事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

サマータイム(夏時間)導入断念…はまだだが

f:id:Nathannate:20180927190037j:plain

「導入断念」がツイッタートレンド入りしましたが、サマータイムのことです。

ただ、これはまだ決定ではないので注意です。

サマータイム「導入断念へ」は遠藤利明五輪実施本部長

「導入断念」という表現は朝日新聞のものです。

魚拓:http://archive.is/elpfS

2018年9月27日に行われた自民党のサマータイム研究会の初会合において、遠藤利明・東京五輪実施本部長が発した言葉が元になっています。

なんらかの導入断念の決定がなされたわけではないので注意です。

遠藤利明東京五輪実施本部長の言葉

朝日新聞:「気持ちとしては(20年までに)導入したいが、システムの問題や世論の反応から物理的に難しい」

日経新聞:「システムの問題や世論の反応をみると難しい」

共同通信:「気持ちは(導入)したいが、物理的にシステムの問題や、世論の反応を見ると、なかなかそこは難しい」

NHK:「2020年のサマータイム導入はシステムの問題などで難しいが、あまり予断を持たずに、理解を得られる範囲内で議論していきたい」

NHKの記述をみれば、「まだ議論自体は続くらしい」ということが分かります。

ただ、朝日新聞によると

会合で今後行う議論は「20年のためではない。低炭素社会をつくる一つのきっかけとして進めていきたい」とも述べた。

とあり、「導入断念」というのは拙速なきらいがりますが、少なくとも五輪での導入は断念する方向に向かっているとしています。

朝日新聞は「世論の反応から物理的に」って書いてますが、何かおかしくないですかね?

そして、自民党の他の人物の言葉もNHKは載せています。NHKは遠藤五輪実施本部長の発言はそこまで大きく取り上げず、菅官房長官と公明党の山口代表の言葉を並列に載せているということがわかります。

サマータイム(夏時間)はオワコン

サマータイムがいかにおかしな考えであり、サマータイムを推進しようとしているひとたちがどれだけ奇妙な言説を振りまいていたのかは以下でまとめています。

そもそもサマータイムを実施しているEUは廃止の方向です。

白夜の地域では無駄であることや、健康リスクが高まることが指摘されています。

EUはサマータイム「廃止目指す」 欧州委トップが表明 意見公募も8割超が「廃止」 - 産経ニュース

サマータイム廃止支持が84% EU欧州委 意見公募の暫定結果を発表 - 産経ニュース

これ以上何を議論するというのか不明ですが、とにかく議論は続くということは間違いないので、まだ「導入断念」が決定したとはいえないということでぬか喜びはきんもつでしょう。

まとめ:サマータイム導入断念まであと一歩

経済効果の試算を出した第一生命経済研究所の永濱利広さんは、8月16日のモーニングショーで出演したときに「自分はこんな効果は無いと思います。」と明言していました。

どうも経産省主導で10年置きくらいに話題になる話のようです。

さっさと「サマータイムの亡霊」退治をして肝試しは終わりましょう。

もう秋ですよ!

以上 

朝日新聞による大坂なおみ選手への人種差別的記事?

朝日新聞による大坂なおみ選手への人種差別的表現

朝日新聞2018年9月24日朝刊29面

朝日新聞2018年9月24日朝刊29面で大坂なおみ選手に対する人種差別を助長するかのような記事が掲載されました。虎ノ門ニュースでも青山繁晴氏が取り上げ、「ヘイトではないか?」と指摘しています。

私も非常に問題だと思いましたが、ネット上の情報では評価を誤る可能性があるので該当部分を確認します。

記事1魚拓:http://archive.is/3I7y7

記事2魚拓:http://archive.is/skRla

「モヤモヤ」記事は3人へのインタビューが軸

紙面版では、岩澤直美さん、副島淳さん、下地ローレンス吉孝さんの3人のインタビューで構成されています。そのうち、副島さん、下地さんへのインタビューの部分は、その部分のみではまったく問題ありません。

副島さんへのインタビューの該当部分には「100%日本人…」と居酒屋で男性が話していた経験を語っていますが、それは日本人とは何かという日本社会における観念に対する問題提起であり、大坂選手を日本人として扱う事に対する疑問が示されているわけではありません(つまり記事の途中から内容がずれている)

ただし、紙面はそれも含めて構成されていますから無視はできません。
※なお、朝日新聞デジタルでは副島さんのインタビュー動画がありますが、実に清々しい内容であり問題はありませんでした。

より問題なのは、岩澤さんへのインタビューを構成した記事にあると思います。

他人に語らせる「日本人というモヤモヤ」

注意すべきは、岩澤さん自身がなにか大坂選手に対して言った発言があったのか、断定はできないということです。発言をそのまま抜き出したかのようなかっこがきの部分と、かっこがきではないものの発言を説明したかのような記述が混在しているからです。

本人がそう言ったのか、朝日新聞側が編集したのかは不明ですが、成立した記事としては朝日新聞としての表現と受け取るべきでしょう。少なくともこのような個人の見解をわざわざ掲載するということは朝日新聞社が表現として問題ないと判断したのでしょう。

問題の個所は以下です。

朝日新聞2018年9月24日朝刊29面

早稲田大学の岩澤直美さん(23)は「うれしいニュース」と思いながらも、「日本人初」という盛り上がり方にモヤモヤを覚える。父が日本人で、母がチェコ人。ー中略ー(彼女の名付けの経緯など)
モヤモヤの根にあるのは、普段の自分の体験とのズレだ。生後間もなくから大半を日本で暮らし、国籍は日本。しぐさや表情などから、海外では「日本人」として扱われ、自身もそのように考えている。
だが、日本で「何人?」と問われ、「日本人です」と答えると「違うでしょ」と否定される。不動産屋で「うちはジャパニーズ・オンリー」と断られた経験もある。友人らと飲食店に入れば、「彼女は何を頼みますか?」と岩澤さんを除いてやりとりが進む。「いつも『外側』にいる感覚。見た目や言葉などで『日本人』の中に入る、何重かのドアの開かれる数が違う」と話す。

そして「国籍ではなく個人に向き合ってほしい」旨で文は締めくくられます。

ようするに、「普段の自分の体験として日本人扱いされていないことがあるのに、大坂なおみ選手は日本人扱いされている」という事をこの女性が訴えたいかのようです。

その主張の名宛人(誰に対して言っているのか)はどうも「大坂選手やその応援者」ではなく「普段はハーフ等を日本人扱いしないのに都合のいい時だけ日本人扱いする者」であるようですが、そんなことは文字の上では書いていません。

素朴に読むと「大坂選手やその応援者」に対する主張と受け止めることになるでしょう。

なぜ記事の実際の文言と受け取る印象が乖離しているのか?

記事全体の構成が原因です。

読者に大坂選手関連のストーリーを想像させる

大見出しが【「日本人」って?私のモヤモヤ】であり

小見出しが【大坂選手の快挙で多用されるが…】とされ

導入文で【「日本」や「日本人」が多用されることに違和感を抱く人たちがいる。】という一連の記述から、何を読者は想像するでしょうか?

そして他人に【「日本人初」という盛り上がり方にモヤモヤを覚える。】と(記事の中で)語らせることで、まるで「応援者」が「大坂選手を日本人として賞賛すること」が気に入らないかのようです。

それは続く副島さん、下地さんに関する記事によっては払しょくできない読み取り方です。

意図的かはともかく、記事の構成によって、そのような解釈をさせるようになっているのです。

別の解釈の可能性?

『いや、その後のインタビュー内容からすれば「普段はハーフ等を日本人扱いしない人」が「都合のいい時だけ大坂選手を日本人扱いした」ことに対して非難を加えているだけであるという解釈をするのが筋である』

と言う人も居るでしょう。

しかし、不思議なことに、「普段はハーフ等を日本人扱いしない人」が「大坂選手にだけ日本人扱いした」実例が全くこの記事の中に登場していないのです。文章を見渡しても、決してそういう内容であるとは明示していません。

そうだとしても、「普段はハーフ等を日本人扱いしない人」の多くが「大坂選手についてだけは日本人扱いしている」という実例が無いと、上述のような解釈にはなりにくいです。

また、「日本」や「日本人」が多用されることは大多数の者によって為されている社会的な現象なのに対して、インタビューを受けた者が経験したことは特定人による行為です。

特定の人物が普段はハーフ等を日本人扱いしていないのに都合のいい時だけ日本人扱いしていることへの非難という卑近な事象から、「日本や日本人が多用されることに違和感を抱く」ということには飛躍があります。

応援者は大坂選手が日本人選手として初めての快挙を成し遂げたからこそ「日本人」という言葉を使っており、そのような想いでいる者が多数だからこそ「日本人が多用」されているに過ぎません。

よって、「モヤモヤ感」の名宛人は大坂選手を賞賛する者たちであると理解することの方がより自然であるということになります。

『「単なる応援者」ではなく「都合のいい人」が名宛人である』という読み方はあり得る解釈の一つでしょうが、読者が第一に受け止める可能性が高い解釈ではありません。

つまり、非難の対象は「都合のいいこと」ではなく「大坂選手を日本人として賞賛すること」が第一義的であるということになります。

多義的な文章に人種差別的解釈が含まれることについて

奇しくも新潮45の10月号における小川榮太郎氏の文章が多義的であることについて批判を加えましたが、朝日新聞についても同様のことが当てはまりそうです。

多義的な文章を意図的に作るということはあります。

しかし、朝日新聞の「日本人というモヤモヤ」という主題について、まるで「応援者」が「大坂選手を日本人として賞賛すること」が気に入らないかのような解釈ができてしまう文章というのは意図的なのでしょうか?

意図的であったら許されない行為ですし、そうでなくとも甚だ不注意であると言えます。

世界に誇るクオリティーペーパーの朝日新聞ですから、不注意というのはあまり考えにくいのですが…

大坂なおみ選手へのヘイトや人種差別ではないが…

『「大坂選手を日本人として賞賛すること」が気に入らない』

このような主張はヘイトや人種差別でしょうか?

「ヘイト」は直訳で「憎悪」であり、 ヘイトスピーチの用法としては「自分から主体的に変えることが困難な事柄に基づいて属する個人または集団に対して攻撃、脅迫、侮辱を加えること」というのが一般的ですが、攻撃や脅迫、侮辱ではないでしょう。

また、いわゆる「ヘイトスピーチ規制法」上のヘイトスピーチも「地域社会からの排除」が要素にありますから、これには当たりません。

「人種差別」はいわゆる国連人種差別撤廃条約と言われる「あらゆる形態の人種差別の
撤廃に関する国際条約
」に定義があります。

第1条

1 この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。

日本国視点から見れば、大坂選手は日本国籍とアメリカ国籍のいずれかをこれから選択しなければならない立場です。

しかし、テニス選手としては、自らの意思で日本国の選手と言う立場を選び勝ち取っています。

であるならば、大坂選手を「日本人として賞賛」することも「日本人という属性を賞賛」することも、何ら妨げられる理由は無いはずです。

にもかかわらずそのような行為が非難されるというのは、大坂選手を国籍以外の人種等で区別しているということになると思います。

よって、朝日新聞の記事は人種差別に当たると言える余地があるということになります。

まとめ:それでも朝日新聞は休刊しない

新潮45は休刊となりました。その理由は「会社として十分な編集体制を整備しないまま『新潮45』の刊行を続けてきたことに対して、深い反省の思い」ということです。

朝日新聞の大坂なおみ選手に対する記事は同レベルの行為だと思うのですが、朝日新聞は休刊しないでしょう。いや、するべきではないと思います。

こうした表現があったからいちいち休刊だの廃刊だの言っていたらキリがありません。言論活動が窮屈になるだけです。

朝日新聞は人種差別的な表現があるという指摘に対してどう応えるのか?今こそ真摯な対応が求められる。

以上

伊方原発運転停止命令取消し決定全文:差止決定との違いと弁護団の発狂ぶり

f:id:Nathannate:20180925175742j:plain

2017年12月、四国電力伊方(いかた)原発3号機の運転を差し止めた広島高裁の仮処分決定がありました。

これを不服とした四電の申し立てによる異議審で、2018年9月25日、広島高裁(三木昌之裁判長)は仮処分取消決定を判示しました。

この判示のポイントを超概略的に整理します。

もっとも、問題点は昨年12月に書いたこの記事と同じです。

伊方原発運転停止命令取消決定全文・決定要旨・弁護団声明

決定要旨決定要旨魚拓

決定全文決定文魚拓

弁護団声明弁護団声明魚拓

伊方原発差止仮処分取消決定への異議申立の争点

  1. (差止めを求めていた側の)原告適格の有無
  2. 設計対応不可能な火山事象(破局的噴火による火砕流等)の到達可能性の有無
  3. 新規制基準の合理性

大雑把にいうとこれら三つが争点だったのですが、2番目は更に

  1. 破局的噴火の可能性の『不存在』を四国電力が立証しなければならないのか?それとも破局的噴火の可能性の『存在』を差止めを求める側が立証しなければならないのか?(主張立証責任の所在
  2. 破局的噴火の具体的危険性(可能性)はあるのか?

このような問題があります。

新規制基準の合理性や破局的噴火の具体的危険性の有無については、科学的知見に基づく詳細な検討がなされているのでここでは触れませんが、この訴訟でポイントとなるのは主張立証責任の所在です。

広島高裁では主張立証責任が「2度」転換された

広島高裁伊方原発差止処分取消決定全文

広島高裁平成30年9月25日決定

広島地裁と今回の広島高裁の三木昌之裁判長による差止取消決定は、破局的噴火の可能性の『存在』を差止めを求める側が立証しなければならないとしました。

他方、前回の広島高裁の野々上友之裁判長は、破局的噴火の可能性の『不存在』を四国電力が立証しなければならないとした結果、昨年12月に差止決定がなされました。

前回の広島高裁の野々上友之裁判長が行った判示がおかしいということは昨年も指摘しました。

なお、四国電力側も主張立証責任の所在について反論していました。

今回の判決は、差止めを求める側(原告住民)が破局的噴火の具体的危険性が十分小さくないということを立証するべき、ということになりました。その上で、原告住民が提出した証拠資料によっては、破局的噴火の具体的危険性が十分小さいとはいえないと立証することはできないと判示しています。

前回の判断が「不存在」の立証という無理ゲーだったのがおかしかったということです。

原告弁護団の発狂ぶり

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原告住民の弁護団が裁判所に対して捨て台詞を吐いているのが滑稽ですね。

当事者が昨年の12月21日に保全異議申し立てをしているのに、保全異議の利益が無くなるまで決定を出さずに放置することの方が問題でしょう。

広島地方裁判所が仮処分の却下をしたのは2017年の3月30日であり、広島高等裁判所が差止決定をしたのは12月13日ですから、時間的に前回よりも余裕があり、しかも高裁の判断は争点が整理されていますから、「急いで・ずさんな」決定を出したとなぜ言えるのか全く意味不明です。

弁護団が陰謀論を書き連ねるなんて恥ずかしいことこの上ないですね。

以上

東京都ヘイト規制条例の問題点:東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例案

東京都マーク

平成30年第3回定例会提出議案として、第169号議案:【東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例】が提出されました。

この条例案の概要に対してパブリックコメントが募集されましたが、その際に問題点をしてきました。

ここで指摘した問題点は、未だ存在しています。

今回はその点について整理していきます。

核心的なのは、「議案提出された東京都ヘイト規制条例案の問題点」の項の「日本人で生まれ育った日本人がヘイトの被害者にならない可能性がある」という部分です。

東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例案の全文

私は入手していませんが、弁護士の山口貴士さんがブログにテキスト化したものをUPしています。

短い条例なのですぐに読めますが、さすがにコピペするには文量としては多いので(そしてコピーコンテンツとなって山口さんのブログの検索順位が下がるのを避けるため)、画像で代替します。クリックで拡大。

東京都ヘイト規制条例案

東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例案

クリックで拡大

また、都のホームページでは条例案の概要のみが示されています。

  1. オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現
    都が、啓発等の施策を総合的に実施していくことにより、オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念が浸透した都市となることを、条例の目的として明記
  2. 多様な性の理解の推進
    (1)性自認及び性的指向を理由とする不当な差別の解消並びに性自認及び性的指向に関する啓発等の推進
    (2)性自認及び性的指向を理由とする不当な差別的取扱いを禁止
    (3)都民等の意見を聴いて基本計画を定めるとともに、必要な取組を推進
  3. 本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進
    (1)不当な差別的言動を解消するための啓発等を推進
    (2)都が設置する公の施設の利用制限に関する基準を策定
    (3)不当な差別的言動の拡散防止措置及び概要等の公表
    (4)学識経験者等で構成する第三者機関(審査会)の設置

パブリックコメント前の東京都ヘイト規制条例の問題点

ここでは大きく2点の問題点を指摘します。

  1. 日本で生まれ育った日本人(ひとまずこの表現をとる)がヘイトの被害者にならない可能性がある
  2. 自治体の「外」での行為も罰則対象となること

なお、情報が分かりにくい、という側面があるということも指摘しておきます。

前項で示した条例案も、プレスリリースのページからしかたどり着けないようになっていますのでナビゲーションが悪いですし、なにより条例案の「概要のみ」というのが不可解です。大阪府では条例案の取りまとめ段階で閲覧可能でした。

こういう手続的な面でも東京都は不十分ではないか、ということはパブリックコメントの段階でも指摘しました。

パブリックコメントで寄せられた意見の結果

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東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念実現のための条例(仮称)の意見募集結果についてというページでパブリックコメントで寄せられた意見の結果が見られます。

「LGBTではなくSOGI(性的指向・性自認)にしてほしい」という点は条例案で採用されており、パブコメ前の条例案は「LGBT等」という表現だったのが提出された条例案では改まっています。よって、この点を私は問題視しません。

参考

また、「第三者機関の委員等に当事者等をいれていただきたい」という意見も、条例案では排除されています。代わりに申立者に対して意見書の提出を求めることができることが規定されていますが、これは申立者にとって有利にも不利にもなり得るということが分かるでしょう。よって、この点も問題視しません。

さらに、懸念されてきた「罰則規定」についても「公的機関の利用禁止」は含まれていません。ただ、「拡散防止措置」がどのような内容なのかが不明なので、その点は問題かもしれませんが、ひとまずその点は捨象します。

議案提出された東京都ヘイト規制条例案の問題点

 パブリックコメント前には以下の問題点があると指摘しました。

  1. 日本で生まれ育った日本人(ひとまずこの表現をとる)がヘイトの被害者にならない可能性がある
  2. 自治体の「外」での行為も罰則対象となること

順番にみていきます。

日本で生まれ育った日本人がヘイトの被害者にならない可能性

第三章 本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進
(趣旨)
第八条 都は、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(平成二十八年法律第六十八号。以下「法」という。)第四条第二項に基づき、都の実情に応じた施策を講ずることにより、不当な差別的言動(法第二条に規定するものをいう。以下同じ。)の解消を図るものとする。

嫌らしいのが都の条例上では「不当な差別的言動」という文言が使われているということです。これだけ見ると、すべての人が対象になると思います。

しかし、「法第二条に規定するもの」というのは、いわゆるヘイト規制法(本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律)の二条のことです。

本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律

(定義)
第二条

この法律において「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」とは、専ら本邦の域外にある国若しくは地域の出身である者又はその子孫であって適法に居住するものに対して差別的意識を助長し又は誘発する目的で公然とその生命、身体、自由、名誉若しくは財産に危害を加える旨を告知し又は本邦外出身者を著しく侮蔑するなど、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、本邦外出身者を地域社会から排除することを煽動する不当な差別的言動をいう。

このように、「本邦外出身者」という指定が入っています。

東京都の条例案では表面上は「不当な差別的言動」という文言ですが、その内実は「本邦外出身者に対する不当な差別的言動」という意味に限定されているということです。

すなわち、日本で生まれ育った日本人は、この条例では被害者にならないように規定されています。

そうすると、例えばオリンピック会場で「日本人だからという理由で差別的なブーイングを受ける行為」は、この条例は禁止していないことになります。

具体例を出せば、韓国人から元在日韓国人(日本国籍取得済み)に対して「チョッパリは大久保の韓国人街から出ていけ」などの言動は、この条例では捕捉できないことになります。こんなことで良いのでしょうか?

条例の文言上はすべての人が対象となるように見せておきながら、実は特定の人間のみを保護するという姑息な手段を使ってまで、どうして条例を策定するのでしょうか?

自治体の「外」での行為も罰則対象となることは憲法94条違反

東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例案

第十二条 知事は、次に掲げる表現活動が不当な差別的言動に該当すると認めるときは、事案の内容に即して当該表現活動に係る表現の内容の拡散を防止するために必要な措置を講ずるとともに、当該表現活動の概要等を公表するものとする。ただし、公表することにより第八条の趣旨を阻害すると認められるときその他特別の理由があると認められるときは、公表しないことができる。
一 都の区域内で行われた表現活動
二 都の区域外で行われた表現活動(都の区域内で行われたことが明らかでないものを含む。)で次のいずれかに該当するもの
ア 都民等に関する表現活動
イ アに掲げる表現活動以外のものであって、都の区域内で行われた表現活動に係る表現の内容を都の区域内に拡散するもの

東京都の「外」における行為も罰則対象となることが憲法94条違反のおそれがあります。

おおげさに言えば、東京都外に住んでおり、東京都に足を踏み入れたこともない人が、東京都民に対してブログ上で批判を行ったというだけで(しかも都民であるということは知らないで)、ある日突然、東京都から連絡が来て「公表」や「拡散防止措置」の対象となる旨を通知されるということが理論上は起こり得ます。

詳細は以下の記事で書いた通りのことがそのまま当てはまります。今回の都の条例案は、大阪市の条例のパクリであることが分かるでしょう。

まとめ

  1. 日本で生まれ育った日本人が条例では差別の被害者にならない
  2. しかも、条例上はすべての人間が対象となるように書かれておきながら、内容は本邦外出身者という限定が付されている
  3. 都の外における行為も補足対象となっていることは憲法94条違反のおそれがある

東京都議会第三回定例会は9月26日に代表質問、27日に一般質問、常任委員会は9月28日から10月3日、閉会(本会議)は 10月5日です。

より多くの都議会議員の方に問題を把握していただきたいと思います。

以上

多義的な文章は悪なのか?ツイッターでの誤解と小川榮太郎の新潮45の記事から考える

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新潮45の十月号では小川榮太郎氏の記事が大炎上しました。

その理由の一つは、彼の文章が「多義的に解釈できる余地がある」からだと思います。

ここでは私の身に実際に多義的な解釈ができる文章(ツイート)による喜劇が起こったので、その紹介をしつつ、多義的な文章について考えていきます。

新潮45における小川榮太郎氏のSMAGとLGBTの対比

小川氏は「SMAGとは何か。サドとマゾとお尻フェチ(Ass fetish)と痴漢(groper)を指す。私の造語だ」とした上で、LGBTが制御不能な属性であるがゆえに社会が保障するべきであると言うのならば「満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。……彼らの触る権利を社会は保障すべきでないのか」と書いています。

この部分が大炎上していますが、小川氏はSMAGのうちのG=痴漢行為とLGBTを「犯罪性のあるもの」として対比しているのではなく、政策判断においては『主観的主題に過ぎず、概念規定が無意味なもの』として対比しています。

しかし、一見すると「犯罪性のあるもの」として対比しているかのようにも読めてしまう余地があるので、好意的に見ても痴漢を持ち出した点は良くなかったのでは?と思います。

より詳しい説明は以下で書いています。

ただ、本人が意図的に多義的に捉えられるように書いている可能性もあります。

そういう多義的な文章は基本的に良くないよね、ということと、常によくないのか?ということについて書いていきます。

多義的なツイートがもたらした誤解

奇しくも小川氏を話題にしたツイートで、それは起きてしまいました。

 さて、3つ目の私のツイートは、どういう意味だと思いますか?

  1. 教育の問題についての記事なら、私も過去にこの人と同じ内容のことをブログに書いていますよ
  2. 読解力の無さが教育の問題に起因したものであると仮定すると、私も同じような教育を受けてきたことになるので、この人と同じようなことを書いていたハズですね(教育の問題ではないのではないか)

他の理解もあるかもしれませんが、ひとまずはこの2つを提示します。

多義的でもなんとかなった

続き

この辺で私は違和感を覚えました。

「ん?新潮45をネットで読むのかな?いやぁ、無料公開していないから、たぶん購入したいという意味だろう。でも、アマゾンとか楽天で検索すれば出てくるよなぁ?なんでリンクを求めるんだろ?」

取りあえず以下の返信をしました。 

しかし

いや、本当に申し訳なかったです(笑)

ということで、私が意図したのは2番目の意味でした!

だからこそリンクを貼ってしまったのです。許して。

しかし、ううさささんにとっては1番目の意味に解釈したということです。

  1. 教育の問題についての記事なら、私も過去にこの人と同じ内容のことをブログに書いていますよ
  2. 読解力の無さが教育の問題に起因したものであると仮定すると、私も同じような教育を受けてきたことになるので、この人と同じようなことを書いていたハズですね(教育の問題ではないのではないか)

明らかに2番目は多くの事項を補足しているということが分かります。1番目は、元のツイートの文言からそんなに離れていません。

おそらく、多くの方は1番目の理解をするのかな、と思いました。

こういう文章は、説明する文章、会話文としてはダメダメな文章ですね。

意図的に構築する多義的な文章

他方、小説などを読むとしばしば目にするように、重層的な意味を含める文章というのは存在していますが、意図的に行うには書き手の力量がなければできません。多義的な文章というのは、文脈によって評価が変わるということは補足しておきます。

このツイートは、意図的に多義的に書いてます(笑)

"They're evil"は褒め言葉か?

さっきは私が誤解させた例でしたが、次は自分が誤解した例。

このツイートは日本のモナカを神のように崇めて絶賛しています(笑)

それに対する返信

"They are so good, they’re evil. "

"evil"は「悪魔の」という意味ですが、文脈からしてたぶん、褒める意味で使ってるのかなと思いました。

ただ、Bear Conditioningさんがすんなり理解したとは思えず、たぶん英語圏で一般的に通用している言葉の遣い方ではないのだろうと思いました。

「やばい」はもともと「悪い意味」で使われてきましたが、10年くらい前から「凄い」という賞賛の意味で使われる例も出てくるようになりました。「適当」と「テキトー」も似たような感じですよね。

柳原さんのツイートに対して 「良い意味」なのか「悪い意味」なのかという意味合いで、「逆バージョン」と言っているのだろうか?と少し思ってしまったので、以下ツイートしました。

なるほどなぁと思いました。

英語の理解を考察しているツイートに対する日本語の理解を私がミスるという(笑)

多義的な文章は悪なのか?

日常的な文章ですらこうして小さいながらも誤解が生じるのですから、文章を書くというのは難しいですね。

ましてや論述の文章であれば、誤解する者が出てくるのもなおさら。

それを「読者の読解力」のせいにしてはいけないと思うのです。

ただ、意図的に多義的な意味を持たせたり、意図的に読解を誤らせる「仕掛け」を文章に施しながらも、しかし客観的に見れば一つの意味に捉えるのが妥当であるという構成にしているというのならば、その文章構成自体については文句は言いません。

そのような文章によって誤解されることによる危険性は書き手が引き受け、そのような誤解を「おもちゃ」にしてもてあそぶのもいいでしょう。

いつから

一体いつから、一義的に解釈が決まる文章のみが正しいと錯覚していた?

確かに私たちがビジネスの世界で見る文章は、一義的に解釈が決まるように書かれます。そうでないと、お互いの意思疎通ができないからです。契約書の文言の解釈に齟齬があると、最悪の場合は訴訟になります。ですから、一つの文章の意味は一つであるべき、というドグマ(教条)の中で、私たちは生活しています。

ビジネスに限らず、何らかの論評を行う文章のほとんども、一つの文章の意味が一つになるようにできています。ハウツー本やエッセイのほとんどは、多義的な意味を含めるという手法が採られていることはありません。伝えたいことは明確で、それを伝える際に誤解があってはならないからです。

小説・物語の世界における多義的な文章

しかし、小説など物語の世界に行くと、たちまちそのような価値判断の基準は消え去ります。一つのセリフまわしに複数の意味を込めるということは、むしろ味わい深い文章として評価が高くなることさえあります。

裏に秘められた意味を発見したときに脳汁が出た経験がある人は、多いと思います。

少しマニアックな話に入りますが、「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」第一話冒頭で少佐=草薙素子(設定ではバイセクシャル)がテロ未遂犯に対して拳銃を突きつけながら有名な以下のセリフを言います。

「世の中に不満があるなら自分を変えろ。

それが嫌なら耳と目を閉じ、 口をつぐんで孤独に暮らせ。

それも嫌なら・・・」

拳銃を突きつけながらなので、「それも嫌なら…」のあとは「終焉」のイメージがまず湧き起ります。

しかし、物語が進むと、本作品の核心的な人物である「笑い男」は 「耳と目を閉じ、口をつぐもうとした」と言いながら、ある事件を起こします。社会を変える方向に行動したということです。

そして、冒頭のセリフは後に草薙や彼女が属する公安9課自身にも突きつけられます。

作品中では、「笑い男」の心理を描写するためにJ・D・サリンジャーの"The Catcher in the Rye"の一節を登場させます。青春小説の古典的名作ですが、一番有名な邦題は「ライ麦畑でつかまえて」です。

これも、多義的な要素が含まれている邦題です。他の邦題は「ライ麦畑の捕手」とかもありますが、今見ると「センスねぇな」と思ってしまいます(「ライ麦畑でつかまえて」がセンスの塊なので、どうしてもそう思ってしまう)。

個人的には"Rye"も似た音の別単語を想起させているのではないかと思っています。作中では主人公のホールデンが「インチキなもの」に対する嫌悪感を語っているので。それは攻殻機動隊の「笑い男」も同様です。

冒頭の少佐のセリフが完結していたら、味気ないシーンで終わっていたと思います。

読者との対話

先ほどの部分は作品を知ってる人じゃなければまったく意味不明だとは思いますが、一部でもいいので伝わればいいと思います。

この記事自体、途中から明確に伝える文章から「わかりみ」を汲み取ってもらう文章に切り替わっています。

小川榮太郎氏は文学が畑のようですので、新潮45の記事においても多義的な文章を意図的に組み込んだ可能性はあります。そのような文章は一方的な「伝える」ではなく、「読者との対話」を生み出すのだろうと思います。

そうした読み方に切り替えてみると、あの大炎上した記事も、もしかしたら味わい深いものとして捉えられるかもしれません。そのためにはやはり、ネット上で出回っている「切り取った一節」に脊髄反射するのではなく、記事全体を読むべきなんだろうと思います。

「いや、社会問題についての論評なんだから多義的な文章であってはならない」というのであれば別でしょうが。

新潮45は松浦大悟を読め!いわゆるLGBT議論における性的指向と性的嗜好の区別

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新潮45の10月号での特別企画のうち、小川榮太郎氏の記事が炎上している中、改めていわゆるLGBT界隈の議論を学んでみると、今回の炎上騒動は非常に興味深い論点をいくつも孕んでいると気づかされます。

その一つがLGBTという概念規定、それに伴う「性的指向」と「性的嗜好」の区別です。小川氏の記事に対する最も多い非難の一つとして、「小川氏は性的指向と性的嗜好を区別していない」というものがあります。

小川榮太郎氏はLBGTという概念規定そのものを否定する立場なので、彼の主張を理解するのに「性的指向」についての理解は不可欠です。

この点について、同じく新潮45の特別企画に寄稿した松浦大悟元参議院議員の指摘が重要です。彼は選挙後にゲイであることをカミングアウトした経歴があります。

松浦氏は杉田氏の論に対して真っ向から反論しています。政策判断としてより問題視するべき対象は別に存在する事や、なぜ性同一性障害は「障害」の文字を使う必要性があるのかを述べており、杉田氏の主張を一度受け止めた上で問題点を指摘しています。

しかし、それにとどまらず、杉田氏に対する提案をしています。政治家らしく、物事の解決をゴールに設定しているからこそ相手を論難するだけに終始しない姿勢が伺えます。

本エントリでは松浦氏の知見を借りつつLGBTという概念規定、それに伴う「性的指向」と「性的嗜好」の区別について整理していきます。

性的指向と性自認、そして性的嗜好

新潮45の記事には藤岡信勝氏や小川榮太郎氏が「性的嗜好」という用語を使っていることから『「性的指向」と「性的嗜好」の区別が付いていない不勉強!』という非難が浴びせられています。

中には「区別をつけていない事こそが差別的」という主張もあります。

魚拓:http://archive.is/hXOAe

こういう主張をどう評価するべきかを考える際に、当然にして性的指向と性的嗜好の定義であったり、どういう使われ方をしている言葉なのかを最初に確認する必要があります。

法務省は性的指向と性自認のみ定義

法務省:性的指向及び性自認を理由とする偏見や差別をなくしましょう

「性的指向」とは,人の恋愛・性愛がどういう対象に向かうのかを示す概念

「性自認」とは,自分の性をどのように認識しているのか,どのような性のアイデンティティ(性同一性)を自分の感覚として持っているかを示す概念です。

「LGBT」というもののうち、LGBは「性的指向」に関わる類型であり、T=トランスジェンダーは「こころの性とからだの性との不一致」として、「性自認」に関する類型です。

また、性的指向と性自認は、"SOGI":Sexual Orientation and Gender Identityの直訳です。

このように性的指向と性自認については法務省も定義していますが、「性的嗜好」については定義していません。ためしに「性的嗜好 go.jp」で検索すれば、公的な定義があるものではないというのが分かると思います。

「性的指向」は必ずしもレズとかゲイとかを指すものではなく、レズとかゲイなどは「性的指向」に含まれるということです。つまり、「ノーマル」も「性的指向」の一つということになります。また、「自分は男が好きだ」と考えている女性が居たとすれば、それはそのような「性自認」があるということになります。

ジェンダー/LGBT研究者の中でも性的指向と性自認という整理

ネット上ではなく、書籍でLGBTを扱ったものを読むと、ほとんどが「性的嗜好」については触れず、「性的指向」と「性自認」に関する話しかありません。

この言葉が主流なのは、国連での国際人権法の議論において"SOGI":Sexual Orientation and Gender Identity(直訳で性的指向と性自認)という用語が用いられてきたからです。

性のあり方の多様性 252頁以下
3 国際人権法における性の多様性 谷口洋幸

そもそも国連人権法の文脈においてSOGIが採用されたのはなぜか。なぜ性的マイノリティやLGBTではないのか。

日本国内で用いられている「同性愛(者)」や「性同一性障害(者)という表現あるいは「LGBT」という表現は、ジョグジャカルタ原則や国連人権理事会決議などの文書において、なぜ採用されなかったのか。

日本国内で用いられてきた「同性愛(者)」という概念は19世紀末頃から欧米諸国で用いられはじめたものであり、もともと日本語として形成された概念ではない。同性愛、あるいはそれを主体化する同性愛ないしレズビアン(L)、ゲイ(G)、バイセクシャル(B)、といった表現は、地理的にも歴史的にも普遍性をもつものではない。また「性同一性障害(者)」という概念にいたっては、精神医療の診断名を個人の属性として用いる日本独特の用語である。英語圏ではトランスジェンダー(T)という概念が用いられるが、日本の用語法とは全く異なるものである。そのトランスジェンダーという概念自体も、地理的、歴史的に普遍性をもつものではない。国際人権法の実践は、国際的な人権基準の設定と言う普遍的な適用を目指すため、地域的な偏りや文化的な限定性のある用語を避ける必要があった。

同性愛者やLGBTという表現は、日本国内で形成されたものではなく、欧米諸国で用いられ始めたものであり、地理的歴史的普遍性を持つものではないという理由が重要です。

谷口氏はSOGIという概念について次のように説明しています。

そこで採用されたのがSOGIという概念である。2006年のジョグジャカルタ原則は、人間の属性であるSOGIに基づいて人権が制限されてはならないことを明確にした。それが生得的か否か、変更不可能か否かといった「科学的」立証とは関係なく、また、同性愛(者)や性同一性障害(者)、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーというアイデンティティをもつか否かも問うていない。SOGIは、異性愛者や性別違和をもたない人々も含めて、すべての個人がもつ属性である。にもかかわらず、既存の人権保障の議論は、一部のSOGIしか想定してこなかった。

中略

SOGIを理由とする人権侵害は、すべての人がその対象となり得るのであることが、この表現にあらわれている。

法務省の「性的指向」「性自認」という定義をもう一度確認していただきたい。 すべての人がその対象となり得るということが分かると思います。

このように、少なくとも公的にはLGBTという特定のアイデンティティを対象とするのではなく、すべての人の「生きづらさ」を救う方向に動いているということが分かります。

現在の国連や法務省と異なる「性的指向」「SOGI」の理解

「性的指向」という概念自体、揺れ動いてきたという歴史があります。国連や法務省が整理したような理解以外にも、「ある類型の(カテゴライズされた)セクシュアリティ」と理解していた時期があり、また、現在でもそのような用法で使う人も居るでしょう。

そういう用法は、間違いではありません。しかし、以下のように注意喚起がなされており、LGBT研究者の中では少なくともこのような理解が共通認識としてあるようです。

はじめてのジェンダー論 加藤秀一 49頁以下

ここで性的指向という概念の限界にも注意を促しておきたいと思います。まず、すべての人が異性愛/同性愛/両性愛といった主要なカテゴリーのどれかに必ず当てはまるというものではありません。ー中略ーそもそも人間のセクシュアリティをわずか数種類にすっきり<分類>できると思い込んでしまうなら、それは間違いです。もう一つ、性的指向とはセクシュアリティを対象の性別という一つの観点から<分類>する方法に過ぎないことも認識しておくべきでしょう。

「性的指向」を「ある類型のセクシュアリティ」と解するとするならば、それは<分類>方法の一つであり、世の中の事象を「一応切り分ける」ための整理概念であると言うこともできると思います。

SOGIについても、国連や法務省のような説明と異なる理解を記述している文章に簡単に出くわします。たとえばここです

このような理解の態度は「性的嗜好」の理解においても重要です。

小括:性的指向と性自認(SOGI)が本質

私は「性的指向」という語が議論されてきた経緯をすべて詳細に把握しているわけではありません。しかし、ちょっと調べただけでも、異なる用法で用いられている場合があるということが分かります。

それらはLGBT周りを議論している中で変化、或いは分化していったものであると思われますから、間違いと言い切るのは控えるべきだと思います。こういった類の話は、あらゆる分野の用語の理解についても頻繁に発生しています。

ただ、その中の一部には、用語の意味を都合のいいように変容させることで議論を混乱させ、自己の土俵に引きずり込もうとする動きもあります。「性的指向」「性的嗜好」周りの議論にも、そのような目的に出ているのではと思うような記述を目にすることがあります。

それでは、ここまで放置されてきた「性的嗜好」はどういう内容なのでしょうか?

松浦大悟氏のLGBT、「性的嗜好」に対する指摘

性的嗜好」は『"性的な興奮"を何に対して感じるか』と説明されるのが一般的です。

性的指向との違いをどう説明するのかについて、よく言われるのが「性的指向は先天的、性的嗜好は後天的」「性的指向は選択の余地がなく、性的嗜好は選択の余地がある」という説明があります。

しかし、これは一応の説明として用いられているが、現実を正しく言い表しているとは言い難いです。それは「性的嗜好」と「性的指向」がなぜ区別されてきたのかが影響しています。

「性的嗜好」か「性的指向」かは恣意的

「性的嗜好」は、発見された「性的指向」から切り離された概念です。

松浦氏が紹介する山口浩氏の「性的嗜好」に対する論考では以下のようにあります。

もともと1960年代にスウェーデンのUllerstamが、ethnic minorityになぞらえて初めて「性的少数者」の概念を提唱したとき、その中にはこれら性的嗜好に関する「少数者」も含まれていた。

要するにいいたいのは、当初は含まれていたにもかかわらず、現在、多様な「少数者」の中で一部ないし全部の性的嗜好を除いているのは、「何を守るべきか」に関する意図的な選択だということだ。

このような意図的な線引きがなされた産物が「性的嗜好」であるというのです。

山口氏はLGBTという表現についても、性的指向と性自認が混ざったものであり、セクシュアルアイデンティティが限定列挙されているだけの不十分なものであるという趣旨のことを書いています。

少年愛者を切り離したゲイ・レズビアン

また、新潮45の10月号の中で松浦大悟氏が興味深い指摘をしています。

新潮45 10月号 松浦大悟

そしてLGBTも人権の線引きをしてきた過去を持ちます。1994年、国際レズビアン・ゲイ協会は、国連に加盟させてもらうために、これまで共に活動してきたNAMBLA(米国少年愛者団体)を切り捨てます。変えられないセクシュアリティを持つという点においてはゲイも少年愛者も同じです。ところがゲイは、自分たちが一級市民として生き残るために、都合の悪い彼らを排除したのです。

命の線引き、人権の線引きは、常に恣意的であり政治的です。 

現在でこそLGBTという一つの性的指向+性自認の区分けのまとまりに一応落ち着いています。しかし、ゲイやレズビアンたちは以前には、現在において「性的嗜好」に分類される少年愛者と一体となって活動してきたという事実があります。

結局のところ、何が性的指向か性的嗜好かは、恣意的に決定されてきたというのが実情であり、後から「先天後天・選択可能性」と理由づけして説明してきたということでしょう。

松浦氏の記事は杉田氏の主張に対する反論や提案に加え、LGBT界隈の動きについての重要な指摘も含まれています。

「性的指向」「性的嗜好」が生まれた歴史:なぜ区別するのか?

先に述べた通り、「性的嗜好」は公的には用いられていない用語であり界隈の論者の中でも明示的に論じている人は少ない。そのため、「性的嗜好」についてセクシャルマイノリティとして語っているマサキチトセ氏を参考にしていきます。

マサキチトセ氏の「性的指向」「性的嗜好」の説明

やはりマサキチトセ氏も、「性的指向」と「性的嗜好」を峻別することはできないとしています。とはいえ、何らの前置きも無く同一視することに対しても批判をしています。

「性的指向」が生まれた歴史

マサキチトセ氏がWezzyに寄稿した記事「ダイバーシティは「取り戻す」もの 差別の歴史の中で生み出された”性的指向”と”性的嗜好”の違い」では、「性的指向」と「性的嗜好」の区別について、「性的指向は差別の歴史が生み出した」と題して近代以降の出来事を以下のように指摘しています。

男性が男性と性愛関係を結ぶのは趣味のようなものではなく人間としておかしい、とされるようになったのだ。それが、性的嗜好とは別のものとしての「性的指向」の歴史の始まりである。

中略

 それ以来同性愛は、個人の重要な特性/属性とみなされるようになり、異常な精神を持った人間の持つ性愛として扱われたり、犯罪者の持つ性愛として扱われたりといった歴史を歩むことになった。現代社会で私たちが経験する同性愛者差別の歴史の原点は、「性的指向」概念の発明にあったのだ。

この辺りは、ツイッターの方がより詳細に書いています。

マサキチトセ氏は小川榮太郎氏と異なり、LGBTという概念規定を承認しています。

しかし、それは「差別の歴史」 の中で「性的指向」と「性的嗜好」が区別されたことを逆手に取ってセクシャルマイノリティが活動してきた歴史を尊重するから、と言っています。

マサキチトセ氏はこのような歴史は日本国も同じであるという前提で論じているようです。

しかし、小川榮太郎氏は異なる見解です。

小川榮太郎氏は日本における「差別の歴史」を否定

新潮45の記事でも触れており、アベプラに出演したときもそうですが、小川榮太郎氏はそもそも日本における性的少数者への「差別の歴史」を否定しています。これは、欧米であったような性的少数者に対する迫害との比較において、です。

現代の基準に照らせば差別に相当することはあったでしょうが、そのように現代の基準を過去に当てはめて論じることに意味はありません。

欧米における性的少数者差別の歴史

19世紀イギリスやドイツでは男性同士の性行に対して刑罰が科される立法がなされました。

ナチスが同性愛者に逆三角形の目印をつけて管理し、虐殺行為を行ったとされています。

そして1960年代アメリカでは、ゲイバーに対して警察が不当に立ち入り検査をするなどの迫害をしていました。酒類販売管理法違反という名目をでっちあげて、ゲイであることを問題視して営業妨害をしていたということです。

21世紀が近くなって「性的少数者の人権」というものが意識されるまでは、たとえばゲイであることが分かると性犯罪者予備軍のような扱いを受けていました(だからこそ性的少数者の「人権」という発想になる)。

このような歴史は日本にあったでしょうか?

或いは、迫害の歴史はなくとも、「性的に抑圧されていた」と言われることがありますが、本当にそうでしょうか?

日本における同性愛の歴史

日本における同性愛の歴史について記述した本はいくつもありますが、私が興味深いと思ったのは「同性愛をめぐる歴史と法 三成美保編著」です。

こちらの第四章「クィアの日本文学史 : 女性同性愛の文学を考える」では、木村朗子が平塚らいてうの「青鞜」における女性の同性愛描写などについて触れています。

日本における同性愛と言うと、「男色」「衆道」が真っ先に想起されると思いますが、女性の同性愛が文章や挿絵として記述されていたという歴史があったということは重要だと思います。

「差別の歴史」に基づいた議論との平行線

私が上記に挙げたような事を把握しているかは不明ですが、小川榮太郎氏が性的指向と性的嗜好を意図的に区別していないのは、このような日本の歴史的事実の把握があるからだと思われます。

マサキチトセ氏が「差別の歴史」 の中で「性的指向」と「性的嗜好」が区別されたと指摘しているように、LGBTという概念規定は「そのような歴史」を下敷きにしているからです。

他方、我が日本国はどうなのか?については争いはありますが、小川榮太郎氏は『そのような歴史的事実は無い、だからLGBTという概念規定をする前提が無い、したがって、性的指向と性的嗜好の区別はする必要は無い』という見解なのです。

そのような論理ルートを取っている者に対して「いや、性的指向の定義はこうで、性的嗜好とはこういう基準で違いがあり…」などと言っても、議論が噛み合うわけがありません。そもそもそういった用語が出てくる前提となる歴史を否定しているのですから。

小川榮太郎氏を攻撃する者がするべきことは、「小川氏のような歴史観は間違っている、実際には日本国においてはこれこれこういうことがあり…」ということを実証することです。そうでなければ反論になりません。

それが面倒だからやっていないだけなのではないでしょうか?

まとめ:新潮・小川を否定する前に松浦大悟を読め!

小川榮太郎氏に対して『「性的指向」と「性的嗜好」の区別がついていない、不勉強だ!』と喚いているだけでは「生産性」がありません。そもそもLGBT概念を承認している者からですら、「性的指向」と「性的嗜好」を峻別することは不可能だし、するべきではないと言っているのに。

本当にLGBTという概念規定が必要であり、小川氏が明らかに間違っているのであれば、それを指摘すればいいだけの話です。まさに「論難」すればいい。しかし、自分たちが依拠するフィールド(人によっては学問領域全体)そのものを覆されているので、直視できずに「論評に値しない」と逃げることしかできないのでしょうか? 

松浦大悟氏のように、杉田水脈氏とは異なる見解でありながら(そして特別企画の論者とも多くは異なる見解であろう)新潮に寄稿し、杉田氏の記述を具体的に指摘しながら(そして外れの無い解釈をしながら)その是非を論じ、現実を動かすために建設的な提案をしているのには頭が下がります。このような行動こそが本来の「言論」ではないか?と思うのです。

このエントリも松浦氏の行動に「あてられた」結果です。