あいちトリエンナーレ2019において「表現の不自由展」の展示が中止となった件。
愛知県の大村知事が「河村市長の抗議は行政による検閲で憲法違反」などと詭弁を弄しているので指摘していきます。
- 愛知県の大村知事「河村市長の抗議は行政による検閲で憲法違反」
- 津田大介も公権力側
- 検閲の場面と定義
- 名古屋市の河村市長による抗議はトリエンナーレ実行委員会会長代行として?
- 表現の不自由展との関係で弾圧したのは大村知事
- まとめ
愛知県の大村知事「河村市長の抗議は行政による検閲で憲法違反」
大村知事「河村市長の主張は憲法違反の疑いが極めて濃厚」…県には”京アニ放火”に言及した脅迫メールも | AbemaTIMES
「憲法違反の疑いが極めて濃厚ではないか。憲法21条には、"集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。"、"検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。"と書いてある。最近の論調として、税金でやるならこういうことをやっちゃいけないんだ、自ずと範囲が限られるんだと、報道等でもそうことを言っておられるコメンテーターの方がいるが、ちょっと待てよと、違和感を覚える。全く真逆ではないか。公権力を持ったところであるからこそ、表現の自由は保障されなければならないと思う。というか、そうじゃないですか?税金でやるからこそ、憲法21条はきっちり守られなければならない。河村さんは胸を張ってカメラの前で発言しているが、いち私人が言うのとは違う。まさに公権力を行使される方が、"この内容は良い、悪い"と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られてもしかたがない。そのことは自覚されたほうが良かったのではないか。裁判されたら直ちに負けると思う」
まず、トリエンナーレ全体は「民間運営の所に公金が支出されている」のではなく、「公的機関が運営している」という性質のものであるという前提が大事です。
津田大介も公権力側
※文化庁の予算は未執行。愛知県と名古屋市からもトリエンナーレに対して補助金が出ることとなっている。
実質的に愛知県がトリエンナーレ実行委員会を構成・運営しています。
芸術監督の津田大介もトリエンナーレ実行委員会から職務を委嘱されて行為しているので、いわば「権力側」なのです。
津田大介自身、「あいちトリエンナーレ実行委員会、表現の不自由展実行委員会、芸術監督である自分が」と言っているように、「外部委託」などということではなく、実行委員会の「中」に津田大介が入った上で行為しているのです。
大村知事は自分が口を出したら権力の介入だとか言ってますが、既に津田大介が権力側として作品を取捨選択しているのですから、まったく意味不明な事を口走っていることになります。
このような運営の場合に「検閲」の話になることはありません。
検閲の場面と定義
「検閲」とは、本来は民間が自由に出版・表現できるのに行政が禁止する場合です。
今回の話は「民間が美術館等の利用許可を得て自分の作品を展示した」場合とは異なり、「行政が主催する芸術祭において、行政が展示作品を選考して展示した」という場合なのです。
トリエンナーレ全体や「表現の不自由展」は行政の力によってはじめて展示可能になっているものであって、行政が自分らで運営している事業についてどの作品を展示するかを決めるのは法令に抵触しない限りは基本的に裁量の範囲内です。
検閲の定義に照らす以前に、そもそも検閲の話に成りえない場面だということです。
ある作品を採用しなかったからといってもそれは検閲ではないわけです。
実際、津田大介は芸術員がリストアップした約80組の作家を見て「ピンとこない。これはまずい」と方針転換しています。
また、表現の自由の保障とは、作品の公開が公権力によって妨げられないことを意味するという防御権に過ぎません。公権力に対して自己の有する作品を展示する作為を求めることはできません。表現の不自由展と津田大介(トリエンナーレ実行委員会)との間でどういう契約があったかは分かりませんが、展示する義務がトリエンナーレ側にあるとしてもそれは原則として契約関係に基づくものであって、表現の自由が根拠ではありません。
この前提に立った上で、検閲の定義は最高裁判例があります。
最高裁判所大法廷判決 昭和59年12月12日 昭和57(行ツ)156 税関検査事件
憲法二一条二項にいう「検閲」とは、行政権が主体となつて、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的として、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを、その特質として備えるものを指すと解すべきである。
今回、表現の不自由展で出展された作品は、発表前に審査されて禁止されたものではない上に、別の個人ギャラリーでの出展も禁止されているわけではありませんから、検閲の定義にはかかりません。
大村知事の言っていることが如何に支離滅裂かこれでわかるでしょう。
唯一、表現の不自由展の著作者らの人格的利益の侵害が問題になり得るに過ぎません(それも無理だと思いますが。)
名古屋市の河村市長による抗議はトリエンナーレ実行委員会会長代行として?
名古屋市:報道資料 令和元年8月2日発表 あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」について(市政情報)
名古屋市の河村たかし市長の抗議文は上記の通りです。
河村市長はトリエンナーレ実行委員会の会長代行でもありますが、個人名ではなく名古屋市長名が会長代行になっていますから、そのような立場、つまり身内からの要請でもあるという側面があります。
河村市長は「展示の中止を含めた適切な対応を求める」と言っているだけであり、中止以外の方法も予定していました。
これが「権力による弾圧」とされる意味が分かりません。
表現の不自由展との関係で弾圧したのは大村知事
さらに、大村知事はトリエンナーレ実行委員会に諮って中止を判断したのではありません。大村知事(トリエンナーレ実行委員会の会長としてだろう)と津田大介芸術監督とで相談して中止を決定していますが、こういう場合の判断プロセスとして非常に不可解です。通常は実行委員会の総意として機関決定するでしょう。
大村知事の中止理由も「安全上の懸念」であり、河村市長の抗議によるものという説明ではありませんでした。
むしろ表現の不自由展との関係で「弾圧」したのは大村知事であり、その張本人が河村市長ら外部に責任を擦り付けようとしているだけです。
まとめ
大村知事の記者会見の発言はとにかく意味不明・支離滅裂なものが多すぎます。
補助金支出についてもいいかげんなことを口走っていたので後刻記事をUPします。
以上