一次ソースを確認するのが大切
- 『正力松太郎が朝鮮人暴動鎮圧のため「こうなったらやりましょう」』
- 森五六「僕の不在中『もうこうなったらやりますゾ』と言ったという」
- 「思想」誌掲載の松尾尊兊『関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)』
- 「日本歴史」(吉川弘文館)256号に1968年の森五六・山本四郎回顧談
- 正力の「こうなったらやりましょう」は何の行動を意味しているのか?
- まとめ:正力の発言が存在したか?あったとして朝鮮人暴動の鎮圧のためか?
- 加藤直樹「居合わせた朝日新聞記者が正力の「こうなったらやりましょう」と回想」という歪曲
『正力松太郎が朝鮮人暴動鎮圧のため「こうなったらやりましょう」』
速報◆3日、警視庁官房主事・正力松太郎(38)が戒厳司令部を訪れる。「朝鮮人暴動」の鎮圧のために軍を動かしたい考え。「こうなったらやりましょう」と鼻息荒く意気込んで言うと、戒厳参謀長・阿部信行(47)が「正力は気が違ったのではないか」と返す。 =百年前新聞社 (1923/09/03)#それぞれの大震災
— 百年前新聞 (@100nen_) 2023年9月3日
2023年9月にこのような投稿があり、大拡散されました。このアカウントは個人で運営されているようで、発信内容は新聞記事に現れていないものも含みます。
曰く①9月3日の夜に、②正力松太郎が戒厳司令部を訪れて「朝鮮人暴動」の鎮圧のために軍を動かそうとして「こうなったらやりましょう」と発言し、③戒厳参謀長の阿部信之が「正力は気が違ったのではないか」と言ったという内容です。
前回記事で正力松太郎の警視庁での発言とされるものの出所の信憑性の検証と現代の情報歪曲について説明しましたが、今回のものも同様に検証していきます。
森五六「僕の不在中『もうこうなったらやりますゾ』と言ったという」
関東大震災の思い出--一戒厳参謀の日記と回想 森 五六,山本 四郎 編
正力松太郎の発言とされるモノの元ネタは、戒厳参謀だった森五六の回想に拠ります。
9月3日の日記に続いてその日の回想をした続きで以下の記述があります。
この日のことと思うが、僕の不在中、警視庁の某部長が来て朝鮮人騒ぎの話をし、腕をまくって「もうこうなったらやりますゾ」と言ったという。警視庁でも朝鮮人不穏のデマを信じていたらしい。
つまり、①日付は明確でなく、②発言者も「警視庁の某部長」であり、③森五六本人はその場におらず、④誰かが「正力がそう言っていた」という事を森氏が聞いた、という伝聞情報です。
※関東大震災の発生当時、警視総監は9月5日まで赤池濃が留任し、幹部は正力松太郎官房主事、馬場一衛警務部長、笹井幸一郎保安部長、小栗一雄衛生部長、木下信刑事部長、緒方惟一郎消防部長の陣容であった(警視庁,1925)。参考:内閣府中央防災会議 第3節 警察の対応
上掲は1969年の「日本歴史」(吉川弘文館)256号からですが、森五六による正力の当該発言について書いてある書籍で最も古いものは別にあります。
「思想」誌掲載の松尾尊兊『関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)』
阿部参謀長の発言も含めたものになると、元ネタは「思想」昭和三十八年九月号に掲載されている松尾尊兊の『関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)』という論文です。
また警官も手をこまねいていたわけではない。当時の戒厳司令部参謀森五六氏は、正力松太郎警視庁官房主事が、腕まくりして司令部を訪れ「こうなったらやりましょう」といきまき、阿部信行参謀をして「正力は気がちがったのではないか」といわしめたと語っているが(一九六二年一一月二一日談)、勇将の下弱卒なしとか、景観の中にも率先して朝鮮人を虐殺した事実がある。
昭和37年という、関東大震災から39年後に行われた当時75歳の森氏の談話が元ネタとする松尾氏の記述が最初のものとして見つかります。
※この談話は森が京大人文科学研究所で講演した内容とするジャーナリスト佐々木奎一のブログが見つかる
「日本歴史」(吉川弘文館)256号に1968年の森五六・山本四郎回顧談
これとほぼ同じ内容が、前掲の震災から45年後の1968年6月の回顧談において語られたということです。松尾論文と異なるのは、森氏が不在時の発言で他人から聞いた話であるということが語られたということと、阿部信行参謀長の発言についての言及が無いことです。
この回顧談の性格については冒頭に説明が為されているので引用します。
関東大震災の思い出--一戒厳参謀の日記と回想 森 五六,山本 四郎 編
九月一日は、一九二三年(大正十二年)の関東大震災の四十六周年目である。大震災について書かれたものは、すでに尨大な数にのぼる。たとえば、みすず書房『関東大震災と朝鮮人』(現代史資料6、以下『震災』と略称)の「関東大震災関係文献目録」(六三三~六四六ページ)のごときがそれである。同書には、また軍関係の資料もかなり収められている。したがって、軍関係の全般的な動きについては、同書を参照されたい。
ここに紹介するのは、森五六氏(~省略~)の日記中、主として戒厳参謀に在職した期間(九月二日~十一月十六日)のものと、同氏の回想である。
日記は市販の大判ノートに書かれている。横書きで、左方の四分の一が月日・天候・曜日・宿泊場所、右方の四分の三が本文で、本文は多忙のこととて数日分一括して書かれたらしい箇所もあり、かつ大綱のみである。したがって、森氏の回顧談の方が、実相をよく伝えていると思う。
~省略~
森氏の日記および回想は、その職務の関係上、かならずしも包括的なものではない。しかし、震災の善後処理に直接たずさわった当事者としての体験は、貴重なものを含んでいるはずである。また、読者のなかには、日記にある朝鮮人問題の箇所について、もっと詳しい感想を期待されるであろうが、森氏自身も、騒擾の最盛期には市中巡視の機会も少なく、印象にのこるものがないようである。ただ、編者がこの事件について専門的に研究したわけでないので、十分問題をひき出しえなかったうらみのあることは否定しないし、この点は読者にお詫びしたい。編者の注は〔〕で示した。
森氏は満八十二歳、~省略~高齢にもかかわらずお元気で、記憶力もおどろくほど確かである。この談話は、昨年六月一・二日に行われた。それを山本が筆記して原稿にまとめ、森氏の校閲を経て完成した。回想談にはみすず書房刊『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』を参照していただいた。
- 正力の発言とされるものは日記に書かれた内容ではなく回想談
- 編者の山本氏が森氏に話を聞いた内容が筆記され、森氏の校閲を経ている
- 回想談時に みすず書房の『現代史資料6・関東大震災と朝鮮人』を参照させた
1962年と1968年の回想談で、後者で伝聞情報だったという違いがあることについて。
後者の時点で森氏は既に何回もこの話はしているはず。その間に「自身が聞いた話」が「他者から聞いた話」に変質するというのは、加齢を考慮しても、その場限りの記憶違いとは考えられない(逆なら「舌足らず」と説明することも無理ではない)。前者の話が講演でのものだったとすると、多少の情報の削ぎ落しがあっても不思議ではない。特に後者は山本氏が聞いて、その後に森氏が書き起こされたものを校閲していることから、「他者から聞いた話」であることにつき森氏が再確認して承認しているので、信憑性が高いと言える。
なお、この回想録の抄録が【朝鮮人虐殺に関する知識人の反応2/緑蔭書房/琴秉洞】に戦後編の「戦前に書かれ戦後に刊行されたもの」として採録されています。
※本書冒頭の琴秉洞(クムビョンドン)による解説の項での森五六回想録の説明中「山本四郎氏が森元参謀に日記に書かれていない部分を回想で補ったもので」とあるが、「森氏に回想で補わせた」の趣旨か、日記中の句読点を山本氏が補ったことと混同していると思われる。
正力の「こうなったらやりましょう」は何の行動を意味しているのか?
そもそも、正力が言ったと言われている「こうなったらやりましょう」「もうこうなったらやりましょうゾ」とは、いったい何の行動を意味しているのでしょうか?
それが分かるような周辺情報が一切語られていないというのも妙です。
戒厳令の施行が決定されたのは2日午前9時の臨時閣議なので、仮に3日に軍の出動を促したということならば、それは朝鮮人の保護・収容のために軍が関与したり、軍の施設を使わせたり、自警団らの武器差押えなどの可能性も考えられます。
内閣府中央防災会議 第2章 国の対応 第1節 内閣の対応
4日、山本内閣は閣議において、震災について「不取敢」(とりあえず)
次のような事柄を決定又は確認した(1923年9月4日閣甲第143号「震災ニ付テノ処置ヲ為スコ
トノ件」)。
1.千葉県習志野及び下志津演習廠舎に1万5千人を収容すること。
2.陸軍のテントは戒厳司令官と協議の上で取り計らうべきこと。
3.バラックは工兵に建築を托すこと。
4.材料は救護事務局において徴集、支給すること。
5.米さえあれば炊き出しができること。
6.近傍の師団より軍隊の食糧パンを給与すること。
7.焼残米は食用とする見込みがないこと。
8.宮城前のテント設置に至急着手すること。
9.暴利取締は厳重に施行すること。
10.警察の力にて朝鮮人を一団として保護、使用すること。
11.軍隊において自治団、青年団の兇器携帯を禁じ、必要の場合には差し押さえること。
12.臨時火葬場を設置し、機宜の処置として軍隊の力で戒厳的衛生の処分に任ずること。
13.近傍の軍隊より軍医・衛生隊を差遣するよう取り計らうこと。赤十字社を派出すること。
14.火災保険金の支払が可能かどうか審議決定すること。
15.銀行を開くについては軍隊の援助を求めること。
16.皇室より宮城前のほか、新宿御苑、深川宮内省用地等を開放するとの思召があったとのこと。
17.土地の選択は戒厳司令官に任せること。18.朝鮮人や定住地を持たない者は習志野に集めること。
19.外国人は大公使館員に限りパンを供給すること。
20.宮内省の木材は一般的に材料として下賜すること。
21.朝鮮総督、台湾総督及び関東長官へ実情及び経過を電報すること。追って詳報すること。
22.下関において朝鮮人入国を拒絶すること。朝鮮総督にこの旨を通報すること。
23.朝鮮人保護の方法を講じ、一団として習志野に安全に居住させ、任意労働に従事させる方法を講ずべきこと。
24.金融機関の一か月限支払臨時停止(モラトリアム)施行について関係省において攻究すること。
軍に関係する内容について太字にしてみましたが、これだけの軍の「行動」が決定されています。
なお、2日夜には政府内で「朝鮮人暴動」が流言蜚語だったという認識が固まっており、3日早朝には政府から『「鮮人の暴動」を煽るな』という旨の約3万枚のビラを撒いた上、新聞社にも伝えていたと思われ、実際に東京日日新聞3日の号外で報道されています。正力も2日夜10時頃には「その来襲は虚報なることが判明いたしました」と述懐しています。
※他方で3日朝に内務省警保局から各地方長官への電報で「朝鮮人暴動」を取締れ、とする伝達がなされているが、これは2日に原文書が船橋送信所宛てに発送されていた模様。
まとめ:正力の発言が存在したか?あったとして朝鮮人暴動の鎮圧のためか?
- 戒厳司令部での正力の発言とするものは戒厳参謀の森五六の回想談がソース
- 日付は不明確だが3日という前提で回想されている
- 「もうこうなったらやりましょうゾ」の対象となる行為は不明
- 発言者は「警視庁の某部長」であり、当時の部長職は多数あった別人が就任しており、正力の役職は「官房主事」だった
- 「日本歴史」の回想談では森五六本人はその場におらず、誰かが「正力がそう言っていた」という事を森氏が聞いた、という伝聞情報になっている
元となった発言を鑑みると、このような情報から正力がそのような発言をしたと断定するのは留保が必要であり、また、仮に当該発言をしていたとしても、「3日夜に朝鮮人暴動の鎮圧のために言った」と導くことは無理がある、という指摘が可能です。
この話は見ての通り、昭和の古い年代の話です。
ところが、現代ではこれらの情報源を隠した上で、発言の背景情報が歪められて伝えられている例があります。
加藤直樹「居合わせた朝日新聞記者が正力の「こうなったらやりましょう」と回想」という歪曲
1967年生まれの加藤直樹氏の著作で2014年に出版された【九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響】でも本稿で扱った正力のものとされる「こうなったらやりましょう」について触れていますが、同時に石井光次郎氏の回想に出てきた正力のセリフ「触れ回ってくれ」も紹介されています。
が、これらの発言について参考文献が提示されていませんでした。
本書は各項での参考文献リストが掲載されている形式なので、これは不自然極まりありません。
さらに、著者の加藤氏の発言として以下の記述が見つかります。
関東大震災100年 朝鮮人虐殺を忘れない 加藤直樹さん | ふらっとNOW 一覧 | ふらっと 人権情報ネットワーク
後に正力はこう述べています。
――朝鮮人来襲騒ぎについて申し上げます。朝鮮人来襲には警視庁も失敗しました。大地震の大災害で人心が非常に疑心暗鬼に陥りまして、1日の終わり頃から朝鮮人が不穏な計画をしていると風評が伝えられ、私はさては朝鮮人が来襲すると信じるに至りました。
さらに、流言を真実だと信じた正力は軍でも取り締まりをしようと軍の司令官と打ち合わせをしています。居合わせた朝日新聞の記者が、正力が「こうなったらやりましょう」と腕まくりをして叫んでいたと回想しています。ところが時間が過ぎていく中で、「朝鮮人来襲」などというものはないと次第に正力にはわかってきます。
「回想」していたのは森五六であり、「朝日新聞記者」ではありません。
森回想談の中に、当該発言時に朝日新聞記者が居あわせたという記述はありません。
※「日本歴史」の森五六の回顧談では、9月5日に任務が変わったことに触れた項で、5日か6日頃の出来事として「また、この頃、新聞記者が無断で戒厳司令部室へ入って来たことがあり、僕は阿部参謀長から、新聞記者の取扱いが悪いと注意されたことがある。」と書かれている。
これは講演会における発言のようですが、講演会だとこのように口が滑ってしまい正確性を欠く(というレベルを超えてると思うが)ことになりがちだと考えるとするならば、やはり先述の森五六の回想談の内、どちらの信憑性が高いかを考える材料になるでしょう。
関東大震災の「朝鮮人虐殺」について政府側を追及する者らの情報には、常にこういった現象が付きまとっていますが、こうした情報の変質は、いったいなぜ起こってしまうのでしょうか?
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