事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

靖国神社問題・有本百田橋下論争3:靖国神社の性格は変遷したのか・変遷は妥当なのか

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有本香、橋下徹、百田尚樹ら(+長島昭久)がTwitter上で繰り広げた靖国神社論争。

今回は靖国神社の「本来の性格」とそこからA級戦犯の合祀・分祀について考える際の考慮事項を提示します。

靖国神社の「本来の性格」

靖國神社の由緒|靖國神社について|靖國神社

靖國神社の御祭神
靖國神社には、戊辰戦争(戊辰の役)やその後に起こった佐賀の乱、西南戦争(西南の役)といった国内の戦いで、近代日本の出発点となった明治維新の大事業遂行のために命を落とされた方々をはじめ、明治維新のさきがけとなって斃れた坂本龍馬さかもとりょうま・吉田松陰よしだしょういん・高杉晋作たかすぎしんさく・橋本左内はしもとさない といった歴史的に著名な幕末の志士達、さらには日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・満洲事変・支那事変・大東亜戦争(第二次世界大戦)などの対外事変や戦争に際して、国家防衛のためにひたすら「国安かれ」の一念のもと、尊い生命を捧げられた方々の神霊みたま が祀られており、その数は246万6千余柱に及びます。
その中には軍人ばかりでなく、戦場で救護のために活躍した従軍看護婦や女学生、学徒動員中に軍需工場で亡くなられた学徒など、軍属・文官・民間の方々も数多く含まれており、その当時、日本人として戦い亡くなった台湾及び朝鮮半島出身者やシベリア抑留中に死亡した軍人・軍属、大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々なども同様に祀られています(参考資料:神道政治連盟ホームページが開きます)。
このように多くの方々の神霊が、身分・勲功・男女の区別なく、祖国に殉じられた尊い神霊(靖國の大神)として一律平等に祀られているのは、靖國神社の目的が「国家のために一命を捧げられた方々の霊を慰め、その事績を後世に伝えること」にあるからです。つまり、靖國神社に祀られている246万6千余柱の神霊は、「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の神霊」であるという一点において共通しています

靖国神社は、戊辰戦争以後の戦没者を祀る場所であるという理解が一般的でした。

しかし、現在は軍人や戦闘行為によって亡くなった方々以外の者も祀られており、それが通常であるという状態が続いてきたという経緯は知っておくべきでしょう。

とはいえ、「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の神霊」とあるように、空襲等で犠牲になった一般人は祀られていません

A級戦犯・「戦争指導者」の合祀と分祀の賛否

ここははっきりと見解が分かれました。

長島・橋下らのA級戦犯・「戦争指導者」分祀についての見解

長島・橋下両氏も分祀には賛成であり、ABCという東京裁判を前提にしたくくりではなく、独自の基準で持って誰が「戦争指導者」だったのかを判断して、それらの者を分祀するべき、という立場です。

有本・百田らのA級戦犯・「戦争指導者」分祀についての見解

これに対して、有本・百田らは分祀は否定します。

分祀をするための「戦争指導者」というカテゴリーを設けることは、彼らを「もう一度裁く」ことを意味するため反対のようです。

既にA級戦犯とされた人々が合祀がなされて数十年が経過し、その間に彼らの名誉回復もなされていますが、東京裁判の結果とは別個に彼らを「裁く」、その上で分祀をする、というのは、どうなんでしょう?

「戦争指導者」の合祀についての別の評価

戦陣訓に「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」があります。

自爆に失敗して米軍捕虜第一号になった酒巻和男海軍少尉の家族は非国民と非難されたということがあります。

戦争指導者は、この言葉で兵士を送り出した立場です。

その戦争指導者が敵の裁判にかけられて死亡した際に「東京裁判は不当だから靖国に祀られるべきだ」と言われることに、得も言われぬ違和感を覚える者が居たというのは確かでしょう。

ただ、その立場に立つとしても、注意が必要です。

「戦争犯罪人」の「名誉回復」の事実

日本人も知らない靖国神社「A級戦犯」合祀のウソ 一色正春

いわゆる戦争犯罪人ですが、当時、大多数の日本人は彼らのことを犯罪者であると思っていませんでした。まず日本が主権を回復したサンフランシスコ平和条約発効直後の1952年5月1日、当時の木村篤太郎法務総裁により戦争犯罪人の国内法上の解釈についての変更通達が出されました

そして、戦争犯罪人として拘禁されていた間に亡くなられた方々すべてが公務死として扱われるようになったことを皮切りに、全国各地で戦争犯罪人として扱われている人たちの助命、減刑、内地送還を嘆願する署名運動が始まりました。

日本弁護士連合会も「戦犯の赦免勧告に関する意見書」を政府に提出するなど、運動は盛り上がりを見せ、それに呼応して国会でも次々と社会党や共産党を含む全会一致で戦犯受刑者の釈放に関する決議などがなされ、1953年には遺族援護法が改正され拘禁中に亡くなられた方々の遺族に弔慰金と年金が支給されるようになりました

 つまり、彼らの死は戦死であると国権の最高機関である国会が正式に認めたのです。署名は最終的に当時の全人口8千万人の半数である4千万人に達し、これに後押しされた日本政府はサンフランシスコ平和条約第11条にもとづき関係11カ国に働きかけ、その結果、1958年には戦争犯罪人として勾留されていた、すべての方々が赦免されたのです。

戦争指導者の合祀・分祀の妥当性の話とオーバーラップするところですが、戦争犯罪人とされたABC級戦犯の方がたについては、全国で助命・減刑等の嘆願が行われ、最終的に東京裁判の結果が無かったことになりました。

もちろん、東京裁判の結果と離れた合祀・分祀の妥当性の話からは切り離して考えることができますから、そこは別に論じればいいと思いますが、国民的な運動によって(少なくとも東京裁判の影響を取り除くという限りにおいて)名誉回復がなされたという事実は重いでしょう。

靖国神社の性格の変遷は許容されるのか

靖国神社の本来の性格が、A級戦犯の合祀で変わってしまったと言えるのか?

そう言えたとしても、靖国神社の在り方の変遷が間違っていると言えるのか?

大東亜戦争は、これまで日本国民が経験してこなかったレベルでの「総力戦」でした。

一般国民であっても赤紙受けて召集され、中には作戦行動として特攻した者も居る。

銃後として軍需工場で働くのみならず、郵便配達や電車運転も行っていました。

自警団も結成され、防空壕が作られ、兄弟は疎開した。

空襲や原爆投下によって大量の一般人が犠牲になった。

全国民が戦争遂行の影響を受けていた。

そのような戦争における犠牲者について、「軍人じゃないから」「戦闘行為で死亡したわけじゃないから」という理屈で、公務に起因して亡くなられた方々の慰霊をしないというのはどうなのか。

この部分を語る必要があると思います。

まとめ

A級戦犯の分祀の妥当性を考える際には、靖国神社の性格の変遷についてどう考えるのか?という視点が必要不可欠だと思います。 

「元々の姿に戻す」ということが常に正しいのか?変化を受け入れて前に進むことが果たして正しいのか?

あまり整理された記述ではないと思いますが、考慮するべき事項について提示したつもりです。

以上