「優生学」と「優生思想」について、アップデートされていない理解が横行してるので整理します。
- 優生思想の定義とは
- 優生学の定義とはEugenics:Eugene「よい血統」
- ナチスなどによる伝統的優生学の歴史と新優生学
- 遺伝子治療は優生学か
- 優生思想の実現方法が進化したことでの定義の変遷
- 優生学と優生思想の違い
- そして「遺伝子治療は許されるのか」へ
- 優生思想と優生学の定義と倫理学的議論の整理
優生思想の定義とは
優生思想とは「何らかの秀でた特質を有する者の遺伝子を保護し、逆に劣った特質を有する者の遺伝子を排除して、優秀な子孫を後世に遺そうという思想」というのが公約数的な理解です。
学問的な定義があるわけでもなく、優秀な配偶者と生殖すれば優秀な子孫が生まれる、というような考え方が、古くプラトンの時代にはあったとされていたものについて*1、1883年にフランシス・ゴルトンが定義した「優生学」という造語に由来した言葉です。
上記の定義に当てはめれば、実は現代でもこの考えに該当する行いが存在していることに気づくでしょう。
優生学の定義とはEugenics:Eugene「よい血統」
さて、「優生学」というのはEugenicsギリシャ語でいうEugene「よい血統」を意味するのですが、フランシス・ゴルトンのいとこであるダーウィンの自然選択理論をもとに、人類の遺伝的改良を目的とする「科学」と言えます。*2
そこには消極的優生学=劣等遺伝子排除と積極的優生学=優秀遺伝子保護の側面がありますが、人類や一定の民族集団のバージョンアップを目的として、政策として実施されてきた、という歴史があります。
つまり、そこには「強制性」があったと言え、その対象は「人」の存在単位でした。
これが19世紀後半から20世紀中盤までの「伝統的優生学」の定義であると言えます。そして、それがそのまま「優生思想」の理解を形成していきました。
しかし、近年はそれと異なる展開が生まれています。
ナチスなどによる伝統的優生学の歴史と新優生学
伝統的優生学として強制断種や安楽死がナチスによって行われてきたことが、優生学ひいては優生思想の「邪悪さ」として論じられることがあります。
※安楽死は優生学とは関係なく、ナチスと絡めて悪魔化されたのは20世紀中盤以降であるという指摘がある*3
強制断種については世界各国で行われましたし、日本でも、優生保護法に基づくらい予防法によってハンセン病患者の強制隔離・強制断種=不妊(にさせる)治療が行われるなど、優生学に基づく政策が行われてきましたが、同法は1996年に廃止、1960年頃以降の強制隔離は違憲との司法判断が出ています。
とはいえ、優生学的発想に基づいて何らかの強制性を伴う人権侵害を行い、それが正当化されている状態というのは、今でも残存しています。
しかし、近年は科学の進歩により、遺伝子に直接アプローチした方法で、その者の自発的な意思に基づいた「治療」を優生学と言及する「新優生学」の概念が生まれてきました。
遺伝子治療は優生学か
『バイオエシックス』誌(1993年)に掲載された、英国マンチェスター大学の生命倫理学者ジョン・ハリスによる「遺伝子治療は優生学の一形態か?」と題された論稿が論争を巻き起こしました。
遺伝子操作と〈生の質〉の個体モデル 霜田 求 での引用からの引用
優生学を「優良な子孫を産み出すのにふさわしい」知識や技術という意味で解するなら、遺伝子治療が優生学的であるとしても何ら問題はないし、「遺伝的弱者(=遺伝病者または保因者)に子を産ませない」という国家による政策と解するなら、遺伝子治療はそうしたものとは無関係である。何れにせよ両者を結びつける議論には説得力はない。(Harris 1993:178-9)
障害の発生を事前に防止することは、現に存在する障害を除去したり修復したりする治療的介入と同様、技術的に可能である場合にそれを行うのは医療者の責務である。そのことは、胎児における選択的中絶や重い障害を持って生まれてきた新生児の安楽死だけでなく、着床前での遺伝子操作にも当てはまる。遺伝子レヴェルでの「異常」や「欠陥」を除去したり修復することは、それが当事者(親)の自発的意思によるものである限り、「障害者の人格の価値を貶める」といった批判はあたらないし、障害者差別とは無関係である。そもそもハリス自身、「すべての人は、障害があるとないとに関わりなく同じ道徳的地位(moral status)を共有している」という見解を擁護する立場にあり、障害者差別の意図は微塵もない。(Harris 1993:182)
要するに、遺伝子治療という技術的進歩によって、当事者の自発的意思に基づく優良な子孫を産み出す手法が選択肢として表れた結果、それが優生学であるか否かはさておき、【排除】であるとして非難を受けるのは筋違いだ、と主張してるのです。
これに対してS・M・レインダールやアメリカのD.レスニックから、それが自発的意思に基づいたものだとしても、倫理的な問題があるという反論がなされます。
レスニックはそれは「滑りやすい坂」であるとし、最初はそのようなものから始まっても、最終的には種々の目的のためのヒト遺伝素質の改造(=強制性を伴う積極的優生学)へ導くであろうと危惧します。
レインダールは「障害」は個人レベルの問題ではなく社会レベルの問題であり、「障害とは〇〇である」と客観的(=医学的)に定義することができるという発想そのものが障害者に対する差別を形づくるとして、自発的な意思によるものであろうとも許されないと指摘します。
こうした言論があって、現在の遺伝子治療の議論のベースになっています。
結局、遺伝子治療が優生学に属するのかは争いがある議論状況だと言えるでしょう。
優生思想の実現方法が進化したことでの定義の変遷
かつては優生思想の実現方法は限られていました。
配偶者を選ぶか、劣った者を殺すか。
それが優生学が出現し「科学」の装いを身に付けたのちには、科学に基づいて「強制断種」などの手法が行われてきました。優秀な遺伝子の確保の手法は確立していませんでしたから、基本的に「排除」の論理が先行していきます。
このように、かつての優生思想では「劣等遺伝子の排除」「人の排除」とがほぼ不可避的に結びついていたのです。
しかし、遺伝子治療という手法によって、それらが分離可能な可能性が出てきた。
優生思想の実現方法が進化したことで、国家政策として強制性の契機があったものから、民間における自発的な意思に基づく「優生思想」の実現の途が開かれることになったために、その用語法に揺らぎが生じたと言えます。
現代の市井における「優生思想」や「優生学」の理解が【混迷】しているのは、伝統的な理解が根強く残っており、このような展開が見過ごされてきたからでしょう。
優生学と優生思想の違い
「優生学と優生思想の違いとは何か?」
いくつか表現の仕方はあると思いますが
- 学問として定義されているものか定義されていないかの違い
- 優生思想は優生学を包含する概念
- 伝統的優生学の思想という意味では同じだが、それに留まらない実質がある
- 定義されていないので、違うと言っても同じと言ってもあまり実益が無い
こんなような説明の仕方に出会ったとしても、それは間違いでは無いでしょう。
専門家の責任でもありません。人類の営為によって徐々に形作られてきた理解ですから、混乱が生じるのは仕方がありません。
そして「遺伝子治療は許されるのか」へ
たとえば、次世代への遺伝確率が50%の常染色体優性遺伝形式をとる非症候群性の感音難聴について、遺伝子治療の手法が確立したとしましょう。
それは、「許されない優生思想」なのでしょうか?
仮に、「新型コロナウイルスに恒常的な免疫を持つ遺伝子を取り込む手法」が開発されたとしましょう。ただし、そのような免疫を持っている人から取り出す必要があり、そのような人は非常に少ない、という制約があります。
※こち亀で両津勘吉だけが持ってる最強の免疫を接種しよう、という回みたいな感じ。
そのような免疫を有する人に対してお願いをして協力してもらう代わりに利益となるような扱いをするのは、「許されない優生思想」なのでしょうか?
それとも、「そもそもそれらは優生学≒優生思想ではない」のでしょうか?
「着床前診断」と呼ばれる、男女の産み分け方法や、遺伝子異常の事前検知の手法など、すでに実施されている方法がありますが、これも全て「優生思想だから」「良くないから」ダメなのでしょうか?
参考:「良い」受精卵のみを選別 全染色体情報を調べられる着床前スクリーニングは福音なのか? : yomiDr./ヨミドクター(読売新聞)
優生思想と優生学の定義と倫理学的議論の整理
- 伝統的優生学とその実践としての強制政策を優生思想と定義し、個人の自発的な「もの」については優生思想とは呼ばないという用法を確立させる
- 優生思想は両者を包含するものとして用法を確立させ、その中身=実質をみて倫理的妥当性を議論していく
言葉の扱い方としてはこのような方法があり得ますが、この用語法の混迷はしばらく続きそうです。
少なくとも言えることは、「優生思想か否か」、「優生思想だからダメだ」のような言及の仕方では、21世紀の遺伝子治療の妥当性に関する議論が深まることはありません。
ここで示したような「優生思想」「優生学」の展開を踏まえた上で、来るべきときに、倫理学的議論の土壌が一般レベルでも整うことを期待し、筆を置きます。
以上