事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

政府の海外邦人保護義務は人権問題?:安田純平の自己責任論と国家の統治権

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「日本政府には海外邦人を保護する義務がある」

安田純平氏の例などにみられる不用意な行動が原因となったテロリストによる拉致拘束の事案において、ここでいうところの「義務」について、誤解が生じています。

結論から言えば、この場面では国家の統治権の話です。
人権を守るために邦人保護義務があるというわけではないということです。

おそらく、ほとんどの人が理解せずに無自覚に使っている言葉だと思います。

富井幸雄教授の【在外邦人保護義務と憲法―外交的保護と邦人救出―】をものさしにしながら私見を述べていきます。

ここでいう「義務」の意味は何か?

私の結論は、ここでいう「義務」は、【国家が国家自身の存在を維持するために不可避的な行為・態度】という意味の「義務」だということ。

国家の三要素は、土地・人・主権です(この順番でなければならない)。

そのうちの「国家としての人」が侵害されたことが、ここでの問題です。

ですから安田事案で言えば、日本国と安田純平は親子関係ではなく、安田純平は国そのものと理解することになります。

たとえばアメリカの在外邦人救出のための軍隊の派遣のケースでの判例*1では「政府の偉大な目的と義務は、国外だろうと国内だろうと、政府を構成する人民の生命と自由と財産を保護することにあり」と指摘しているように、国民を国家の一部とみなすことはおかしな話ではありません。

「義務が無い」と「義務を果たさずとも問題無い」の差

「国そのものの人」なので、日本政府が安田氏を助けないという判断をしたとしても、裁判で敗訴するという意味での非難がされることはありません。国家の裁量・政治的判断にかかる話ということになります。

ここでの意味における「義務が無い」と「義務を果たさなくても問題ない」は異なります。

通常の「法的な義務」の場合、それは裁判上の救済を求める余地がある具体的権利義務の話です。この話で言えば、義務を果たさないということは、ただちに問題である、ということになります。

そうでなければ、単にその判断が道義的に非難されるか否か、という意味において問題視され得るという話に過ぎません。

安田純平事案における国家の保護義務と言うときには、具体的権利義務という意味での義務の話ではありません。

「国の保護義務」が、通常の意味(=具体的権利義務)での「義務」ではない以上、安田純平側が「国家に保護される権利」を主張することもできません。少なくともそのような具体的権利は無いということは多くの人は理解できることでしょう。
※ただし、法的に抽象的な義務である場合が在り得る。その場合には「法的根拠のある非難」が可能だとする見解があります。後述。

自衛権の話か?

これは違うのではないでしょうか?

個別的自衛権は外国勢力からの武力攻撃に対し、実力をもってこれを阻止・排除する権利です。そして、その行使要件は現在は以下のように閣議決定されています。

  1. 我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
  2. これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
  3. 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

安田氏は拉致拘束されていましたが、「武力攻撃」があったと言えるか不明です。

自衛権の話にしてしまっては、海外で邦人が拉致拘束された全事案について「邦人保護義務は発生しない」ということになってしまい、不都合でしょう。

なお、国連憲章51条に言う自衛権も武力行使要件があるため、この意味における自衛権であるという理解もかなり疑問です。

もっとも、そのような限定の無い自衛権を観念することは可能だと思います。

外交的保護権について

ここで、安田純平事案は外交保護権(外交的保護権)の話では?と疑問が生じます。

外交保護権の定義は必ずしも明確なものではないです。

ただ、現代の国際社会で通用している公約数的な理解は【自国民が外国の領域において外国の国際法違反により受けた損害について、国が相手国の責任を追及する国際法上の権利】とされています。

「国際法上の権利」ということから、通常は裁判による救済が受けられるという前提があります。
外交保護権行使の要件などの細かい点には立ち入りません

注意すべきは、外交保護権は国民の権利ではなく「国が相手国に対して有する権利」だということです。当該個人は法的主体性がありません。

つまり、外交的保護権は国際法上は人権ではないと解されています。

このあたりは富井幸雄教授の【在外邦人保護義務と憲法―外交的保護と邦人救出―】に詳しく、しかし明快に書かれています。

安田純平の自己責任論は外交保護権の問題か?

さて、シリア国内の、政府と無関係な武装テロリストに拘束されている邦人を保護しようとするときに、「外交」が観念できるでしょうか?そういう相手に対して何か言ったところで、裁判上の救済が受けられるでしょうか?

テロリストとの交渉を「外交」と評する慣習があるとは思えません。

テロリストに対して裁判上の救済を求めることは不可能です。

こう考えると、安田純平事案は少なくとも上記のような意味での外交保護権とは異なる話であると言えます。外交保護権は韓国の「徴用工訴訟」(本当は募集した出稼ぎ人に過ぎないが)でもあらわれたように、請求権に関する救済も含みます。

ただ、広い意味での外交保護の話としての邦人救出であると言うことができます。これは富井教授も指摘しているところであり、原始的・伝統的な外交的保護権は以下のような観念です。

そもそも外交的保護という言葉は必ずしも厳密ではなく、外交官などに限定されず、軍その他政府機関による保護も含み、また外交の行為との境界は明確ではなく、したがって本国による邦人保護機能の全体とも観念し得る

以下ではそのような広い意味での外交保護=邦人救出の話として論じていきます。

邦人保護義務の根拠・作用は何か?

国家の対外国に対する関係での話と、日本国内における国家対国民との関係の話に分けていきます。

日本国の外国勢力に対する関係での邦人保護義務の性質:統治権の発露

結局のところ、安田純平事案にみられる海外法人保護義務は、それが広い意味での外交的保護権であるか否かはともかく、国家の統治権に基づくものと言わざるを得ません。

「国家の邦人保護義務」と言う際、その「義務」は「人は自分の身体を大切にしなければならない」等の姿勢・態度と同じ意味に過ぎません。つまり国家自身の問題です。

以上に述べたことからは、邦人保護「義務」は不可避的なものですから、どんな場合にも発生していると理解することになります。

国vs国民という図式で表されるような他者に対する関係での「義務」ではない以上、「義務」違反でも問題ない場合があるということになります。それは国家の政治判断・裁量の領域の話だからです。

安田純平事案の場合には、ただ単に「その者が非難を受けるかどうか」の話と、国家の保護義務が(自己責任等により)なくなるか否かの話は分けた上で、国家の保護義務は無くなりはしない、ということになります。

国民が国家に保護を求める権利があるのか?

富井教授は「国民は国家に庇護や保護を求める権利があるかが明確にされなければならない」という問題意識(つまり、日本国内における国家vs国民との関係の話)から、以下のように主張します。

在外邦人保護義務と憲法―外交的保護と邦人救出―

小括

外交的保護権は国際法上国籍国の自国民保護義務に対応するものであって、憲法上は政府の一般的な義務といえる。しかし、憲法に国民の具体的な請求権を読むことはできず、また、具体的な行政法の規定もないから、法義務としてその行使を請求できる権利と認められるまで構成することはできない。不作為の違憲、あるいは違法確認の訴訟も認められない。ただ、抽象的な義務は認められ、憲法13条を根拠に、政府の不合理な不作為は処断することはできる。邦人救出も同様に考えられる。しかし、どちらとも日本の政策や措置は外交にかかわる高度に政治的な判断を要するものなので、不作為も含めて司法的に糾弾する事は難しい

「政府の不合理な不作為は処断することはできる」という言い回しに込められた意味は、定かではありません。ただ、何か裁判で訴えることはできないし、個人に請求権があるわけではないけれども、法的な背景を持つ非難が可能であるという意味、先に述べた「法的根拠のある非難」と同じ意味だろうと思われます。 

私は、このような憲法13条を根拠にした抽象的な義務を観念することに意義があるのか疑問ですが、一応は在り得る見解でしょう。

安田純平と一緒に人質になった渡辺修孝の訴訟

イラク人質事件で安田純平氏と一緒に人質になった渡辺修孝氏は、国を相手取って「自衛隊を撤退しなかったこと」を理由に人格権侵害で国を訴えていました。

渡辺氏は大要、「憲法前文、9条、13条に基づく平和的生存権が自衛隊をイラクから撤退しなかったことで脅かされた」と主張していました。

しかし、裁判所は否定しました。

東京地方裁判所 平成16年(ワ)第12130号、平成17年(ワ)第7343号

しかしながら,憲法前文は,憲法の基本的精神及び理念を表明したものであって,憲法前文第2段のいわゆる平和的生存権は,理念ないし目的としての抽象的概念であって,それ自体具体的な意味内容を有するものではなく,しかも,それを確保する手段及び方法も転変する複雑な国際情勢に応じて多岐多様にわたって明確にすることができないように,その内包は不明瞭で,その外延はあいまいであって,個々の国民の権利ないし法的利益としての具体的内容を有するものではない(最高裁平成元年6月20日第三小法廷判決・民集43巻6号385頁参照)。
また,憲法9条も,国家の統治機構ないし統治活動についての規範を定めたものであって,国民の私法上の権利を直接保障したものということはできず,同条を根拠として個々人の具体的な権利が保障されているということはできない
さらに,憲法は,13条において,憲法上明示的に列挙されていない利益を新しい人権として保障する根拠となる一般的包括的権利を規定するが,その利益が具体的人権として保障されるには,少なくとも,個人の人格的生存に不可欠な具体的利益を内容とするものでなければならない。そして,原告が「権利」ないし法的利益として主張するところは,前記の点を除けば,結局のところ上記のことをいうにすぎず,個人の人格的生存に不可欠な特定の具体的利益をいうものではない。

このように、邦人救出の場面で、国民から日本国に対して何か具体的権利利益を有するものではないということは確定しています。

※この時期は全国で市民らが同様の裁判を起こしていましたが、すべて敗訴しています。

まとめ:自己責任論では邦人保護「義務」は消えない

  1. 国家の邦人保護義務は通常の法的義務ではない
  2. 自衛権と解すことは日本国憲法上も国連憲章上も難しい
  3. 狭義の外交的保護権ではない
  4. 広義の外交的保護権であると言うことは可能
  5. 広義の外交的保護権であっても、それは国家の権利であって、その国民の権利ではない
  6. 人権問題ではなく、国家の統治権の問題である
  7. 国家の邦人保護義務は常に存在する
  8. 義務を果たさなくてもそれは国家の政治的判断・裁量の領域であり、法的な非難はできない

安田純平事案で「自己責任論」がまるで国家の邦人保護義務を免除する機能があるかのように論じられてしまうのは、この辺りの議論がまったくメディアや法律界隈でなされないからではないでしょうか?

だから「義務があれば助けなければならない」「義務が無いから助けなくて良い」という論調が多くなされ、無駄な議論が展開されていると思います。

そういう発想になるのは、国家による海外邦人保護の問題を「人権問題」であるという理解が大勢を占めているからだと思います。

私は、それは違うと思います。

国家自身である邦人を助けるのかどうなのかという、国家の統治権に基づく裁量的判断の領域なのです。

以上

*1:Durand v. Hollins, 8 F. Cas 111(Y.N.D.S. Cir. 1860