事実を整える

Nathan(ねーさん) 法的観点を含む社会問題についても、事実に基づいて整理します。

裁判官訴追委員会への罷免要求署名は弁護士への大量懲戒請求と同類:父親による強制性交容疑事件の無罪判決で

f:id:Nathannate:20190414004947j:plain

名古屋地裁で19歳の娘を準強姦したとして起訴された父親に無罪の判決がなされた件について、裁判官訴追委員会への請求をするに際して署名運動が行われるという事態が生じています。

弁護士への大量の不当懲戒請求の判決が出たばかりですが、この件も同根だと思います。

名古屋地裁岡崎支部判決の概要

  1. 被害者は19歳だったので18歳以下に適用される刑法の監護者わいせつ・監護者性行等罪が適用されない
  2. 暴行・脅迫は認定できなさそうなので強制性行等罪(従来の強姦罪)も適用できない
  3. そこで、検察は準強制性交等罪(従来の準強姦罪)で起訴した
  4. しかし、構成要件である「抗拒不能」が認定されず、無罪となった。

詳細は以下の弁護士が書いた記事を参照してください。

19歳の娘に対する父親の性行為はなぜ無罪放免になったのか。判決文から見える刑法・性犯罪規定の問題(伊藤和子) - 個人 - Yahoo!ニュース

「暴行脅迫」や「抗拒不能」の構成要件については立法課題が指摘されていたところ、先般の刑法改正時には文言改正はなされず、代わりに附帯決議が成立しています。

刑法の一部を改正する法律案に対する附帯決議

二 刑法第百七十六条及び第百七十七条における「暴行又は脅迫」並びに刑法第百七十八条における「抗拒不能」の認定について、被害者と相手方との関係性や被害者の心理をより一層適切に踏まえてなされる必要があるとの指摘がなされていることに鑑み、これらに関連する心理学的・精神医学的知見等について調査研究を推進する ー以下略ー

また、法務省の法制審議会の資料においては抗拒不能の認定例が挙げられており、その中には比較的簡単に「抗拒不能」を認定しているものもあり、今回の事案も裁判体によっては判断が変わっていた可能性があります。

つまり、本件は法律の規定がおかしいか、現行法のままであっても「抗拒不能」の解釈・認定がおかしいと言い得る事案ではあるということができます。

今回の事案では理想論としては父親に刑事罰を与えるべきだと考える人が100%だと思います。しかし、おかしいと言えるとしても、それは上訴制度の中で上級審の審判を仰ぐべき事柄でしょう。

裁判官訴追委員会と弾劾裁判所の憲法・法律上の根拠

日本国憲法

第六十四条 国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。
2 弾劾に関する事項は、法律でこれを定める。

弾劾裁判所については国会法に定めがあります。

国会法 第十六章 弾劾裁判所
第百二十五条 裁判官の弾劾は、各議院においてその議員の中から選挙された同数の裁判員で組織する弾劾裁判所がこれを行う。
○2 弾劾裁判所の裁判長は、裁判員がこれを互選する。
第百二十六条 裁判官の罷免の訴追は、各議院においてその議員の中から選挙された同数の訴追委員で組織する訴追委員会がこれを行う。
○2 訴追委員会の委員長は、その委員がこれを互選する。
第百二十七条 弾劾裁判所の裁判員は、同時に訴追委員となることができない。
第百二十八条 各議院は、裁判員又は訴追委員を選挙する際、その予備員を選挙する。
第百二十九条 この法律に定めるものの外、弾劾裁判所及び訴追委員会に関する事項は、別に法律でこれを定める

「別の法律」として裁判官弾劾法があります。

裁判官弾劾法

第二条(弾劾による罷免の事由) 弾劾により裁判官を罷免するのは、左の場合とする。
一 職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠つたとき。
二 その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があつたとき。

第五条(裁判官訴追委員・予備員) 裁判官訴追委員(以下訴追委員という。)の員数は、衆議院議員及び参議院議員各十人とし、その予備員の員数は、衆議院議員及び参議院議員各五人とする。

訴追委員会が罷免の訴追の決定をすると、弾劾裁判所に訴追状を提出します(弾劾法14条1項)。弾劾裁判所の裁判は一審限りで、不服申立の方法はありません。

裁判所法では弾劾裁判所の罷免の裁判を受けた者は裁判官に任命できないとあります。

裁判所法 

第四十六条(任命の欠格事由) 他の法律の定めるところにより一般の官吏に任命されることができない者の外、左の各号の一に該当する者は、これを裁判官に任命することができない。
一 禁錮以上の刑に処せられた者
二 弾劾裁判所の罷免の裁判を受けた者

つまり、裁判官訴追委員会への罷免要求とは、国会議員という立法府の者に対して、裁判官を辞めさせることを求めることです。

裁判所という司法機関に対して求めるものだという勘違いが一部で見られるため、ここは改めて提示します。

裁判官訴追委員会への罷免要求と署名キャンペーン

  1. 職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠つたとき。
  2. その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があつたとき。 

裁判官訴追委員会への罷免要求に基づく裁判官の罷免は上記2パターンしかないです。

では、署名キャンペーンを行ってる者はどういう主張をしてるのでしょうか?

この判決は児童虐待、とりわけ親からの性的虐待を容認するものであり、今もどこかで父親からの性的虐待を受けている子ども達や、性的虐待等を受けてきて心が傷ついた人々に絶望を与え、セカンドレイプとなる判決です。

また、性的暴行を軽く考えることを助長させるものでもあります。

ー中略ー

誤った司法判断はこれまでもありましたが、これほどまでに事実認定しながら法の適用に対して人としての「常識」「公序良俗」からかけ離れて「無罪」とした判決が出されることはありませんでした。

まず、キャンペーン立ち上げ人は判決そのものを弾劾の理由にしています。

なにがどう職務上の義務に著しく違反したのかや、どう裁判官としての威信を著しく失うべき非行があったのかがまったく論じられていません。

結局のところ「常識」という言葉をあげてますが、自分の感覚にとっておかしいから裁判官の判決はおかしいと言っているに過ぎません。同意見の者がどれだけ居ようとも、それは無関係です。

このキャンペーンを始めた者は法的素養のない一般人でしょうから百歩譲ってこのような物言いが許されるとしても、何がどう「常識」なのかを論じるべきでしょう。

相当の根拠なく司法制度を利用する者という意味では、弁護士に対する大量の不当懲戒請求を行った事案と同じです。 

弁護士に対する大量の不当懲戒請求の事案

f:id:Nathannate:20190414015048j:plain

弁護士への「大量」不当懲戒請求:余命信者と佐々木・北弁護士の和解の論点

【余命大量不当懲戒請求】弁護士への懲戒請求の手続と弁護士自治1

弁護士への大量不当懲戒請求事案は、弁護士会が朝鮮学校の無償化を国に求める声明をしたことについて、それに賛同した者に対して行われました(その主張の当否はともかく、なんら違法な行為ではないし表現の自由がある)。

中には賛同してない弁護士も対象になった上、上図のような内容での「懲戒請求書と題する書面」が送付されていました(信じられないことに、こういう怪文書も懲戒請求の手続として弁護士会から弁護士に送付されている)。

結果は懲戒請求者の敗訴であり、複数の弁護士による判決が出そろってきています。

参考:弁護士に対する大量懲戒請求訴訟の結果:佐々木亮・北周士弁護士の場合

この懲戒請求は、いたずらに司法界隈のリソースを削ぐという意味で公益に反する行為であると言えます。

裁判官訴追委員会へのいいかげんな論旨による罷免要求も同類でしょう。

なお、弁護士に対して大々的に懲戒請求がなされたのは光市母子殺害事件が有名です。

「常識」に反するという理由での訴追委員会への弾劾要求がなぜ悪いのか:司法権の独立

「司法権の独立」という憲法上の根拠のある規律があります。

裁判官(又は裁判体)は、他の裁判所組織や外部からの意見に左右されずに判決を為すこととするものです。対内的独立と対外的独立が含まれています。

今回の事案は対外的独立を保つべき事案と言えるでしょう。

また、今では信じられない話ですが、過去には参議院法務委員会が刑事裁判の判決の量刑が軽いと問題視して被告人や検察官に対してまで証人尋問をした例がありました。

結局これは各界からの猛抗議が起こり、行われなくなりました。

ただ、「参議院が違法である」などのような明確な判断が出たわけではありません。

参考:国政調査権の限界:浦和充子事件等の関係者を証人喚問した参議院法務委員会と司法権の独立 

今回の訴追委員会への罷免要求も、司法判断に介入しようとする点では同じでしょう。

蛇足ですが、名古屋地裁の判決は3名の「裁判体」によって行われています。

裁判長は個人的には有罪にしたかった可能性もあります。

ですから、判決を理由に裁判官の罷免を要求することは不当であることが形式的に明らかです。

「原則として」の勘違い

裁判官訴追委員会の説明では「判決など裁判官の判断自体の当否について、他の国家機関が調査・判断することは、司法権の独立の原則に抵触するおそれがあり、原則として許されません。」としています。

原則として」とあることから、「例外があり得る」と考える者が居ます。

しかし、ここで念頭にあるのは浦和充子事件のような国家機関の介入の話です。

先述の浦和充子事件の場合は、議院の国政調査権に基づく調査と司法権の独立の規律が真正面からぶつかった事例です。他の国家機関に認められている権能に基づいて判決に関与する場合にはその適否が不確定です。

ですから「原則として」という文言が使われているに過ぎません。

事件当事者ではない第三者たる個人が訴追委員会に対して請求する場合に正当だと認められる場合などというのは、在り得るのでしょうか?私はそんなものはありえないと思いますし、あってはならないことだと思います。

父親による準強姦容疑事件の無罪判決:立法や解釈変更が行われるべき

今回の事件は署名を行っている者の気持ちはわからないでもないです。

それは「父親が無罪になるのはおかしい」という感覚を誰もが持ってるからでしょう。

ただ、それと裁判官の身分を剥奪する罷免請求が妥当であるかどうかとは別の話です。

キャンペーンが「当該判決の問題点を受けて立法措置を訴える請願」等であれば、もっと多くの指示を得られたハズです。

問題のある司法判断が出ると裁判官個人が槍玉に挙げられることがあります。

しかし、それは現行法制度を形作っている司法・立法・行政、つまり国家機関全体の問題であることが多いです。

自己の感情のままにむやみに行動することが肯定されるのではなく、本件の本質論にもっと目が向けられるべきだと思います。

以上