事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

小松アナ「青木理は対案を示せ」動画が再燃:ジャーナリストは対案を示す必要はないのか?

小松アナ、ジャーナリスト青木理は対案を示せ

小松靖 アウンサーが「ジャーナリストは対案を示すべきでは?」と番組で問いかけている動画が再燃しています。

この動画内の発言については「青木理ざまあwww」みたいな反応が多いのですが、ここではそういう話をしたいのではありません。

小松靖アナ「青木理は対案を示せ」⇒「ジャーナリストには必要ない」動画が再燃

小松靖アナが「青木理は対案を示すべきでは?」と問いかけた動画が再燃しています。

これは2018年の1月1日にBS朝日の新春討論という番組の最終盤において、青木理が「安倍政権は史上最悪の政権だ」と主張したことに対するものです。

それに対して青木氏は「ジャーナリストには必要ないこと」「コオロギは鳴き続けたり嵐の夜」などととしましたが、直後に同じジャーナリストの長谷川幸洋氏に「私のジャーナリズムの定義とは違う」と否定されています。

「コオロギは鳴き続けたり嵐の夜」の元ネタ出典

蟋蟀(コオロギ)は鳴き続けたり嵐の夜」という句の元ネタ出典は、信濃毎日新聞の論説主幹だった桐生悠々(きりゅう ゆうゆう・本名政次)の言葉です。

要するに、もし今が「嵐の夜」であるならば(社会が良くない方向に向かっているという懸念がある)、私たちの新聞は「蟋蟀」のように鳴き続けなければならない(言いたいことではなく、言うべきことを言う)、それこそが報道に携わる者の義務の履行だ、ということです。

抵抗の新聞人桐生悠々 (岩波新書) などでその主張を見ることができますが、どうやらジャーナリズム界隈では有名な方のようで、新聞記者・桐生悠々忖度ニッポンを「嗤う」 [ 黒崎正己 ]などで参照されているように、記者の中の偉人扱いです。

1933年(昭和8年)8月11日に東京市を中心とした関東一帯で行われた防空演習を批判した「関東防空大演習を嗤ふ」が有名です。

青木理は鳴いてるのか?

では、桐生はどう鳴いたのか?

関東防空大演習を嗤ふ」 で悠々は、灯火管制は暗視装置や測位システム、無人航空機などの近代技術の前に意味がないこと等を指摘し「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」「要するに、航空戦は...空撃したものの勝であり空撃されたものの負である」と主張していました。

当時はまだアメリカに宣戦布告をしているわけではありません。

ですから、そういう状況にならないようにしろ、という戦略論を言っているわけです。

この事自体は振り返れば間違いだと切って捨てることはできないはずですし、これは「対案」があるようなものではないでしょう。

ところで、青木理は果たして桐生のように「鳴いてる」のでしょうか?

鳴く以前に、人の耳元で羽音を散らしているだけに過ぎないのではないでしょうか?

※青木は桐生の句の使い方も間違っていることについて以下。

ジャーナリストは対案を出す必要は無いが、判断基準は示せるはず

私は、ジャーナリストは必ずしも対案を示す必要は無いと考えています。事実を伝達することが仕事の中心であり、政策立案能力は最初から期待していません。

これは職責に関する基本的な話。

しかし、今回のケースは事情が異なります。

  1. 青木理は「史上最悪の政権」という、事実に留まらない「評価」を主張している
  2. 青木理は討論番組に出演している
  3. 番組で安倍政権を倒すために野党はどうすればいいのかが議題になっている

史上最悪となぜ言えるのか?その判断基準を示す必要があるはずですし、それが不毛だというなら現行の政策の1つでもいいからそれに関して「ベターな方法」を言うべきです。

そうでなければ議論にならないでしょう。

印象操作・世論操作が目的であるならば別ですが。

以上