体的な制度論は一切口にしない言いっぱなしの状況、戦後の教育行政や関連法規の存在を無視。左翼側の事実誤認や変な主張に対しても的確な反論が見られない。
ネット・SNS上でもこれらの空論が席巻して無駄なリソースの消耗で終わってるだけ。
こんな事はもうやめて、他の意味のある建設的な議論へ向かうべきでは?
以上:はてなブックマークをお願いします。
*1:第193回国会 参議院 文教科学委員会 第8号 平成29年5月16日など
*2:教育勅語から教育基本法へ From the Imperial Rescript on Education to the Fundamental Law of Education 安嶋 彌 YASUJIMA Hisashi
*3:第98回国会 参議院 決算委員会 第11号 昭和58年5月11日 ※この答弁の結論部分のみを強調する説明がネット上では多い
*4:第193回国会 衆議院 文部科学委員会 第10号 平成29年4月14日